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 夢の中をたゆたう意識が、遠くに声を聞いた気がして、重たい瞼を開く。

 目に映るのは、いつもの部屋。

 二人の部屋。

 今の私の、帰る場所。

 開きっぱなしの、リビングに続くドアから聞こえてくるのは、テレビからの音声だった。

 いつもと変わらない、今はもう、日常になった光景。

 その安心感と、身体を包む温もりが、再び意識を微睡みへと引き込もうとする。

 でも、殆ど無意識に鼻まで引き上げたコンフォータから、昨晩の二人の“残り香”が漂ってきて、私の意識は叩き起こされた。

 あの時はただ夢中だったけど、こうして思い返すと、顔が熱くなる。

 でも、終わってみればやはり、あれは夢のような時間、そして、夢のような瞬間、だった。

 ――あれは、本当にあった事なのか?

 不意にそんな不安に駆られて、ベッドを飛び出すように降りて、リビングへ向かった。

「おはよう、玲実」

 部屋を出た私に気付いた美空が、いつもと同じ声を掛けてくれる。

 ちゃんと、そこに、いてくれた。

 そんな安心感に脱力しながら、私も「おはよう、美空」と、いつもと同じ返事をした――。



 私の家出計画は、三日と保たず破綻しようとしていた。

 まず、カプセルホテルやビジネスホテルには泊まれなかった。未成年の宿泊には親の同意が必要だったし、年齢を詐称しても確認されればアウトだ。何より、家に連絡されるのだけは避けたかった。

 とはいえ、これは予想の範疇だった。でも、もっと緩いと思っていたネットカフェや漫画喫茶でも同様のチェックがあった点は、甘く考えていた。

 だけど、よく考えれば当たり前だし、少し調べれば分かったことだ。“家出計画”なんて自分では言ったけど、計画、なんてとても言えない杜撰さだ。

 年齢確認の甘い所、または全く無い所もあるのかも知れないけど、そうなると今度は、ちゃんとしてない事が不安になる。――後から振り返ってみれば、この時はまだ冷静な判断ができていたのだと分かる。

 結局、バイト先に泊めてもらえることになった。

 バイト先とはいっても、民家を改装した喫茶店の一室で、バックヤードはほぼ普通の家のままだし、浴室もある。オーナが結婚前は自宅兼店舗としていたのだから、当然ではあった。

 おかげで家出一日目は快適に過ごせたけれど、いくら「ちゃんと掃除をしてくれるなら、しばらくはいてくれて構わない」と言ってもらえたからといっても、光熱費なんかもタダじゃないんだし、これまで散々お世話になってきた上さらに迷惑を掛けるのは気が引けた。

 だから二日目、学校へ向かう道すがら、クラスメイトに頼ることを考えたけれど、深い付き合いは避けてきたせいで、泊めてくれ、と言えるような友人は思い当たらなかった。

 決して、ぼっちでは無い。と、自分では思ってはいる。

 心の中では、どうでもいい、と思っている時も、それなりに表面に出さずに会話に参加しているつもりだし、たまには放課後の寄り道なんかにも付き合ったりする。

 ただ、誘いの多くはバイトを理由に断るし、実際そうできるようにシフトを多めに入れてもらっている。

 何人かは店で顔を合わせたこともあるので、私が嘘を吐いているわけではないと知っているだろうから、嫌われてはいない、と思う。

 いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、泊まれる場所の当てが無いというのが問題だ。

 まさか学校の中に隠れて一晩過ごすわけにもいかないし、野宿なんて論外だ。

 ――結局、名案の浮かばなかった私は、名ばかりの“計画”を完全破棄して、その後もバイト先のお世話になった。



 学校へは行く。家に連絡されたくないから。

 逆に、親が私の不在を不審に思って学校に連絡しても、私が登校していることが分かれば、万が一にも捜索願などは出されないのではないか、という考えもあった。

 結局、オーナの好意に甘えて、五日も職場に寝泊まりさせてもらっている。そろそろ積もり積もった申し訳なさが爆発しそうだけど、家に帰るのは何が何でも嫌だった。

 後から思えば、どうしてそこまで頑なだったのか、分からない。もっとしっかり準備して、次のチャンスを待つ選択もあったはずだ。

 でもその時は、とにかく家に帰るのが嫌だった。嫌という言葉をいくつ並べても足りないくらい、吐き気がするほど嫌だった。

 だから、私はそれを見つけた時、利用することを躊躇わなかったのだろう。


 “それ”は、大雑把に言うなら、特殊なマッチングアプリ、だった。

 正確には、私が見つけたのは、そのアプリのダウンロードアドレスが書かれたメモ、だ。

 掃除の時間、じゃんけんに負けてゴミを焼却炉へ持っていき、戻ってきた誰もいなくなった化学実験室で、落ちている二つ折りの小さい紙を見つけた。

 掃除を終えたばかりで床に落ちているのだから、きっとさっきまで一緒だった誰かが落としたのだろうと思って開くと、手書きのメモだった。

 そこに几帳面そうなキッチリした字で書かれていたのが、マッチングアプリの名前とアドレス、そしてその簡単な説明だった。

 ――その時の自分が、何を感じ、何を思い、何を考えたのか、自分でも覚えていない。ただ、そのマッチングアプリがどういうものなのかの簡素な説明を読んだ時、私の中で何かが切り替わったような気がする。

 それまで私の中に、自分がエンコーするなんていう考え、もっと大げさに言えば価値観、そういったものは微塵も無かった。それを言葉として知ってはいても、まるで別世界の出来事みたいに感じていた。

 でもだからこそ、実際に私の手の中にあったそれは、私にある種の衝撃を与え、ごくごく内的なパラダイムシフトのようなものを引き起こしたのかも知れない。

 ――でも、今更そんな考察をしても意味は無い。その後の事実が変わるわけでも無いのだから。

 私は、スマホにそのアドレスを記録して、元よりも小さくたたんだメモを、空のゴミ箱へ捨てた。



 土曜日の夕方だった。

 場所的には都心部だけど、思ったより人通りの少ないその駅前。そこで私は人を待っていた。

 一緒に服を選んで欲しい。拘束二時間未満、一万円から。

 要約すれば、そんな内容。それを全部信じたわけじゃないけれど、本当なら最初としては楽で良い。嘘でも、一泊できれば上出来だと思った。

 たぶん、その時の自分は、騙されて痛い目を見るならそれでも良い、そんな、どこか投げやりとも言えるような気持ちだった気がする。

 やがて現れたのは、チェックのシャツにジーンズ姿の、リュックサックを背負った小太りの男。偏見と分かった上で敢えて言うなら、オタクっぽい、自称大学生だった。

 別に、誰が選んだかなんて見ただけじゃ分からないから、自己満足と言えば自己満足なんだけどね。でも、いつも……まあ、それは別にいいか。とにかくね、別に、これで復讐できるわけじゃないけどね、僕が心の中でほくそ笑むだけだから。それでも僕には意味があるっていうかね――。

 そんな、聞いてもいない、聞きたくもない、その男の自分語りに適当な相槌を返しているうち、彼が指定したアパレルショップに辿り着いた。

 別にね、イマドキのファッションじゃなくても良いんだけどね。僕にそういうのが似合うなんて思ってないしね。そういう意味じゃ、別に、安いところでも良かったんだけど、ちょっと、見栄を張りたいっていうかね――。

 別に、が多いな。そんなどうでもいいことを思いながら、上は、厚手のカットソー、スウェットシャツ、ネルシャツ。下は、チノパン、ジーンズ。現在はパッと見、全体的に暗い感じの色味だったので、暖色系の、でも派手にならない落ち着いた感じで、値段も手頃にまとめてあげた。真剣、というほどではないけれど、これでお金をもらうとなると、雑な選び方もできなかった。取りあえず、その男は満足そうだったので、それは良かったと思う。

 そして、本当に服を選ぶだけで私は一万円を渡され、その男は帰っていった。その離れていく背中を見ながら、拍子抜けするように肩の力が抜けて、私は緊張していたことをようやく自覚した。

 そして、世の中には色んな人がいるな、と思った。


 二つ目のメッセージは、ファミレスで少し早い夕飯を取っている時に届いた。

 このアプリを利用している現役JKの話を聞きたい。勿論、プライヴァシィには配慮します。一時間程度、五千円、内容によっては増額。注文代金はこちら持ち。

 待ち合わせは割と近い、別のファミレスだった。一瞬、損をしたように思ったけれど、見知らぬ男の前で食事をする、というのは、あまり気分の良いものではない、と思い直した。

 その後にもっと気分の悪いことがあるかも知れないのに気にしてどうする、とも思ったけれど、それでも見せる隙は少ない方が良い。それは、プライドなんて口が裂けても言えない、ささやかな見栄のようなものかも知れないけれど。

 私はアプリで承諾を返して、和風パスタを平らげてから、目的地まで徒歩で向かった。



 学校の最寄り駅から二駅ほど、その駅近くのカフェ前で、私は三人目を待ちながら、先ほどのことをぼんやりと思い返していた。

 その男は自称『小説家の卵』で、別にプロというわけではなく、ネットで自作小説を公開しているだけらしい。

 援助交際っていう生々しい題材を、ノンフィクションとしてじゃなく、もっとこう、文学的に描きたいと思っていてね――。

 その男は、最初にそんなことを言っていた。そしてその後も、何度か「文学的」という言葉を使っていたのが印象に残っている。

 その、“文学”というものに特に拘っている感じに、エッチに“特別な何か”を夢見ている女の子を連想して、ひどく滑稽だと思った。

 私の話を聞く、といっても、私はその男の質問に簡単に答えていくだけだった。私は全て正直に答えたわけではないけれど、それなりには誠実に答えた。

 ――バイトしてるのに、お金が必要なの? それとも、別の理由でこんなことしてるの?

 その質問には、親が不仲で、早く一人暮らしがしたいから。そんな風に答えた。

 それはまるっきりの嘘ではないけれど、中学の時に年齢をごまかしてバイトを始めた時の理由、と言った方が近い。だからたぶん、彼の言うところの“こんなこと”をしている理由じゃ、ない。

 何でこんなことをしているのか。

 自傷願望?

 親への当てつけ?

 今までと違う自分への変身願望?

 どれも全くの的外れじゃない気はするけれど、しっくりとくる理由でもなかった。

 今、細かいの無いから、これでいいよ。そう言って私に一万円札を渡して去って行った男は、そこまでして彼の“文学”とやらで女子高生の援助交際なんてものを描くことで、何をどうしたいのだろう? “そんなこと”をする理由を、彼は理解しているのだろうか?

 ――その“理由”は、“必要”なのだろうか?

 次の相手のメッセージ。

 部屋であなたの話を聞かせて下さい。一万。場合によっては最後まで。その場合は十万まで出します。

 今まででは一番、私の想像していたエンコーっぽいメッセージ。

 私は“こんなこと”をして、“理由”を見つけられるのだろうか――?


「あの、○○さんですか?」

 俯いてぼぅっと考え事をしていた私に、女性が私のアプリに登録した名前を尋ねてきた。

「……三野、さん?」

 顔を上げて相手の顔を見て、ちょっとだけ考えて、その苗字を思い出した。彼女は、クラスメイトの女の子だった。

「あなたは……鈴川さん。えっと、ごめんなさい、人違いしたみたい」

「ううん。私が○○です」

「…………あ、メモ……」

「うん、拾って。あれ、三野さんのだったんだね。たたんで捨てちゃったけど、駄目だったかな?」

「それは構わないけど……」

 そう言って彼女は少し考える様子を見せた。

 そりゃ、こんな形でクラスメイトに会えば、言い訳なんて咄嗟に浮かぶわけもないよな。

 そんなことを考えていたら、彼女が口を開いた。

「じゃあ、うち、近くだから」

「えっ」

 やるんだ。――そう思いながら、歩き出した彼女を追った。

 非日常の中に突然現れた、クラスメイトという日常的な存在。そのリアリティで、私は我に返ったのかも知れない。

 だから。

 ――何で私はこんなことをしているんだろう。

 彼女の背中を追いかけながら、さっきまでとは全然別の意味で、そう思った。


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