プロローグ
「待てって!」
「待てって言われて待つヤツがいるか、バーカバーカ!!」
「ちょ、梨世!」
「うっさいわ!」
とある駅前の広場。
急な残業でクタクタになった私が勤め先のビルから出てきたところで偶然見てしまったのは、なんと自分の彼氏の浮気現場。もう最悪。
ついてないなぁ。
寒空の下、暖め合うかのようにギュって抱き合ってる二人。ちょ、お二人さん。ここは駅前ですから結構人通りあるんですよ見られてますよ! −−じゃなくて。でもあんな風に抱きしめられたのって、いつだっけ。思い出せないくらいになっちゃってるなぁ。
ここは見なかったフリでビルに引き返すか、それとも声を荒げて乱入するか。後者はないな、すでに疲れてるもん、そんな気力体力残ってない。じゃ、見なかったフリするか−−。
そんなことを思いながら疲れ半分でぼーっと二人を見ていたら、絶賛浮気中の彼氏と目が合ってしまった。
ギョッとする彼氏。そりゃ当たり前か。浮気現場見られてるんだから。
なんか、もういいや。
自分の中で何かがプチンと弾けた。そして悲しいとか悔しいとか思う前に出てきたのは、そんな諦めに近い言葉。あら、もうこれ終わっちゃってるんじゃない?
「バイバイ。もういいから」
私はひと言だけ彼にそう言って踵を返し、後手に手を振って歩き出した。ビルでもなく駅でもなく、最寄駅とは反対方向に。だって駅に行こうと思ったら彼氏たちの横を通り過ぎなくちゃいけないんだものさすがにそれは無理ってものよ。
ちょっと寒いけど気分を落ち着かせがてら一駅歩こう。
そう思って足を踏み出したところで、「待てよ」と腕を引かれた。
振り返ると困り顔の彼。
「なに? 邪魔するほど無粋じゃないんだけど」
「違うよ、梨世の思ってるようなこととは本当に違うから」
「はい、浮気現場見られた人の常套句出ました〜」
「違うってば!」
なんかもう、ベタな言い訳すぎて笑いが出るわ。
腕を振りほどいて歩き出そうにもがっちり掴まれている。それでも構わず私は歩き出した。
「彼女、あんなところにひとり置いてきぼりでいいのかしら?」
チラリと後ろを振り返り、嫌味を言う。ふんわりしたボブが肩の上で揺れる、可愛らしい子。今年入社してきたばかり。不安そうな顔でこっちを見つめているのも、儚くて守ってあげたい感じよね。
でも彼はそちらにちらりと視線をよこしただけで、すぐにまた私を見て、
「いいんだ」
ですって。冷たい男ね!
腕を掴まれたまま彼を引っ張るような形で歩いていると、いたたまれなくなったのか、
「あのっ! 千夜さんっ!!」
彼女が声を上げた。
「ほらほら、彼女が呼んでるわよ」
その声にビクッとなって腕をつかむ力が緩くなったところで、私は彼の手を振りほどき、一目散にダッシュした。
そして冒頭に戻る。
ひと駅向こうまでの追いかけっこ。
通勤用のぺたんこバレエシューズで助かったわ〜。仕事用のヒールなんかでダッシュしてたら絶対コケてる。
とにかく必死で走って逃げる。
あの場から、彼から。
そもそも千夜とは釣り合わないと思ってたのよ。十人並みの容姿の私と、かっこよくて優しくて仕事のできる千夜。美人系かわいい系どれでもよりどりみどりな千夜が、平々凡々な私に「付き合って」って言ってきたのがおかしかったんだわ。平凡な私には過ぎた幸せだったのよ。
付き合って一年。長かったのか短かったのか。もうどうでもいっか。
いろんなことが頭の中を去来しているせいで周りを全然気にしていなかった私がハッと気が付いた時には。
−−横断歩道のど真ん中だった。
え、これやばくない!? 慌てて信号を見れば、バッチリ『赤』! しかも運の悪いことにキキーッというブレーキ音。
スローモーション(当社比)で横を見れば、迫るヘッドライト、急ブレーキに鳴くタイヤ。
あ、これ終わった。
「梨世っ!!!」
そして、千夜の声。
悲劇のヒロインぶってる場合じゃなかった〜!
ごめんなさいごめんなさい、赤信号で飛び出した私が悪いんです! 運転手さんは悪くないから責めないでね! 小さいころから教えられてきましたよ『赤は止まれ』って。決して『注意して渡れ』じゃないんだって!
千夜、私が信号無視して飛び出したの見てたよね? 警察来たらちゃんと証言してよ、運転手さんは悪くないって!
死ぬ間際って思い出が走馬灯のように脳裏をよぎるって聞いたけど、さっきから私、謝ってばかりだよね。主に運転手さんに。
え、もしかしてこれ大丈夫な感じなの? ……って、絶対違うよね? もう直ぐ横に車のバンパー迫ってるもん。いや、以外と冷静なもんだ。
運転手さんマジごめん!!
ああ、助からないならせめて。
生まれ変わったら、普通に幸せになれますように!