無題
視界がぐらつく。何とかならぬものかと眉間に力を入れ目を細めてみる。ややぼやける世界が微かに線を濃くする。しかしながら代わり映えせず、ただ痛覚となるばかりでそのまま目を塞いでしまった。音も無くただシンと耳をつく独特の感覚に何故このような目眩と痛みがあるのかを探し出すように記憶をひとつずつ確かめていく…。
そう、あれはー
深夜の雑居ビルの合間の路地…バチンと乾いた音が響いた。直後に左頬にビリビリとした感触が後を追ってくる。殴られた、と認識た後にはただただ言葉の雨嵐がこの情景と体全てを飲み込まんとして襲ってきた。それは意味を咀嚼し理解する間もな与えるでもなくて次から次へと投げつけられては煙草の灰のようにポロリポロリと落ちていく。ただただ呆然と間抜けた面のままに聴こえる方へ視線を向けるも、そこには人のカタチをしているだけの何かが耳障りに聴覚を脳内を侵してくる。兎に角何かを言わねばと思い立ちゆっくりと唇を開こうとも束の間、未だ認識の覚束無い人のカタチはため息をついたと思うと去っていってしまった。
「…あ。」
刹那、声をかけるべく開いたままの唇から出た。ただ1音は虚しくひとつそこへと落ちて終わった。そう、俺はたった今振られたのだった。去りゆく遠ざかる背をぼうっと眺めながら再度振られたのだと心の中で呟き繰り返した。毎度の幕引きにいつも通りと頷き一つし、その足でまたいつもの場所へと赴いていたのだった。ただひとつの変化を除いて日常であったのだった。
さらに狭くビルが立ち並び華やかなネオンが散りばめられた街中へと溶け込めば。
見慣れた重厚な扉を気だるげに開けば、これまた変わらぬ薄暗く騒がしげに音が飛び交い人の入り混じる画が視界を通し脳へ飛び込んでくる。あの独特の光が時々キラリと目を刺しに来る。と同時に声がかけられた。
「…お疲れさん、また代わり映えないわねえホント」
かったるそうな言葉とは真逆の派手な身なりの男がため息混じり、紫煙と共に吐き出した。視線だけでちらりと応えると男のいるカウンターへと歩を進め、シンプルなカウンター目を引くようにきっちりと整えられたスツールの一つに手をかけ引き出しドスッと座る。と同時にすうと体から力が抜け、妙な安堵感に包まれる。相変わらず騒がしい音楽は流れているがとても居心地が良い、そんな感覚。いつものと言葉を結び、肘をつき頭を抱えた。
「記録は更新したの?ふふ、まさかねえ」
派手な身なりの男はゆったりとタバコを捨てる。そして手際よくドリンクを作りながら気遣うようなそれでいて嘲笑のような質問をぶつけて来た。それに緩く頭を振り答える。すぐさま、ああもう本当にどうしようもないのね…とだけ聞こえた気がした。
「何が悪いのか、わかりゃ苦労しねえんだよ」
会話の間に完成したドリンクをこん置かれれば、ひったくるように手にして一気に煽れば…何かが変わるわけもなかった。じんわりとアルコールの染み渡る感覚だけを与えてくれてふうと息を吐く。そうしてまた何度目か分からないいつも通りにその度にこれで最後と思う自分自身にも反吐が出そうだという何度目かわからない答えのない問いを浮かべ即座に止める。
「顔だけはいいのに…顔だけよ?顔!」
クスクスと笑い派手な男はこれまた励ますでもない言葉を紡ぐ。悔しさがない訳では無い反論しようにも勝ち目のないことは明白な為聞こえぬふりを決める。いつものやり取りもここまでであった…
ガタリと不意に隣にあるスツールが動く。
思わず反射的に視線で追いかけてしまった。無意識とは恐ろしいものだ意図せず視線がぶつかってしまったのだ。
「…なあに?ここ常連さんしか座れないの?」
「あら?そんなことはなくてよ?」
「ふうーん」
ややあどけなさの残る少年と言う形容詞の似合う若い男が作法としてだけ言葉を発したようで仕草そのものは無遠慮にドスっとそこへ腰掛けた。
ーそう、これが冒頭の男の後の転機となるその瞬間であったのだった。