三本の牙24
連日のフォクスモージェン狩りへの対処のため、ファルムリヒはスラム街に活動拠点を移していた。
肉体的というより精神的な疲労のため、ソファにだらしなく横になっていたファルムリヒは、五人分の足音を鋭敏な聴覚に捉える。
同じく反応したルーヴェンが、杖を手に取って視線を交わした。
「誰だ」
ドアの前に立った気配に問いかけると、甲高い子供の声が二人を安心させた。
「セシリだよ」
「カリルだよ」
「お前等か……なんだ、遊びに来たのか。入れ入れ」
警戒したことが馬鹿らしくなり、苦笑いをするファルムリヒ。同じ表情をしたルーヴェンも、水割りを作ろうと台所に足を向ける。
その安堵を、双子に続いて顔を見せた、一角の少女に凍りつく。
「お前!」
「突然の訪問、失礼いたします。私は――」
ファルムリヒは、ソファを蹴りつけて魔導槍を構える。
鋭利な切っ先と、それ以上に鋭利な殺気に、少女は目を細め、だが、手を前に組んだまま、言葉を続けた。
「私は、連合保安局よりエクスフォクスとの交渉役を拝命した、武装隊訓練生ヤマガミ・ギンカと申します」
「黙れ!」
ファルムリヒは、槍を突き入れる体勢を取る。その矛先と、一角の少女の心臓の間に立ちはだかる者が現れ、ルーヴェンが慌ててファルムリヒに飛びついた。
「待って、ファル!」
言われなくても、ファルムリヒが動くことはできない。
困惑と、それに比例して上昇する憤怒が、青年の顔を赤黒く染める。
「どういうことだ! セシリとカリルに何をした!」
物静かな表情を崩さないギンカに代わり、叫んだのは彼女の前に立った双子だ。
「何もされてないもん!」
「何もされてない!」
それならどうして、ルーヴェンもそう問う。
「ギンカお姉ちゃん達はお話をしに来たんだもん!」
「ファルお兄ちゃん達とお話をしに来たんだもん!」
双子を、槍の矛先から逃がしたのは、ファルムリヒでもルーヴェンでもない、ギンカの、力を込めたわけでもない細い手だった。
かばってくれた双子に、礼の代わりに優しく微笑んでから、ギンカは槍に向かって一礼した。
「驚かせてしまい、申し訳ございません。セシリさんとカリルさんには、私達がお願いをして、話し合いの席を作って頂きました。その意思が私達にあることは、以前、貴方に……エクスフォクスリーダーのファルムリヒさんにも、お伝えしていましたね」
ファルムリヒは、自身が手ひどく拒絶したはずの少女から、再び手を差し伸べられたことに、困惑していた。
そう、確かに一角の少女は、ファルムリヒに伝えていたのだ。
「もう一度、お伝えいたします。私達には、貴方達と話し合う覚悟があります」
さらに、少女の言葉は、力をつけていた。
「そして、連合保安局と、統合政府も、貴方達との話し合いを望んでいます。その交渉役としての権限が、今の私には与えられています」
武装もない、無力なはずの一角の少女は、今までで最も、強い姿をしていた。
「話し合い、交渉役だと……」
「その通りです。なお、現在、私達で武装しているのは、奥のフィッシャー・ブルードロップのみです。彼は、道中の護衛を兼ねておりますので、どうかその点、ご了承をお願いいたします」
そう言って、ギンカはルーヴェンに視線を向けた。
「確認して頂いて構いません。不意の訪問で非礼をしたのはこちらです」
両手を広げるギンカに、ルーヴェンは戸惑う。
だが、ファルムリヒのことを思えば身体検査は必要だ。前に出ようとしたルーヴェンを、ファルムリヒの手が抑えた。
「その必要はない。その代わり、こちらは武器を手元に置いている。文句はないな」
「はい、問題ありません。ありがとうございます」
武装隊の三人が、室内に入る。フィッシャーだけは、ドアのすぐ近くで立ち止まり、あくまで距離を取る。
その対応は、ファルムリヒにとってありがたかった。もしこれ以上近くに来たら、彼は復讐心を抑えきれる自信がなかった。
フィッシャーに殺気を向けながら、ファルムリヒは苦い声を出す。
「それで、交渉役だと?」
「はい。統合政府は、これ以上の争いを望んでいません。戦いによってこれ以上お互いが傷つかないよう、話をお聞かせ下さい」
「こちらから話すことは何もない!」
両者の間に置かれたテーブルが、今にも折れそうに軋みを上げる。
恫喝の態度に、ギンカの表情を変えない。怒りを面に出さないが、友好を示しもしなかった。
「では、戦うことが望みですか。このまま、話すことは何もないと、どちらかが死に絶えるまで戦うことが望みですか」
「そうじゃない。俺達の要求は、すでに何度も訴えてきた。フォクスモージェンが、少なくともエクスフォクスが全員、同じ場所で暮らしていけるようにすることだ」
「では、その最低人数を教えて下さい。以前出された条件は、読んで来ましたが、改めて、数字をお願いします」
「千……百は行っていないはずだ」
「では、詳しい数字は後日、改めてお教え頂くとして、仮に千百人として、お話を進めてよろしいですね?」
ファルムリヒが頷いたことで、ギンカは資料を取り出す。
それは、統合政府が計算した、フォクスモージェンに対する予算表である。
「一番上の表が、最初に見込んでいた補償予算です。その次の表が、政府の条件を受け入れたフォクスモージェンの方に対し、今年までに使用してきた支出額です。そして、その次が、エクスフォクスと交戦状態に入ってから消費した支出です」
ギンカから差し出されたそれを、ファルムリヒは眺め、それからルーヴェンに手渡した。二人の表情は、罪悪感を堪えるものだ。
「おわかりですね。政府が補償した額、政府が戦闘に使用した額は、すでに最初の補償予算を上回りました。そのうち、半分は、戦闘に費やされたものであることを、統合政府は強く悔やんでいます」
「俺達の戦いがなければ、そう言いたいのか」
「政府の見解は、政府広報担当にお問い合わせ下さい。私はただ、強く悔やんでいると聞かされただけです。あるいは、こちらの新規補償予算が、政府の見解ではないでしょうか」
取り出された二枚目の資料には、最初の予算案はすでに破綻した旨が書かれ、今後の予算案が書かれている。
「こちらもご確認頂ける通り、政府は追加補償予算を捻出し、事実上、初期予算案から五割増しの提案をしました。こちらの条件で、いかがでしょうか」
五割の増加と聞いた時点で、ファルムリヒは首を振った。
「ダメだ。まるで足りない。エクスフォクスは千人いると言っただろう。その人数が、同じ場所で暮らして行くためにはこれじゃ足りない。これでは、三年か、四年しかもたない」
「あの大森林で採れる食料は、そこまで少ないのですか」
「年々減る一方だ。四年間で、すでに三分の二……いや、半分になっているかもしれない。一部で進行している砂漠化が、どんどん加速していっている。遠からず、あの大森林での収穫は見込めなくなる」
「そうですか」
ギンカは、その事実を許可を取ってメモする。
大森林の衰退は、以前の話し合いよりも深刻化していた。
「それで、三年か、四年しかもたない。短く見積もったとして、三年だとしましょう」
「ああ」
「それだけ補償されても、まだ必要ですか」
それは、物静かな口調に隠されていても、いや静かだからこそ、罵倒の意志が現れていた。
「貴様! 何が言いたい!」
「言葉の通りです。千人に対し、三年間……これまでと合わせれば、七年間の猶予が与えられます。それだけの期間があってなお、政府の善意に甘えなくてはいけないのでしょうか」
「俺達はこの世界のせいで故郷を失ったんだぞ!」
「それは大変気の毒なことだと思います。この世界に住む人々の誰もが、気の毒なことだと、助けられるものなら助けなければと、そう思ったことです。だから、統合政府は皆さんに補償を申し出たのです」
ギンカの言葉は、かつての自分達へ向けられたもので、冷たいほどに鋭かった。
「統合政府は、この世界ではありません。この世界で生きていくために、人々が造り上げた組織、制度です。世界への恨みを、その政府にぶつけることは、この場合正しいことではありません。それは、八つ当たりと呼ばれるものです」
幼く、父を見送るしかなかった少女は、一族の過激派が造り上げた憎悪の理屈に対し、何度も、何度も疑問を抱いてきた。
だから、ファルムリヒの持論の全てに、反論が用意できることを知っていた。
「そんな話、納得できるものか! 知っているんだぞ、この世界が異世界と衝突するのは、この世界の人間がかつて、大規模な魔術の実験を行ったせいだと! そのせいで、この世界は異世界を引きつけるのだと! その責任を政府に問うて何が悪い!」
声を荒げ、断罪するファルムリヒに、それも通用しないと、ギンカは首を振った。
「確かに、政府の見解もそのようになっています。かつての魔術実験が、異世界衝突の原因であると……。しかし、貴方がたは、その罪を今の統合政府に問うのですか? その魔術実験が行われた数百年前に生きていた人などもう誰もいないこの世界で、魔術実験の後に作られた統合政府に」
「生きていた者がいないとしても、先祖の、一族の責任だろう!」
「先祖、一族の責任ですか。では、ファルムリヒさん。貴方達は、サラテック市民のフォクスモージェン狩りを甘んじて受けるべきです」
言葉は氷のように冷たかったが、その瞳に残酷さはなかった。
「先祖や一族の罪を問うのならば、サラテック市民は、貴方達の使用した戦術兵器による無差別砲撃への報復する権利を持つことになります。例えそれが……何の武力も持たない、非戦闘員に対する報復であっても、です。戦術兵装を使用したのは、同じフォクスモージェンなのですから」
「それは……だが、それはそもそも、この世界に原因があったせいだ!」
ギンカは、細く、切なそうに、吐息を漏らした。
「では、貴方達は、大規模魔術実験を行い、異世界衝突を招いたという罪を、数百年後の今、この世界で懸命に生きようとしている人々が寄り集まった統合政府に、その末裔だからという理由だけで、求めるのですね」
その、要約されたファルムリヒ自身の言葉は、直視に耐えないほど醜かった。
確かに、ファルムリヒはそう言ったのだ。だが、それを認めるのは、容易にできることではなかった。
唇を噛み締め、言葉を飲んだファルムリヒを見て、ギンカは不意に微笑んで、頭を下げた。
「すみませんでした。交渉の役にありながら、ファルムリヒさんの言論を否定することに集中してしまいました。途中から、わかってはいたのですが……私にも、個人的な思いがあったものですから」
ギンカは前髪をかきあげ、額の一角を強調した。
「ご覧の通り、私は一角族の出身です。ご存知でしょうか。九年前、政府に対して反乱を起こした一族です。そして、私の父は、その反乱が起こった時、一角族を指揮する立場にありました」
少女の出自を知っていたルーヴェンとファルムリヒも、長の一族であったことには、目を見開いた。
「父の名は、山上・金綾。一族を勝ち目のない戦いに引きずり込んだ、大悪人です。戦いの最中に死に、一族が敗れた後は、墓さえ荒らされているほどの、嫌われ者です。私も、一族から追い出された身で、父の仇と言えるはずの武装隊にいます」
その末路に、思うところがないはずはない。押し黙ったファルムリヒを、ルーヴェンが不安げに見つめる。
「父も、私も、今のような立場になるべき理由が、十分にあったと思います。ただ、父は、死ぬ最後の瞬間まで、政府と戦うことに反対していました。私の一族が戦い出した理由は、父が戦おうと扇動したからでは、決してありません。一部の過激派が、政府の出した条件に納得ができず、武器を取って戦い出してしまったからです。父の方こそ、それに引きずり込まれる形だったと、私は思っています」
ギンカの声は、どこまでも物静かで、いっそ怒って大声で話して欲しいとルーヴェンが願ってしまうほど、優しかった。
「私はそれを、今でも不満に思っています。だから、今、こうしてファルムリヒさんとお話しをして、当時の過激派と同じことを口にされて、つい感情的になってしまいました。あの時、もし過激派を止めることができていれば、今の私は、きっと父と一緒にいられたんです。貧しい暮らしかもしれない。食べ物に困っているかもしれない。でも、大好きな父と、一緒にいられたんです。そう、ムキになってしまいました。本当に、すみませんでした」
再び頭を下げ、交渉役としてあるまじき態度を取ったことを詫びた少女を、ファルムリヒは短い言葉で許した。
許すような立場に、自分がいないことを痛感しながら。
それでも、少女は許してくれたことを、感謝した。
そして、交渉役として、改めて訴える。
「私が、こうして交渉に赴いている個人的な事情を、もうお察しでしょうか。私達一角族は、フォクスモージェンと同じように武器を手に、戦いました。それは、反乱の指揮者が死に、もう戦闘部隊が全滅だと判断されるまで、徹底的に、最後まで戦いました。結果として、私達一角族が得たものは、この世界にバラバラに散らばり、反乱者として冷たい目で見られて生きることです。私と同じような目に遭う子供を、見たくはないんです」
ギンカの視線が、初めてファルムリヒから外れた。その先には、幼い二人の子供がいる。
「その言い方は、卑怯だぞ」
「すみません。でも、偽りのない私の気持ちです。それから、この資料も、どうぞ」
ギンカが取り出したのは、予算表よりずっと多い紙の束だ。
「三年の補償では足りないと仰っていましたね。それは、私もわかっているつもりです。ですが、早くこの争いを止めれば、力になってくれる人達が、この世界には大勢います。衣服や食料を寄付してくれる人達、医療行為を無償で行ってくれる人達、農耕や森林の再生を手伝ってくれる人達、他にもたくさん」
資料に書かれているのは、そうした支援団体の数々だ。
中には、遠くからの情報だけで、大森林の環境で生育する農作物についての研究を行っている者までいる。
「これは……」
「この世界によって、傷つけられた人はたくさんいます。異世界の人も、この世界にいた人も、衝突の度に傷ついているんです。だからこそ、困っている人がいれば、助けてあげたいと思う人も、たくさんいます」
そうした人達の善意を拒んでしまった一族の娘は、後悔に満ちた眼で、しかし優しい微笑みを浮かべて、手を差し伸べる。
「何も知らない世界で、不安だとは思います。でも、勇気を出して、助けを求めてみて下さい。手を、伸ばしてみて下さい。助けてくれる人は、必ずいます」
一族から石礫で追われた少女にだって、手を掴み、引っ張り上げてくれる仲間が出来た。
それならば、絶対にできる。
「ファルムリヒさんのように、危険な場所でも共に戦ってくれる仲間がいて、戦う力はないけれどとても勇敢な仲間がいるような人なら……貴方の優しい願いを叶えようと助けてくれる人が、絶対に」
差し伸べられた手に対し、ファルムリヒは縛り付けられたように動けなかった。
心が千々に乱れて、何も分からない。掴みたいのか、拒みたいのか、迷っているのか、それさえもわからない。
「そんなことを、どう信じればいい」
混乱したまま、唇から何かが零れた。
「お前達のような、半人前の言う事を、どう信じればいい。本当に、正式な交渉役なのかどうかさえ、俺には確かめる術がない」
「それは信じて頂くしかありません。もちろん、条件は書面にして、契約をいたしますが、それさえも信じて頂かなければ、ただの紙です」
「なら、そんなものを、どう信じろというのだ」
ギンカは、表情を変えず、優しい顔のまま、そっと手を閉じた。
少し力が入っていたのは、彼女の内心の表れだろうか。
「今すぐに決めて頂こうとは思いません。街の状況を考えると、長く待ちたくはない、という気持ちはありますが、大事な問題です。今日はこれで、失礼させて頂きますので、ゆっくりお考え下さい」
一礼して、ギンカは立ち上がる。
「また、セシリさんとカリルさんのお力を借りて、お話し合いの席を頂けますか?」
「ああ、好きにしろ」
それが、その時のファルムリヒに精一杯の、理性的な返事だった。
三人が礼儀正しく、一礼して去った後、俯いて黙りこむファルムリヒに、セシリとカリルが、泣きそうな声で、囁いた。
「あの人達は、善意を、くれたよ」
「あの人達が、半人前だって、力が足りないって言うなら、それなのに善意をくれたのは、とっても勇気があることだと、カリルは思うよ」
双子の言葉に、ファルムリヒは何も言えず、ただ一度だけ、静かに頷いた。




