手放した風景
ある日思った。この情景に詩はあれども、これはわたしの言葉ではない。なぜならば、わたしはこれを贖っていないから。年月をただ過ごしただけで、何一つ犠牲を与えてはいないから。それならば失った全ては贖いに費やされ、わたしの言葉となって帰ってくるのか。そうなのだろう。それらは何処かにプールされており、不意に甦ってくるのだろう。その感覚を知っている。TVのワンシーンに、空模様の複雑に、無機質な地下鉄の風に、思いがけない涙となって帰ってくる感覚を。わたしはそれらを言葉に止めようとする。フレーズとして、ある場面として。それでも、そこを突き抜けるように交差する人の悲しみが立ち昇る。彼らの見失った言葉が胸を刺す。共感ではなくて痛感する互いの立っている時代。
彼らの贖いや、費やしたものは言葉にならない。それは、彼らが言葉のデバイスとしての貧困故。しかし、本当に誰もが求めているものは浅はかな欲求のみでなくて、太陽の下で顔を上げていられる晴れやかさ。わたしはわたしでいるという確かな朗らかさ。どんなに着飾っても、どんなにメイクしても、それは準備である。それらは全て、第一声のために準備された第一印象である。沈黙のままに美しくあることは、確かに美しい。しかし、それは待機である。己を語りだすことから、誰も逃げられはしない。
持たざる者の言葉は浅く、自己欺瞞に満ちている。だから、誰かの欺瞞で街は満ちる。埋め尽くされる誰かの主張。意味を求めない野をコンクリートが埋め尽くす。わたしが黙っている間に、見渡す限り誰かの言葉が広がっていく。
わたしに訪れた言葉には、費やされたわたしが宿る。わたしの情景には、懐かしい面影が宿る。還ることのない町の風景のように、戻らない面影こそがわたしの言葉。戻らない景色からこの情景は続いている。わたしを持って贖う過去より、わたしを費やして過ごす今へと。言葉はただではない。その贖いと費やしたものにより得るものだから、誰かの言葉に触れることは、その誰かの贖いと費やした何かに触れることでもある。だから、その言葉に込められた贖いと費やした何かと当価値の己を持たない限り、その言葉を己のものとすることは出来ない。