闕けたる月
月神は深い溜息をついた。
若い巫女の心ない言葉が、月神をずたずたに切りさいなんでいたのだった。
どうしてあなたは姉神さまのように暖かくないのですか?
なぜそんなに冷たいの?
眸がじんわりと滲んでくる。
何故、私は愛する者を満足させる事ができないのだろう。
巫女たちは私の心がわかるという。
けれども、私は巫女たちの心がわからない。
ああ、姉上、どうして私はあなたのように、大地を温め、生き物をはぐくむ事ができないのでしょう。
私には大きく闕けたところがあるのだ。
人の心を汲み取る事ができないのはそのせいなのだ。
だから私の光は冷たい。
天をあまねく照らす事ができても、いったい誰が私の光に感謝してくれるだろう。
私の光は何も育てないのだから、ありがたがる者がいないのはあたりまえなのだ……。
しばらく前、月神の社に若い巫女があげられた。
若い巫女は熱誠にあふれ、月神に仕えることまことに熱心だった。
月神は嬉しくなり、それはそれは巫女を可愛がっていたつもりだった。
けれどもその気持ちは次第に当惑へと変わっていった。
「私のことを一番に思ってくれる?」
月神は首を傾げる。
社にいる巫女は、若い巫女ひとりではない。
頭だった巫女がいる事は、若い巫女もわかっているはず。
ただひとりだけを愛でる事などできないのに。
「こんなにあなたの事を崇めている私だもの。可愛がってね」
可愛がっているではないか。
けれども、だめだった。
月神の態度が曖昧だったために、若い巫女は幾夜も枕を涙に濡らして眠る。
そのことが、月神にはつらくてたまらない。
だからといって、若い巫女を一番可愛がるなどと、おろそかに言える事ではなく、できる事でもない。
そしてついに、若い巫女は激しい言葉を投げつけ始めた。
「そんな光でしか照らせないなら、いつも雲に隠れていたら! 冷たい光など何の役にも立たないじゃないの!」
月神は退いた。
いきなりそんな言葉を投げつけられるいわれなどない。
なぜ、おまえはそんな言葉を吐くのだ?
泣きじゃくりながら巫女は叫ぶ。
「私はこんなに、こんなに、あなたのことを崇め奉っているのに、あなたの光は姉神さまには及ばないのね。どうして?」
どうして?
月神は応える言葉を持っていない。
若い巫女がひどい言葉を投げつけるたびに、月神の光は次第に、次第に、薄れていく。
ついに月の鏡は真っ暗に曇ってしまい、一筋の光も投げかけなくなってしまった。
大勢の者が、暗い夜を嘆いた。
ああ、月神よ、月神よ。
どうして光を投げかけてくれないのです?
あなたの光がなければ、陽が暮れた後に道筋を辿ろうとしても辿れない。
危険な森や野原に迷いこんでしまいます。
社に集う巫女たちは、不安げに月神を見守った。
月神の光が戻るように、皆で祈り、静かな舞を舞った。
かの若い巫女は、ひとり離れて、嘆き悲しんでいた。
ひどく傷つき、苦しんでいる。
けれども月神にはなす術がない。
月神は泣き濡れながら、姉神のもとを訪れた。
ああ、姉神よ、陽の神よ。
なぜ、私の光はあなたのようではないのだろう。
私の光を喜ぶ者など、誰もいない。
姉神はかぶりを振った。
弟よ、それはあなたの心得違い。
考えてもごらんなさい。
もしもあなたの光が私の光と同じようであったなら、生き物は少しも休めなくなってしまう。
大地は熱され続けて干上がり、生き物は皆、苦しみ悶える事になる。
いつかは天地全てが燃え上がってしまうでしょう。
月神はまだ得心しきれてはいなかったけれど、ようやく暗黒の帳を開いた。
一筋の光が若い巫女を照らす。
ただ一筋であったし、相も変わらぬ冷たい光であったけれども、それは優しく巫女を照らした。
若い巫女は弱々しく顔をあげた。
月神は言葉を発することなく、ただ、若い巫女を照らす。
やがて、若い巫女の振る神鈴が、しゃんしゃんと響き始めた。
静かな舞が月神を讃える。
社の巫女がひとりひとり、舞に加わっていくたびに、光は青く輝いた。
冷たく青い光は、大地を鎮め、夜道を辿らねばならない人の行く手を銀色に照らし出す。
月よ、月神よ、夜天をあまねく照らす神よ。
若い巫女がそっとつぶやく。
「月神よ、あなたの光はそのままでいい。陽の神のように強くはないけど、私はこの光を愛しているの」
しばらくの間、月神はことのほか幸せであった。
若い巫女は、それは熱心に勤めを果たしていたし、他の巫女たちが何の不満を言うでもない。
ああ、私は愛されているのだ。
巫女たちに、わけても若い巫女に。
まさに、巫女たちは今までにも増してかいがいしかった。
もしやすると、嫉妬の色を見せぬかわりに、若い巫女と競うように、勤めに励んでいたのかもしれない。
けれどそうして日を過ごすうちに、なぜか次第に月神の光は薄れていった。
人々は夜ごと空を見あげ、指をさす。
月が闕けていくよ。
どうしてだろう?
月神さまはことのほかご満足と聞いたけれどな?
若い巫女も心を痛めていた。
いったいどうしたことなのだろう。
私は精一杯努力している!
朋輩ともうまくやっているつもりなのに、月神が翳るような事が起こらないために、最前を尽くしているはず。
年嵩の巫女たちは、時に不安げに囁きかわす。
いけない。このままでは、いにしえの儀式を行わないと、月神は光を失ってしまうかも。
あの儀式だけが、月神を甦らせるもの。
なぜなら……。
巫女たちはなお声をひそめる。
それは長らく行われていない儀式、いささか人の耳をはばかるものだったから。
月神もいささか慌てていた。
夜ごと天に身をのりだすたび、自らの光が地を照らす力が弱まっている事を感じる。
かつては銀の野山のように輝いていたというのに、今はただ薄青く沈むばかり。
どうしたことだろう。
月神の胸がつきん、と痛くなる。
ああ、何かがおかしくなってしまった。
私のなかの何かが崩れてしまったようだ。
今、私は自分の中に再びなにかが闕けてしまった事を感じる。
私のなかに、ぽっかりと洞があいたようだ。
「それは、御身の内にひとつの愛が大きく育ち、それが蓋をしてしまっているからですよ」
年嵩の巫女が案じ顔で月神に囁いた。
「それは良くないことです。御身の光はその蓋に遮られて、地の上に届かずにいるのです」
「だが、私は誰もえこひいきなどしていないし、全ての人々を、野山を、照らすように心がけている」
月神の切ない声に、巫女も肩をふるわせた。
「ええ、ええ。よく存じておりますとも。けれどその蓋は、御身の判断にも知らずと蓋をしているのです」
月神の声も震えた。
「どうすれば良いと?」
巫女は哀しそうに月神を見つめるばかり。
月神は惑乱した。
巫女たちを、地の上の人々を、ひとしなみに愛しているのだと自らに言い聞かせながら、その実若い巫女がとても大切な、とても特別なひとりになっていた事に、月神はようやく気付いたのだ。
それはもはや、誰にもどうしようもない。
いにしえより伝わるただひとつの秘儀を除いては。
そしてついに月神の光がほとんど消えそうになった夜、巫女たちは若い巫女を囲んで、岩山の頂までやってきた。
とうとう、いにしえの儀式を執り行わねば、月神の光は取り戻せぬところまで来てしまった。
巫女たちとて、若い巫女を憎らしいと思う者などひとりもいない。
心配そうに若い巫女をのぞきこめど、若い巫女は微笑むばかり。
「いいのです。だって私は月神さまのためなら何でもできるもの」
巫女は憧憬の眸を月神に向けた。
「願わくば、私の命で月神さまが姉神さまと同じくらい、美しく輝きますように」
いくたりかの年嵩の巫女が、困った、という風にかぶりを振った。
ああ、この娘は若すぎる。
月神を愛しすぎている。
だからこそ、こんな大それたことを願うのだ。
頂に立つと、ほとんどの巫女は数歩後ずさった。
若い巫女は怖れるでもなく、頂に立っている。
巫女の長が、細い溜息をつくと、腰から新月にそっくりの鎌を外した。
詫びるようなその眸を受け止めて、若い巫女は再び微笑む。
いいのです、私は月神さまのものだもの。
鎌は、僅かな月神の光を受けてきらりと光り、流れた。
若い巫女の喉から、たちまち深紅の命がほとばしった。
そしてゆっくりと、若い巫女は岩山の頂から落ちていった。
なぜだ! なぜだ!
私はそんな事、ひとつも望んでいないのに!
月神の叫びは地の上に届かない。
どれほど公平に照らそうとしていても、そう、やはり月神は若い巫女を愛していたから。
おのが闕けた部分をかきむしるようにして、月神は苦しんだ。
けれども、その月神をそっと慰める声がする。
「ねえ、ねえ、私がわからないの? 私がいま、ここにいる事がわからない?」
月神はふと、闕けた部分に両手をあてた。
今までに感じたことのないぬくもりが、ふつふつと湧き上がる。
そう、そこにはあの若い巫女の魂が安らいでいた。
若い巫女が月神に囁く。
私がいるから、ここにいるから。
たとえどれほど闕けていこうと、私がいる限り再び盈ちる。
それが私とあなたの大切な約束なの。
このために私は鎌の前に立ったのよ。
月神の光はいや増して、冴え冴えと夜天を照らした。
あまねく照らすその光に、姉神のような熱はなかったけれど、銀の光はことのほか優しかった。
それは人々の眠りを守り、やむなく夜道をゆく者の足元を照らして、悪しき者を追い払う。
悩める者たちの気持ちを鎮め、平安をもたらすもの。
夜天を見あげる者たちは、月神のなかに若い男と、若い娘の影を見る。
そのふたりがめぐりにめぐる。
それゆえ月神は闕けてゆくとも、また再び盈ちるのだ。
若い男と若い娘が永遠に踊る輪舞は、人々に安らぎを約束していた。
もう、これで月神が嘆き死ぬ事はない。
月神の核に、恋する魂が添っているから。
岩山の上では巫女たちが声をあわせて歌う。
月神さまよ、御身は盈ちれば必ず闕ける。
けれども闕けた御身は補われねばならぬ。
それゆえ、これからは天寿をまっとうした者が、御身のうえに還るでしょう。
その魂が御身を満たす。
いずれまた闕けようとも、御身は再び盈ちていく。
それは御身の内に、若い巫女の魂が棲んでいればこそ。
幸いなれ、月神よ。
幸いなれ、若い巫女よ。
これからはひとつの神となって、夜天を照らしたまうように。