~初恋珈琲☕~
『わたし転校することになったんだ』
桜からそう言われたのは昨日の帰り道、いつもどおり僕は彼女と二人で歩って帰った。
僕と彼女は今年の春から付き合い始めて九か月。お互い何度かすれ違った時期もあったけれど、なんとか二人で乗り越えてきた。
だから、僕は彼女の言ったことをすぐには理解できなかった。
「わたし転校することになったんだ……お父さん、急に転勤することが決まって、どうしてもわたしもついて行かなくちゃいけなくて」
彼女は少し頭を下に向けてぽつりぽつりと口にする。
「ほらっ、わたしのお父さんって料理できないでしょ? だから、わたしがいないとろくなもの食べないだろうし……お父さんに身体こわされちゃったら、わたしも困るからさっ」
桜は何でもないことのようにそう語った。けれど、桜の声は僕の耳にはまったく入ってこない。お父さんがどうとか僕には関係ない。桜はわかっていない、桜において行かれたら僕はどうなってしまうのかが――
桜が転校する、僕の前からいなくなってしまう。それは僕にとって容易に信じられる出来事ではなかった。たとえば、それはツチノコがついに発見されました、とか。地球が明日終わります、とか。そういった類の出来事だった。
桜とは物心ついたときから一緒だった。
一緒に笑い、一緒に怒り、一緒に泣いた。
桜のお母さんが病気で亡くなった時、僕は一晩中ずっと桜のとなりで一緒に泣いていた。
そんな僕らは自然と付き合うようになった。初恋で、初めての恋人だった。
それなのに……。
そんな彼女が僕の前からいなくなってしまうという。
どうしてそんなことが信じられるだろうか。
桜とはあれ以来話せていない。
僕は現実に向き合うことができなかった。
ピーンポーンパーンポーンと嫌に陽気な音が鳴る。
皆様まもなく離陸いたします。座席ベルトをもう一度お確かめください。
機内アナウンスの機械的な女性の声がわたしの耳に届く。わたしは飛行機の小窓から滑走路を眺め、一人の少年に思いを馳せる。
『わたし転校することになったんだ』そう一に告げたことが随分前のことのように感じる。
わたしがそう伝えた時のハジメの顔は、それは酷いものだった。
カナダ行きを伝えて以来わたしとハジメはぎこちないまま。
学校や塾で何度も話しかけても、ハジメはなんだかわたしのことを避けているみたいで、うん、とか、ああ、とかそればっかりで……まともに取り合ってくれない。
桜の引っ越しの日が来た。
大手商社に勤めている桜のお父さんは、これから三年間カナダでの海外勤務ということだ。つまり、これから最低でも三年、僕は彼女に会うことができない。
そんなことを頭の片隅で無意識に理解しているのに、僕はその事実を認めることができないでいた。
『認めたくない』
そんな気持ちが僕の身体の内側で渦巻いていた。
彼女が成田を出発するのは十九時。時計の針は十八時少し前、今からタクシーを拾えば間に合うかもしれない。そんな状況になっても僕の体は動いてくれない。授業が終わって誰もいなくなった教室で独り夕焼けに染まる黄金色の空を眺めていた。
夕暮れに染まってゆく教室の窓際の、いちばん後ろの席。僕は彼女とのこれまでの日々を振り返っていた。
付き合いだして初めて行った夏祭り、キスの仕方も知らなくて、お互い顔を真っ赤にしたクリスマス。
今では、そんな日々の出来事がとても遠い過去の出来事のように感じる。
そういえば、桜と前にこんな夕焼けの放課後。教室で話したことがあった。
『ねぇ、ハジメ。もし、もしもだよ。わたしがいなくなっちゃたらハジメはどうする?』
そのとき、たしか僕は、桜の目をしっかり見つめてこう言った。
『僕は桜がどこにいても、絶対に桜のこと……見つけてみせるよ』
カナダに出立する日になった。
結局カナダ行きの話をしてからハジメとは一度もまともに話していない。正直、わたしはショックだった。昔からハジメは意気地がなくて、いつもわたしの後ろに隠れていた。ずっとわたしにとって弟みたいな存在だったけれど、わたしが傷ついて立ち上がれなくなった時。いつも傍にいてくれたのはハジメだった。
何をするにもいつも一緒だったハジメが……その時、初めて男の子なんだと意識した。ハジメは普段頼りなくて、意気地がなくて、弱虫だけど、わたしが本当に必要としている時は一番頼りになる。そんな一人の男の子。
――そう思っていたのに。
空港の時計の針が出発の一時間前の十六時をわたしに知らせる。もうハジメは来ないかもしれない。
仕事の連絡があるから、終わるまでそこの喫茶店で時間を潰していなさい……そう言う父の提案で、ちょうど滑走路の見える喫茶店に入った。
わたしはカフェモカを注文した。ほんのりとした甘さがわたしには少し切ない。
あたりは少しずつ夕焼けに包まれてゆく。
わたしの視界はいつの間にか黄金色に歪んでいた。瞳からは熱を帯びたなにかが溢れ、テーブルの上に敷かれたクロスに小さなシミを作った。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
いつの間にか隣には、白髪の混じった初老の男性店員さんが立っていた。真っ白のハンカチをこちらに向かって差し出している。
わたしは急に恥ずかしくなって、差し出されたハンカチで目元を押さえ、柔和な笑みを浮かべるおじさんに向き直る。
「たまにいらっしゃるんですよ」
そう言って彼は語り出した。
彼はこの空港ができた当初から、この喫茶店を経営しているらしい。彼は笑みを絶やさず、わたしを見つめてどこか懐かしそうに語った。
「この空港もね、できた当初はデモなんかもあったりして大変だったんだよ。もちろん、そんな時期はお客さんも中々入らなくてね、当時は苦労したよ……でもね、こうして周囲の人にも認められて今があるんだ。わたしはね、ここで本当にたくさんのお客様を見てきたよ。そう、こうやって一人こんな寂しい場所で泣いているお嬢さんのような方もね、みんな別れるのが哀しいんだ、それに寂しい、大好きな人を残して旅立ってしまうのがね。けれどね、お嬢さん。生きていれば、きっと大切な人と大切な人はまたいつか出会えるよ。それに今は世界中のどこにいたって連絡を取ろうと思えば取れる。会いたくなったら愛しい人を思い出すことだってできる。みんなそうやって愛しい人を心の拠り所として生きているんだ。大丈夫、お嬢さんが本当にその人を愛おしいと思っているなら、神様がきっといずれ縁を結んでくれるよ」
おじさんの細くて優しい目が、わたしのふさぎ込んでいた気持ちを少しだけあたたかくしてくれた。
でも。
「でも、わたし寂しいです。それにハジメ……わたしの彼がこれから先、ちゃんと独りでやっていけるのか不安なんです。それにわたしのことをちゃんと覚えていてくれるか……」
そうか、おじさんは真っ赤に染まる空を、どこか遠くを見つめて小さな声でそう呟く。
「お嬢さんはその子のことが本当に大好きなんだね」
はい、わたしは少しだけ俯いてそう答えた。顔が少しだけ火照るのを感じた。
「ふふ、その様子ならきっと大丈夫だよ。その子もきっと君のことを大切に思ってる」
そう言うおじさんの言葉は、素直に嬉しかったけれど、わたしはまた『でも』と反発してしまう。
「ここ最近話せていないんです。カナダ行きを伝えて以来、なんだかわたしのことを避けているみたいで……きっと見送りにも来てくれない」
なんでわたしはこんなにふうにうだうだ考えているんだろうか、これじゃあ、ハジメみたいだ。
「時間です」
わたしは腕時計に目を落としてそう伝えた。タイムオーバー、わたしの頭の中ではそんな文字が浮かびあがる。
電話を終えたのだろう、お父さんが出口でこちらを向いて手を振っている。
話を聞いて頂いて少しだけ楽になりました。ありがとうございます。
わたしはそう言って立ち去ろうとした。そんなわたしの前におじさんは一枚のコースターを差し出した。
「なんですかこれ?」
「きっと彼はここに来るから、メッセージ」
残していきなさい。
おじさんはわたしを真剣に見つめてそう言った。これはおじさんの勘だ。信じなくてもいい。けれど、きっと貴女の思いは彼に届くだろう。
おじさんはとても自然にそう口にした。
わたしは思いだしていた、これまでのハジメとの思い出を。
一緒に行った花火大会。
よくかくれんぼをした公園。
初めてデートをした水族館。
それにお母さんが亡くなってしまった時、黙ってそばにいてくれた夜。
本当にいろいろあった。いっぱいあり過ぎて何を書けばいいのかわからないほどに。
「君の素直な想いをそのまま言葉にすれば、必ず伝わるよ」
おじさんの言葉を皮切りに、わたしは今のわたしの想いを「精一杯」一枚のコースターに綴った。
――ねぇ、一。わたしの気持ち、ハジメに伝わったかな?
僕は駆け出した。一気に階段を三段飛ばしで下る。足がもつれて着地に失敗する。尻餅をついたが気にしない。気にしていられない。昇降口で急いで靴を履きかえて駐輪場に止めてある自転車に乗って走り出す。
僕は立ち漕ぎができない。座ったまま学校の前の急な坂を上っていく。汗をかいてワイシャツが背中にピッタリとくっついているのがわかる。
駅に着くとちょうど駅前のロータリーにはタクシーが一台止まっていた。僕は乗ってきた自転車を放り出してタクシーに乗り込んだ。
「成田まで!」
自分でもびっくりするほど大きな声がでた。
タクシーが走り出す。
猛スピードで前を行く車を次々と追い越した。
僕がタクシーのおじさんの顔をチラッと伺うとおじさんは黙って小さく頷いた。
あっ、という間に成田に着いた。僕が急いでお代を出そうと財布を取り出そうとするとタクシーのおじさんはバリトンのきいた声で一言。早く行きな、それだけ言って僕を送り出してくれた。
僕はまた走り出す。
ただ一人、愛おしい人の姿だけを捜す。けれど必死に走らせる視線の先に彼女の姿は映らない。
せめて見送ろう。
僕は空港内の滑走路がよく見渡せる喫茶店のテラスから、桜の乗っているであろう飛行機を遠目で見つめる。
飛行機は徐々に、しかし着実に速度を上げ滑走路から宙に躍り出る。
あっ、と言う間に金属の鳥は小さな影になり、そして消えた。
僕は独り悔いていた。去りゆく彼女になにも言えなかったことを。
僕の視界はいつの間にか何か熱いもので満たされていた。そして滑るように熱いものが
足元へ落ちた。
いつの間にか、僕の目の前には白髪の少し混じった初老の男性が立っている。
店内を見渡すとタキシード姿の目の前の男性と似通った服装の人が数人いる。きっとこの喫茶店の制服なのだろう。
男性は僕の手元に一杯の珈琲を差し出した。
頼んでもいないのに落ち込んでいる姿に同情されたのだろうか、と僕は自分が少し情けなくなる。
「コースターの裏を見てごらん」
店員さんは僕に背を向けて去って行った。
僕は黙って店員さんが言ったとおりコースターを裏返した。
――泣くな、一。どこにいたって見つけてよ!
そこには見慣れたまるっこいかわいいらしい文字で、そう書かれていた。
僕は珈琲を一口含んだ。
それは確かに苦いけれど、どこかほんのり甘い味。
飛行機が加速する。速度はどんどん上がって、そして飛び立つ。
少女は飛び立つ飛行機の中から、徐々に遠ざかる空港を眺めた。すると、一番外れの小さなテラスに、よく見慣れた泣き虫の少年の姿を見つけたような気がした。