ナオミ
この小説は完全なフィクションです
目が覚めると、体中からワインの匂いがした。昨夜は二人で三本ものワインを空にした。その前にも何杯かグラスで飲んでいたから、正確な量はわからない。一軒目に立ち寄ったワインバーの店員を思い浮かべる。
「どうせならいつもの人に会いたかったな」私たちのことを覚えていてくれた店員さんは昨夜はいなかった。多分、あの店に行くことはしばらくないだろう。しばらく――どれくらいだろうか。
彼とはもう十年来の付き合いだ。そのうち半分くらいは恋人同士だったこともある。そんな季節が通り過ぎても、彼が私のことを好きでいたことを私はずっと知っていた。私は別れてから二年の時間を費やして、彼との季節を思い出の奥へとしまいこんだ。
「二年もカレシがいなかったなんて奇跡的」自分の変わり身の早さに軽い吐き気がする。
どうして別れてしまったのかなど、もう定かではない。五歳も年下の彼との付き合いは、それほど急速に始まったわけでもなかった気がする。付き合い始めが絶頂だという言葉があるから、私たちは四、五年の歳月を掛けてゆっくりと壊れていったのだ。別れのときに私は、思いつく限りのひどい言葉を並べた。それが別れの礼儀だと思っていた。それでも彼は私の時間を買い続けた。そして私が興味を持ったことには何でも首を突っ込んだ。それが彼にできる唯一の愛情表現だと彼自身が思っていることを私は知っていた。
「恐ろしいお話だね」谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読んでそういった。私は「ナオミ」に憧れていた。あれほど自由奔放に生きていけるその性格を、そしてそれでも愛され続けていく人生を羨ましいと思っていた。
「こんなふうになってしまいそうな気がする」彼はそういった。私は時折悪戯に、
「ナオミ」と呟いた。いつも彼は驚愕していた。
でもそれは彼の全くの思い違いだということに、私は最初から気がついていた。だって、プロフェッサーだったのはいつでも私のほうだったのだから。私が突き放さない限り、私の「ナオミ」はいつまでもついてくる。献身的な愛を持って。まるで他に友達のいない弟のように。恐怖を覚えたばかりの小さな息子のように。
それでも「ナオミ」を手放さなかったのは、偏に私のエゴである。私の悪いところも意地悪な性格も、内弁慶なところもセックスの傾向まですべて知り尽くし、何も隠すことなどない「ナオミ」といる時間は楽だったし、正直楽しかった。
「楽なことって大切なことだよ」先に結婚していった友達はいう。私は言葉を継げなかった。三十年後、四十年後、「ナオミ」と一緒に小さなアパートに暮らし、曲がった腰でいたわりあっている姿は容易に、そして手に取るように鮮明に思い浮かぶ。しかし、それまでの間が一切ない。
休日に一緒に買い物に行く。昇進を祝ってささやかなパーティーをする。生まれたばかりの友達の子供を見に行く。お互いの親の葬式に出る――そんな当たり前の日常が、まるでスクリーンの向こうのことのように感じる。「私」という女優と、「ナオミ」という男優がただ動かされているように、決まりきった台詞を決まりきったタイミングで並べていく。全くの非日常にしか感じられないのだ。多分、はじめの別れもそれが原因だったのではなかったか。
月に一度か二度、同じ時間を共有しながら、私たちは距離を保ち続けた。時に感じる良心の呵責に気付かないふりをして、「ナオミ」が近付いてこようとすることをやんわりと拒み続けた。その後、私は何人かの男と付き合ったが、どれもたいした時間を費やすこともなくだめになっていった。誰も私を満たしてくれることはなかった。
ふとした心の狭間だったのだろうか。「ナオミ」とベッドを共にした。その日も二人ともひどく飲んでいた。しかし、酒の勢いでそうなったのではない。戻ることはしなくても、もう少し近くに距離をとろうという私の汚い考えだったのかもしれない。「ナオミ」はいかなかった。はじめて身体を重ねたときもそうだった。
鮮明に覚えている。暑い夏の日、かび臭い「ナオミ」の部屋だった。パイプのベッドがひどく軋むのが気になった。何度挑戦してもだめになる自分に、「ナオミ」が眉尻を下げて、申し訳なさそうな情けなさそうな顔をした。
「仔犬のようだな」と思ったことを今でも昨日のことのように思い出せる。
今度はそれとは違った。溢れ出る愛情のなせる業ではなかった。私たちの間に流れた五年の歳月が、見えないどこかを蝕んでは何事もなかったかのように繕った。その仕事っぷりはあまりにも見事で、まるで最初からそうあったように、織りたての布のように柔らかくそして心地が悪かった。私は「ナオミ」を手放すことを決めた。
飲みながらした話は、正確なところまでは覚えていない。それでも私には何のためらいも、心配もない。誰でもない「ナオミ」にする話は、それがどんなに酒が入っていようとも、どんなに体調が悪いときであろうとも、頭の中で考えてきたことだからだ。
「私を忘れて自分の人生を歩いたほうがいい」全体的にはそのようなことをいった。「ナオミ」も納得したのだと思う。ちゃんと、傷つける痛い言葉も使いながら話をした。それが礼儀だから。
「風邪引いたのかな」布団の中にいても寒い。私は眠ったり起きたりを繰り返した。二人してあんなに泣いたのに、まだ喉の奥に何かが引っかかっているようにわだかまりがある。
「切ないのは運勢のせいだ」と占いを見てみるが、「絶好調」の文字が目に入り自嘲してそのまま眠りにつく。また目が覚めるとアルコールを中和するための水分を一気に身体に流し込みまた眠りにつく。夕飯だと起こされて、いつも見ているテレビだけは見てまた布団にもぐりこむ。
「起きていてはいけない」と耳の後ろ辺りが忠告するその言葉に従って目を瞑る。何も考えない。ゆっくりと訪れる睡魔にだけすべてを預けていく。落ちる瞬間に、
「楽しい夢を」と願う。
「今帰ってきた」
真夜中、「ナオミ」とは違う深く低い声が耳の中を満たしていく。
「うん、お帰り。お疲れ様」
「元気ないな」
「ちょっと体調悪いんだ」
「風邪か? 病院いったか?」――この男も優しい。次はこの男が私の傷を癒していってくれるのだろうか。でも、見えない。ありきたりの日常も、その先に続く枯れた手で支えあうときの夕暮れも。
私は一体何が欲しいのだろう。「ナオミ」だけではない。今まで誰の隣にもありきたりに過ごしていく日常など、見えたことなどない。それは「ナオミ」のせいでもなく、「誰か」のせいでもない。ただ私自身のせいなのだということを、本当は随分前に気がついていたのではないか。これからは誰が私の誕生日を祝ってくれるのだろう。贔屓の野球チームの勝利は誰が一緒に祝ってくれるのだろうか。そして誰が一緒に泣いてくれるのだろうか。
「なんか欲しいものあるか? 持っていこうか?」
「ううん、明日も具合悪かったら病院いくから」
二言、三言話して電話を切ってから、
「モンバジヤックが、飲みたい」と呟いた。時間は流れていく。私はいつかまた、誰かとその酒を飲むのだろう。喉の奥に、蜂蜜のような濃厚な甘さとアルコールの温度が蘇り、詰まっていた涙の塊を押し上げた。
もうでないだろうと思っていたのが嘘のように、涙がでた。切り傷からあふれ出す血のように何のひっかかりもなく流れ続けるそれからは、あの夏の日の「ナオミ」の部屋のかび臭い匂いがした。
愛があるから離れるなんてことは……アリなのかな。