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 “部屋”は、この周辺で飛び抜けて高い(多分、二重の意味で)、高層マンションの最上階に近い一室だった。

 彼女が立ち止まったドア、横のインタフォンの上に『三野』という表札が掛けてある。

「自宅?」

「そう。でも、一人暮らしだから大丈夫」

 別に彼女の家族に会うことを心配して尋ねたわけじゃなかったけれど、何となくほっとした。でも考えてみれば、当然だよね、と思った。

 最初は予想外の出来事に思考停止していたけれど、彼女が元の目的を果たすつもりなら、“場合によっては最後まで”いくわけだ。まさかご両親公認ということはないだろう。

 そこでようやく、“三野さんと”、“最後まで”、ということの意味をちゃんと認識して、軽く混乱した。

 それは、彼女がレズかも知れない、とか、クラスメイトに買われるという事態の異常さとか、色々あったけれど、何よりも、男に身を委ねる想像をしてもぼんやりとした嫌悪感しかなかったのに、その相手が彼女だと考えただけで、何か全く別種のことのように思えて、心がそれまでになくざわめきたつのを感じている、自分自身に対しての困惑だったように思う。

「どうぞ」

 その声に我に返ると、開いた扉を押さえたままの三野さんが私を待っていた。

 促されるままに扉をくぐる私の頭の中で、ぐるぐる、ぐるぐると、『もうどうにでもな~れ』のアスキーアートがステッキを振り回し続けていた。


 マンションの外観から想像はしていたけれど、それは、かなり広い部屋だった。

 だけど、通されたリビングに、必要最低限、といった感じに配置されている家具と、それによってより強調される空間が、此処が独りの住処だと主張しているみたいだった。

「飲み物、紅茶で良い?」

「ええ」

 不意に問われて咄嗟にそう答え、リビングのソファに腰を下ろしながら、お嬢様かよ、と、自分のした返事にツッコんだ。特に三野さんが上品な言葉遣いをしたわけでもないのに。きっと、このマンションの高級感に、変な感化のされ方をしたのだろう。

 キッチンのカウンタの向こうで、彼女が電気ケトルに水を足してセットし、ティーポットと茶葉を用意するのを、ぼけっと見ていた。

 やがて、彼女が紅茶を淹れたカップをトレイで運んできた。私が「ありがとう」と言うと、私の気のせいかも知れない、と思うくらい少しだけ、微笑んでくれた気がした。

 きちんとポットを事前に温め、蒸らし時間もきちんと計って淹れられた紅茶は、素直に、美味しい、と思えた。

 お互い無言のまま、広い部屋に、私が紅茶を啜る微かな音と、彼女が紅茶を冷まそうとする吐息の音だけがしていた。

 猫舌なのかな、なんてことを考えながら、盗み見るように彼女の方を窺う。

 目鼻立ちや顎のラインはシャープな印象で、私からしたら羨ましいくらいの美人だな、なんて、ぼんやりと思っていたら、不意に、カップに息を吹きかけ、そしてそのカップをそっと啄むように咥える、その彼女の唇にばかり注目している自分に気付いて、急に、恥ずかしいような、落ち着かないような、居たたまれないような、よく分からない気持ちに襲われた。そして。

「どうして、こんなことをしてるの?」

 気付けばそう、口にしていた。そして言ってから、お前が言うな、と思った。

 でも、考えて口にしたわけではないその言葉は、たぶん、エンコー相手として彼女が私の前に現れた瞬間から、私の心にわだかまっていた気持ちだったのだと思う。

 彼女は虚を衝かれたように動きを止めて、私を見て少し何か考えていたけれど。

「……そうだよね、鈴川さんの話を聞くなら、私の話もしなければアンフェアだよね」

 そう言った。

 私は、こちらはお金をもらうんならアンフェアじゃないよ、とは思ったけれど、黙っていた。

「じゃあ、ちゃんと約束してくれる? 鈴川さんのこと、どうしても言いたくないこと以外は、私に教えてくれるって」

「うん、約束するよ。それが嫌なら、最初からここに来てないし」

「……分かった。じゃあ先に、私の話からしちゃおうか」

 そして彼女は、それを話してくれた――。



 彼女は幼い頃から、実の父親から“様々な”暴力を受けていた。

 小学校三年生の頃、そんな状況に耐えきれなくなった母親が、父親と、そして、母親自身を、刺した。

 両親を喪い、親戚夫婦に引き取られることになった彼女は、その家で、後の保護者が「奴隷のよう」と形容するような扱いを受けて育った。

 彼女が中学一年生の時、親戚の男は高速道路で自らの運転する車でブレーキも掛けずにトラックに突っ込み、死んだ。事故か自殺かは分からない。

 そのすぐ後、親戚の女が業務上横領の罪で逮捕された。彼女のことは、その女の働いていた企業グループの重役の男が身柄を預かり、女の実刑判決後、彼女を養女とした。

 そこで彼女はようやく、人間としての“普通”を学んでいった。

 高校生になった彼女は、“自分で考え行動する”能力を高めるために、一人暮らしを望み、養父はそれを了承した――。


 彼女は、そういったことを、もう少しだけ具体的なことも交えて私に話してくれた。そして最後に、こう付け加えた。

「普通、って事を理解していくに連れて、私の心の中の、どうしても埋めようのない空白の輪郭がはっきり浮かび上がってくるような、そんな感覚を覚えるようになった。一人暮らしは、環境を変えたら、その空白の正体が解るかも知れないと思ったから、っていう理由の方が大きい。でも結局、私はそれをまだ理解できてない。だからもっと、私がしたことの無いことをしてみなくちゃ、って思って、今日、初めて女の子と関係を持ってみようと思ったの」

 人付き合いが苦手そうな、愛想の無い子。そんなイメージしか持ってなかったクラスメイトの、重すぎる過去。

 その話を聞き終えて、戦慄が走る、というのは、こういう時に使うのではないか、と思った。

 彼女の境遇に、怒りや悲しみを覚えた。だけど、それ以上に私が恐ろしいと思ったのは、彼女がその、つらかったはずのことを、そしてその後の、良かったはずのことも、どちらも同じように、ただ淡々と、無感情に私に語っていた、そのことだった。

 彼女の育った環境が彼女から感受性を奪ったのか、彼女が自分を護るために自ら感受性を殺したのか、私には理解が及ぶべくもない。

 ふと、私がさっき、彼女が微笑んでくれたのかも知れないと思った表情は、彼女にとっては、精一杯の笑顔だったのかも知れない。なんてことを勝手に思って、目の奥にツン、と、私は勝手に泣きそうになった。そして、その、私の自分勝手さを、嫌悪した。

 それでも。

 例えそれが、私の勝手な同情でしかなくて、彼女はそんなこと望んでいないとしても。それでも私は、彼女のために何か力になりたい、そう思わずにはいられなかった。

「……三野さんの話の後じゃ、大したことないかも知れないけど――」

 私は、彼女の話を聞いて、彼女に対して掛ける言葉を見つけることが、できなかった。

 だから私は、ただ約束を果たすべく、私のことを、話し始めた――。


 物心ついた頃、家庭内ではいつも、父と母が、喧嘩をしていた。

 お互いに手を上げるようなことはなかったけれど、二人はしょっちゅう不機嫌で、そんなときに私が何かを言うと、怒鳴るとまではいかなくとも、強い口調で返されて、私はいつもビクビクしていた。そしていつしか、私は自分の思いを内に押し込め、ただ“良い子”でいようとするようになっていた。

 私が家事などを一人でこなしてしまうようになった小学生高学年の頃、家庭内の雰囲気は一変していた。

 怒鳴り声が飛び交っていたはずの家の中は、静寂が支配していた。二人とも、仕事を理由に“家庭”から、遠ざかっていたから。

 二人が、ただ同じ場所にいるのを見ることすら、稀だった。

 それでも私は、“良い子”であり続けようとした。それによって私は、どうなることを望んでいたのか、今では思い出せないけれど。

 中学生になって、ほんの少しだけ世界が拡がって、その分だけ、私は知識を広げていった。

 そして中学二年の時、その気付きは天啓のように、突然私の頭の中に閃いた。

 ――自分勝手だったんだ。

 父も、母も、大切にしたい主体は、自分自身だった。自己中心的と言い換えてもいい。

 だからお互いに、相手を、自分の思い通りにしようとして、だけどそんなことは出来るはずもなくて、ぶつかりあうばかりだった。

 多分、そんな二人をつなぎ止めていたのは、“子供”の存在だ。“私”じゃなくて、“子供”。二人とも我が身かわいいから、親失格、人間失格なんてレッテルを貼られるのは耐えられないだろうから。

 その子供が自分達から遠ざかるように、大抵のことを自分でこなすようになっていくと、彼らは、自分が人間として、ちゃんと誰かを愛せるということを証明しようとするかのように、その相手を、外に求めた。二人が、二人とも。

 根拠があるわけじゃない。だけど、あの寒々しい家の中で、何となく、そんな空気を感じることがあった。女の勘、というものが私にも備わっているなら、きっとそれだ。

 私はそんな家に居る時間を減らすため、高校生と偽ってバイトの面接を受けた。昔から背は平均より高かったし、自然な感じで少し大人びて見えるように、メイクも勉強した。

 だけど、そんな子供の背伸びは、簡単に見破られた。だけどその人は、分かった上で、私を受け容れてくれた。それが今のバイト先のオーナだった。

 そうして、家にいる時間は減ったけれど、それでも帰らないわけにはいかない。

 その、家で過ごす時間は、日々の中で、少しずつ、少しずつ、心に何か汚泥のようなモノを蓄積させて、こびりついたそれは叫んでも喚いても決して剥がれることはなくて。

 そして最近になって、私は、このまま進んだその先に、自分の暗い未来しか想像できなくなって、ただひたすらに恐くなった。

 だから家出を決意した。だけど、どんなに家事ができようが、自分で働いて稼ごうが、所詮私は子供だと思い知るだけだった。

 そして私は、あのメモを見つけた。

 私自身はっきり分かっているわけじゃないけれど、もしかしたら私は、そのどうにもならない鬱屈した思いを、自分の力だけでは何も成せない弱さを、自分ごと壊してしまいたかったのかも知れない――。


「三野さんの境遇と比べたら、ずっと恵まれてると思うけど。それでも、私にとっては耐え難くて」

「……うん。鈴川さんのつらさを分かるとは言えないけど、そのつらさが他の誰かと比較して慰められる類いのものじゃないっていうのは、わかるつもり」

 その三野さんの言葉は、さっきと同じように淡々と、ただ事実を述べているかのような抑揚で語られて、それが私には、何となく心地よかった。

「……ありがとう」

 だから、自然にそう口にしたのだと思う。

「こっちこそ。さっき鈴川さんが私の話を聞いて、何も言わないでくれたの、不思議と嬉しかったから」

 間違えなくて良かった。その言葉を聞いて、そう思った。

 私は自分勝手な気持ちで何も言えなくなっただけだと思っているけれど、それが彼女を傷つける結果にならなかったことに、少しだけ、救われたような気さえした。

 だからだろうか。

「三野さん、もし嫌じゃなければだけど、今日の報酬の代わりに、私を此処に住まわせてくれないかな?」

 少しでも長く彼女の側にいて、少しでも彼女の力になりたい、そんな想いが私を突き動かしていた。――それは、彼女のためと言いながら、自分のためかも知れない、そんな考えも頭の片隅に自覚していたけれど。

 それでもそれは、彼女のために、という気持ちも絶対に本物だと断言できる、強い想いだった。


 そうして、私と彼女の、二人暮らしが始まった。


 ――これは余談かも知れないけれど。

 彼女と一緒に住むことになって、それまで必要最小限だった着替えなどを取りに家に帰ったところで、母親に出くわした。

 私が、広い家に一人で暮らしてる友人と、一緒に暮らすことになった、と言うと。

「……分かったわ。定期的に簡単で良いから連絡はちょうだい。それと、店長さんにちゃんと御礼を言っておきなさい」

 ただ、そう言われた。聞けば、私の家出一日目にはもう「しばらくウチで預かる」という連絡があったそうだ。

 敵わないな、と思った。そして、私にとっての幸運(若しくは、悪運)は、オーナと出会ったことだ、と思った。

 だって、あのアプリに登録する時に設定する条件次第で、私はもっと“危ない橋を渡る”事もできたはずなのに。

 そうしなかったのは、あのメモを見つけて私の中の天秤が駄目な方に大きく傾いた時、反対側に無視できない重みを持ってあの人の存在があったからなのだろうと、そんなイメージが浮かんだ。

 あの人は、「店長」と呼ばれると「オーナと呼べ」なんて言う、変に子供っぽいようなところもある人だけど。

 ああいう尊敬できる“ちゃんとした大人”に出逢ってしまったからこそ、私はこの現実に絶望しきれなかったのだろう。


 ともあれ。

 変な始まり方ではあったけれど、私と彼女は“友人”となった。不器用な私達は、お互いを名前で呼び合うことで、その証とした。

 その友人という関係すらも、美空にとっては“したこと無いこと”で、私は、そんな些細なことでも美空の力になれたことが嬉しかったし、自分がその相手であることも単純に嬉しいと思っていた。――それを嬉しく思っている時点で、私にとっての美空が、既に“友人”の枠を大きく越えてしまっていることなんて、まだ、気付きもせずに。


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