一つの道先3
その家を訪ねるのは、およそ二年ぶりだった。
チャイムの音にさえ懐かしさを感じている彼女の前で、その家のドアが開かれる。
「はい、どちら様――って、あなた」
幻想の世界から抜け出して来た姫のような美少女が、声の柔軟性を急速に失わせて出迎えてくれた。
「なんだ、ハーヴィさん――でしたよね、ずいぶんとお久しぶりですね」
続く挨拶は、柔軟性を急速に取り戻してなされた。逆再生みたい、と挨拶された方は、苦笑する。
美少女の兄から、アレはそういう性格なんだ、と説明を聞いていなければ、見間違いかなにかを疑ったことだろう早業だ。
「それで、何の用でしょう?」
美少女、ベアトリーチェ・ブルードロップの問いかけは、わざとらしかった。
あるいは、彼女の兄から話を聞いていたから、そう思うのかもしれない。
来訪者、ハーヴィング・ターコイゼンは、ベアトリーチェの兄、そして自身の親友の行方を尋ねた。
「お久しぶりです、ベアトリーチェちゃん。フィッシャー君……お兄さんは、今お家にいませんか?」
「残念ですが」
ベアトリーチェの答えは、何を聞かれるか知っていたように早かった。
微笑んではいるが、隙のない早口は攻撃的な意図をふくんでいる。
「兄は武装隊の二年次訓練生として実習へ行ったままです。この街にもまだ帰っていないことでしょう」
「そうですか。ええっと」
「いつ戻って来るかの連絡もないので、家族としても兄の筆不精には困っています。大きな怪我などをしていれば、流石に連絡があるでしょうから大事はないはずですが、困った兄で申し訳ありません」
聞こうとした内容の全てを告げられ、ハーヴィングは開きかけた唇を大人しく閉じる。
困惑した内心を、深呼吸一つで微笑を浮かべられる程度に落ち着ける。
「わかりました。突然押しかけてごめんなさい。ちょっと、遠くへ行くことになったので、フィッシャー君にそのことを知らせたいなと思って寄ったんです」
かすかに、兄でなければ気づけないほどの間、ベアトリーチェは次の台詞を迷った。
結果、自分からは言うまいと考えていた言葉を、妹は口にした。
「言伝があれば、お預かりします」
親切心が覗いた提案に、ハーヴィングは、小さく首を振った。
「せっかくですが、連絡を取りにくいところへ行くので、何かをお願いしても行き違いになってしまうでしょうから」
「そうですか」
妹は、綺麗な顔立ちの眉を寄せる。微弱な毒をふくんだ視線の矛先は、目の前の女性ではなく、今この場にいない、気のきかない身内へ向いているらしかった。
しばし、ベアトリーチェは彼方の方角へ毒を飛ばしていたが、突然一つ頷くと、顔の筋肉から力を抜いて、素っ気ない表情をさらけだす。
「悪かったわね。兄にはもっとマメに連絡を寄こすよう、きつく言い聞かせておくわ」
「え、いえ、そんな、良いんですよ。わたしだって、何の連絡もせずに来たんですし」
「ええ、そうでしょうね。あなたがそう言うんだから、そういうことにするわ。でも、そんなわけないのよ」
突然ざっくばらんな調子になった美少女に、ハーヴィングは目を大きく開閉させる。
驚くと同時に、ちょっとした感動がある。
なるほど、兄の言葉は本当だったらしい。丁寧で穏やかな口調の時は演技、本性は迅速に相手をぶっ刺す蜂に近い。
『うちのビーチェが凶暴な時を、〝ビー〟って呼んでるんだけどな。いつもそれを抑えろ止めろと言っといてなんだが、〝ビー〟の時が一番良い顔すんだよなぁ、あいつ』
ハーヴィングは、綺麗でお淑やかな少女を見て、半信半疑だったのだが、今どうやら答えを目にしているようだ。
確かに、今の自然な彼女の表情を見せられては、先程までの愛想笑いがいかに雑なものであったか認めざるを得ない。
やっぱり、フィッシャーの人を見る目は確かだ。
ハーヴィングは、異性の親友との思い出に誘われ、笑みを浮かべる。
そんな年上の女性を、ベアトリーチェは、兄と良く似た鋭い眼つきで観察する。
「あなた、医大に入れたんだったわね」
「え、あ、はい。お兄さんのおかげです。お勉強を見てもらったから」
「まあね。あれで人に教えるのは上手なのよ」
子分を褒めるように、ベアトリーチェは雑に頷く。
その頃には、もう観察を終わったようで、話はお終い、と手を振って見せる。
「用件はそれだけ? だったら、これ以上ここにいても何にも出ないわ」
「そうですね。残念ですけど、お暇します」
そう、と呟いたベアトリーチェは、ところで、と自分から話しかけた。
「あなたの名前、聞いても良い?」
「はい? 良いですけど……」
知っているのでは、と愛称で自分を呼んでいた年下の女性に首を傾げる。
「兄貴があなたのこと、ハーヴィハーヴィって呼ぶから、私もそう呼んでいただけよ。フルネームは知らないわ」
「ああ、そうだったんですね。わたしはハーヴィング・ターコイゼンと言います。今さらですけど、名乗るのが遅くてごめんなさい」
全くその通りだ、と言いたげに、ベアトリーチェは皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「それじゃあ、ハーヴィさん、気をつけて」
不意打ちの気遣いに打たれ、ハーヴィングは、息を呑んだ。
妹は、兄とそっくりの眼つきで、彼女を見つめている。
「必ず、また来なさい」
危険な場所へ赴こうとする覚悟に対し、無事を祈る言葉を妹は伝えた。恐らくは、兄の代わりの言葉を。
ハーヴィングは、小さな声で、はい、と応えた。
「ありがとうございます。ベアトリーチェさんも――」
「ビーチェで良いわ」
命令口調の親愛表現に、ハーヴィングは柔らかな笑いの衝動に襲われる。
「はい、ビーチェさんも、お元気で」
「それは任せなさい」
互いの笑みを交わして、二人は会話を終える。
自分の選んだ道を歩き出したハーヴィングの耳に、ドアが閉まる音が聞こえたのは、互いの姿が完全に見えなくなってからだった。
ベアトリーチェの視線がなくなったことを、充分に確認してから、ハーヴィングは大きく息を吐き出す。
「相変わらず、すごい美人さんです」
目にするだけで緊張するような美貌など、ハーヴィングはベアトリーチェしか知らない。
それに、フィッシャーそっくりの眼つきも、心臓に悪い。
くすっと音を立てて笑い、ハーヴィングは自分の額に触れた。
亜麻色のセミショートを分けている、ピンセットを指が求める。
「それに、ふふっ、相変わらず、お兄さんのことが好きみたい」
色鮮やかなターコイズを飾られたピンセットは、魚のシンボルがついている。それは、異性としては父親の次に付き合いの深い、友人からの贈り物だった。
その友人は、妹と違って人目を引くところのない、平凡な少年だった。
****
学校の図書館は、寂しい静けさが積み重なっていた。
人がいないのである。テスト直前でもない限り、図書館に居座ろうなどという学生は少ない。
そんな図書館の静寂を、ハーヴィングは伸びた前髪を透かし、一人観測する。
すでに屋内は薄暗くなりつつあることに、少女は怒りをふくんだ溜息を吐き出した。
夕明かりも去りかけたテーブルの上、教科書のページは、全く進んでいない。
「どうして……」
少女は、前髪をくしゃりと掴んで声を震わせる。
「どうして、こんな頭悪いんだろ」
他の誰でもない、自分への苛立ちが静寂をわずかにかき乱す。
それも一瞬、舞い上がった砂埃が沈むように、静寂が戻り――夜が訪れようとした図書館に、白い灯りが整列した。
「ひゃっ!?」
「お、珍しい。人がいたのか」
入り口の近く、司書席のところに少年が立っている。
「灯りを点けるの、遅くなって悪い。奥で整理してたもんだから」
勝手に点けてくれても良かったんだぞ、と少年は笑って声をかけた。
ハーヴィングは、彼が誰だか、すぐにはわからなかった。クラスにいた男子だ、とやけに恐い眼つきが、辛うじて記憶を刺激したが、名前は出てこない。
なにしろ、学年が上がり、クラス替えがあった直後の二ヶ月、彼女は入院していたのだから、クラスメイトの顔と名前が一致していない。
一方、少年はしっかりと覚えていた。
「えっと、ハーヴィさん。テスト前でもないのに図書館を利用してるなんて、本が好きなのか」
「そういう、わけじゃ……あの、別に……」
ハーヴィングは、相手の顔をろくに確かめもせずに俯く。そうすると、長い少女の前髪は、外界を遮るカーテンのように表情を隠す。
「へえ。じゃあ、なんで図書館に? もう結構な時間だぞ。待ち合わせ?」
「ち、違います。勉強、してるんです」
「ああ、そっかそっか。退院したばっかだもんな。二ヶ月のブランクはきつそうだ」
少年があげた軽い笑い声は、俯いたハーヴィングの前髪に弾かれ、図書館の静寂の中に消えていく。
前髪の下では、ハーヴィングの顔が羞恥に赤らんでいる。
「休みとかはあんまり……わたし、頭悪いから……」
二ヶ月の遅れは確かに大きいが、元々、彼女は成績が悪い。
それが恥ずかしくて、友達にも助けを求められず、一人図書館にこもっているのだ。
まして、今の彼女は成績を大きく上げたいと願っている。自分から見ても、皮肉っぽい笑いが漏れるほど、目標点が高く、今の位置は低い。
そんな自分の姿を、人に見られるのは恥ずかしかった。
俯いたままのハーヴィングから発せられる拒絶の空気に、少年は声の明度を落とす。
「ん、あー……悪い。邪魔したな。何かあったら、司書席にいるから、声かけてくれ」
それじゃあ、という挨拶にも答えを返せない自分に、ハーヴィングはさらに落ち込む。
あのクラスメイトは、親切心から声をかけてくれたはずだ。なのに、勝手にバカにされたように感じて、勝手に刺々しく接してしまった。
「どうして、わたしってこんなんだろ」
前髪の下で、湿った溜息をこぼす。
「地味だし、暗いし、臆病だし、頭悪いし」
呟きは、頭の中で何度も反響して、消えることがない。
教科書に向かっても、ノートにペンを向けても、自分の嫌な声が、自分への文句をずっと呟いている。
自分の中の声でさえ、ぼそぼそと聞き取りにくいことも嫌になる。
「はあ、なんで、わたしって、こんなんだろ」
背を丸めるほどに愚痴が増えて、勉強が進まない。
二ヶ月の入院を代償に、目標を持ったのに、変わりたいと思ったのに、いつまでも足踏みをしている。
「かっこわる。ほんと、ダメなわたし」
「なんだ、そんな大変なのか?」
「ひゃぅ!」
ほとんどテーブルに突っ伏していたハーヴィングの背中を、心配そうな声が不意打ちした。
びっくりして振り返れば、さっきのクラスメイトが、紙コップを二つ持って立っている。
「悪い、脅かすつもりはなかったんだけど」
「い、いえ、き、気づいてなかったから……あの、なんですか?」
驚きが過ぎ去ると、ハーヴィングはつい警戒した声を出してしまう。相手に対して失礼だとは思うのだが、彼女自身で止められない。
「なにってわけでもないんだが、司書席から見える背中が、どんどん丸まっていくから……。コーヒー、どうだ?」
どうやら、心配してくれたらしい。
ハーヴィングは、後ろめたさを覚えながら、カップを受け取る。
「あ、でも、図書館は飲食禁止……」
「大丈夫だろ、他に誰もいないしな」
少年は、率先してコーヒーを飲み、悪戯っぽく笑う。
コーヒー自体より、禁則を破ることにちょっとした面白みを覚えている笑い方だ。
「司書席は飲食可だし、特別司書委員の特権でハーヴィさんも許可。疲れただろ」
「そ、そうなんですか。えと、司書委員、なんですね。知りませんでした」
名前も知らないのだから当然だけど、とハーヴィングは口の中で呟く。
「まあ、臨時だけどな」
「臨時?」
「今年のうちのクラスの司書委員は別な奴。俺は去年まで司書委員やってて、なんか今年はサボりが多いらしくてな。まあ、その穴埋めに。だから、バレても俺のことは叱りにくいはずだな」
そうなんですか、とハーヴィングは曖昧に頷く。
「ええと、本が、好きなんですか?」
「ん? まあ、読みはするけど、好きって言うほどじゃないかな。まあ、人並みに?」
それなのに、臨時の司書委員をやるのか、とハーヴィングは不思議そうに首を傾げる。言葉にしない問いかけに、少年は、暇だから、と答えてくれた。
暇でも、自分ならやらないだろうなと、ハーヴィングはやましさを覚え、会話を終わらせようと決めた。
「そう、ですか。ええと、いただきます」
受け取ってしまった、規則違反のコーヒーを口にふくむ。
心地よい熱さが、沈黙を決めたはずの唇を溶かす。
「ぁ、おいしいかも……」
「まあまあだろ」
少年は自慢そうに笑って、続く褒め言葉を思いつかないハーヴィングの手元を見る。
「で、勉強はどう? いや、あんだけ前のめりに崩れ落ちてると気になってさ。余計なお世話とは思うんだが……」
「どうって、わけでも……わ、わたし、頭悪いから」
紙コップを抱え込むように俯くと、励ますような良い香りが顔にあたって、少しだけ、首が持ちこたえた。
「どれ、どういう風に解いてるんだ? 俺がわかるところなら、助けられるかもしれないぞ」
「え、ん、でも……司書の仕事が」
「どうせ暇だし。ええっと、ああ、これが計算式?」
教科書とノートを見比べて、少年は書きかけの計算式を見つける。
テーブルに手をついた少年は、ハーヴィングのすぐそばで、ふーん、と声を漏らした。
「なんだ、考え方はあってるじゃん」
「で、でも、ここから先が、あの、どうして良いか」
「あてはめる公式があるんだよ。前のページに……これこれ、これを使えば、後は計算ミスさえしなきゃ良い」
少年の指で示された公式の解説をハーヴィングが見ると、確かに回答は出せそうだと感じた。それでも、公式自体がどんな意味を持っているのかは、さっぱりわからない。
「あ、ありがとう。でも、この公式って……」
「ん? 公式がどうかしたのか」
「どうかって、わけじゃないけど……なんでこうなるのか、わからなくて」
少年の顔が、呆気にとられた表情を作る。
奇妙な質問をしてしまった、とハーヴィングはとっさに顔を伏せる。
昔、初等教育の頃も、教師から同じ顔をされた記憶があった。その教師は、面倒なことを考えるなと少女に強い調子で言ったのだ。
「あ、あの、ごめんなさい、なんでもないです」
「いや、待った待った。ちょっと待った。あー、なるほど、なるほど。そういうのが気になって進めないのか」
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。そりゃそうだよな。なんでそうなるのか、全然わかんないよな」
少年は、ひどく感心した様子で強く頷く。
「ううん、でも公式の意味はわかんねえな。先生に聞きに行けば早いんだろうが……ダメだな、数学のミソニアは時間外に働かねえ」
「い、良いんです、わたしが頭悪いだけだから……」
「なに言ってんだ。普通の奴が気づかないことに気づくってのは、すごいことだろ。変わってるかもしれないけど、少なくとも、頭が悪いのとは違う」
はっきり告げられた言葉に、ハーヴィングは気がつけば顔をあげていた。
目つきの恐い少年は、俺だって公式の意味なんかわかんねえしな、と呟きながら、答えを探して教科書をめくっている。
彼にとっては、きっと何気ない言葉。
当たり前の、本心からの真っ直ぐな言葉に違いない。
地味だし、暗いし、臆病だし、頭悪いし――気がつけば、そんな自分の中の声が、とても小さくなっていた。
いつから、自分の中の声が気にならなくなっていたのだろう。
正確にはわからない。でも、少年の声が原因だと言うことは、わかった。
「あ、ありがとう」
こぼれた感謝は、小さすぎたようだ。
少年は、気づかずに教科書を閉じた。
「教科書はダメだ。ハーヴィングさんは、まだ時間あるか?」
「え、あ、はい、一応……あの?」
「よし。じゃ、公式の意味を探そう」
「え、ど、どうやって?」
「おいおい。ここは図書館で、俺は臨時司書だぞ」
臨時司書委員は、書棚の中をさらい、答えをかき集めてみせた。
ハーヴィング・ターコイゼンが、少年の名を知ったのは翌日のこと。担任のダリオが読み上げる、出欠の声に聞き耳を立てて探り出した。
「フィッシャー・ブルードロップ君」
ハーヴィングは、忘れないよう、その名を口ずさんだ。




