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結/夜ノ夢コソ

        8


 ごくり。おそらく、ぼくの喉が鳴った。エアコンの風が吹いている。窓の外ではセミが鳴いている。ぼくの心臓は激しく鼓動を撃ち鳴らし、外にいる時の比ではないほどの冷汗を流していた。

 ぼくの目は、蜘蛛のぬいぐるみに向けられた。そして、その下を見る。もともと座布団の上に正座をしていたものだから、姿勢は床の近くまで低くできる。出来うる限り姿勢を低くして、ベッドの下を覗いてみた。

 そこには、ほんの僅か、小さな隠し扉のものを思わしき取っ手のようなふくらみがあって、探そうとしても、そこにあると確信できなければ気付かないように、巧妙にカーペットをかぶせてあった。おもわずカーペットをめくると、小さな取っ手がある。ぼくは、その取っ手を引いた。エアコンのものよりも冷たい空気が、ぼくの震える右手を一層冷たくした。

 中を、覗いてみる。何も入っていないかもしれない。もしかしたら、この中に何かが入っているかもしれない。そんな恐怖と、もはや抑えることも忘れた好奇心がせめぎ合って、とうとうぼくは、その中を確認した。

 ――なにも、ない。この中には、何もない。もしかしたら既に「すさのをくん」がこの中に眠っているものと思ったのだけれど、どうやらまだらしい。確かにこの日記は途中で終わっているし、これからその「すさのをくん」とやらが収納されることになるのかもしれない。では、その「すさのをくん」とは、一体誰なのか。

 昔の記憶を、掘り返す。小学時代、川辺でいじめを行っている少年たちから、太った少女を助けた覚えがあった。勝手に上着を渡したものだから、その後で親にコートをどうしたのかと怒られたことを覚えている。中学時代、全く見覚えのない女子生徒から告白されたのを覚えている。まったく好みではなかったし、正直不細工な部類だと思っていたから、断ったのだ。そこからたまに、奇妙なストーカ―まがいのようなことがあったけれど、中学時代は意外とモテたものだから、誰がやったのかわからなかったけれど……。

 ――もしか。すさのをくんとは、ぼくのことなのか。


「あら、なにをしているの」


 唐突に、ぼくの背後から、明るい声が聞えた。振り向くと、そこには彼女の姿があった。思わずのけぞってしまって、ベッドに背中をぶつけた。その衝撃のためか、ころんと鈴のような音がして、丸っこい蜘蛛のぬいぐるみが、ぼくの前に落ちた。ぼくは、呼吸が止まりそうな状況で、空気を吸う代わりに、息を飲んだ。かつてないほど呼吸が震えていて、もしかしたらこのまま呼吸ができなくなってしまうのではないかと思うほどに呼吸が乱れて、彼女を見るぼくの前に、彼女は「はい」と盆を差し出した。


「待たせてごめんなさい。今さっき、できあがったの」


 彼女の差し出した盆の上には、手作りと思しきクッキーが並べられていた。思わずそれを見つめてしまった。もしかしたら、この中に睡眠薬でも入っているのではないか――と。しかしそんなことを口に出せるわけもなく、ぼくは静かに、小刻みに震えた口を開く。


「うん。美味そうだね」


 彼女の機嫌を窺いながら、なるべく平静を装って告げたつもりだったけれど、どうにも声が震えてしまって、うまく声に出せた自信がなかった。それでも、このまま変に動揺した様子ばかりをみせるわけにはいかないと思って、ぼくは転がってきた蜘蛛のぬいぐるみを片手で掴み、ベッドの上へ戻して彼女を見た。


「もう、あんまり女の子の部屋を詮索しちゃダメですよ。……それにしても、どうしてベッドの下なんか漁っていたの。わたしは男の子ではないから、卑猥な本などを隠しているわけではないのに」


 ぼくが彼女からクッキーの乗った盆を受け取ると、彼女は部屋の隅に置いてあった折り畳み式の机をベッドと壁の隙間から取り出して、脚を広げ、ぼくの前に机を置く。彼女は、ちょうどぼくの向かいになる位置に座布団を敷いて、その上に座り、じっ、とぼくを見つめた。どうしてぼくを見つめるのだろうと思っていたら、どうやら彼女は、この盆を上に乗せるために折り畳みの机を出したらしい。「ごめん」と、ぼくは机の上に盆を置いた。


「ところで、どうしてその日記持ってるのかしら」


 彼女の目が、ぼくの隣に置いてある日記に向けられた。


「え、あ……いや。これは、たまたまそこで見つけてね」


 そういって、ぼくは机の下を指す。これは机の下に隠してあったと思われるものであるが、机の下からはみ出ていたものをたまたま見つけたというのは事実だし、なにも嘘は言っていない。それでも、このノートを勝手に見てしまった罪悪感と、このノートに記されていた並ならぬ狂気への恐怖とが相まって、先のセリフは、上手く声になっている気がしなかった。

 それなのに、「そうか、見つかっちゃったか」と、彼女の声は妙に明るくて、少しも怒る様子を見せず、にこにこと笑っている彼女がどうにも不気味で、ぼくはとてもではないけれど、冷静ではいられなかった。


「それ、読んだ?」


 いつもの笑顔とは少し違って、僅かに不安を覗かせた、揺れる瞳で、彼女は問う。そこには一体、どのような意味が含まれているのだろうか。この日記をどこまで読んだのか、という探りか。それとも、この日記を読んだ上で、「わたしを受け入れてくれるかしらん」という期待をしているのか。どちらにせよ、ここで彼女に妙なことを言って、この日記の総てを読んだことを悟られるべきではない、と思ったぼくは、「少しだけ」と言った。

 所々読み飛ばしたものの、重要な部分はほとんど抑えているのだから、少しとは言えないだろう、と思ったが、「ほとんど全部を読んだ」と真実をいう勇気は、ぼくにはなかった。ここで変なことを言えば、この日記に追記がなされ、「すさのをくんはいつも一緒にいるの」などと書かれることだろうと思ったからだ。


「どうだった?」


 恐怖に震え、苦笑しかできていないであろう、ぼくの本心を暴きたいのか、彼女はそう問うた。何を答えればいいのかわからない。「最高だね」といえば、賛同を得たと思って、いますぐ置物になるかもしれないと思ったし、「反吐が出る」といえば、これもまたやはり拒絶されたと思って、あなたと価値観を共有できなかったのねと置物になるかもしれない。だからといって、何も答えないのも、これまた拙い。


「いや、ぼくには何とも」


 そう、喉から絞り出すのが精一杯だった。

 一体、彼女はどんな反応をするだろう。腕の振るえを必死で押さえようとしているぼくに、「そっか」と、明るいような、残念がるような、どちらとも取れる声で彼女はいう。


「わたしとしては、中々なんじゃないかな、と思ったのだけど、何ともいえないか。これではダメかな、題材段階で引きつけられないようでは」


「――へ」


 思わず、変な声が出た。彼女は確かに、題材といった。それは一体、なんの題材か。ぼくの疑問に答えるように、彼女は続けていう。


「わたし、以前に、趣味で小説を書いてると言ったでしょう。それはその題材で作ってみたものなの。昔から頑張って書き溜めているのだけど、わたしにはこういう異常者の心理が今一つ理解できなくて。今回のものは、なかなか上手くできてるかなと思ったのだけど、ダメみたいだね」


 そういえば、趣味で小説を書いているようなことを、出会って少ししてから聞いたことがあるような気がする。

 どんどんと肩を落としていく彼女の声を聞きながら、ぼくはなんとなく、そんなことを思い出していた。これが真実のものではなく、作り物と分かったので、ぼくの身体は一気に力が抜けて、ベッドに寄りかかって大きく一息をついた。


「いや、中々いい出来だった。本物かと思ったよ」


 完全に騙された、と思った。参った、という降参の意を込めて、ぼくはその日記を彼女に手渡した。大事そうにその古びたノートを受け取り、胸に抱いた彼女は、それなら嬉しいな、と笑顔で笑った。その笑顔はおそらく、彼女の本当の笑顔のもので、先ほど、一瞬でも彼女を狂人ではないか、と疑ってしまった自分が情けない。


「ねぇ、これを題材にするとしたら、どんな結末にしたらいいかな。なかなか結末が思いつかなくて」


「……結末かい」


「うん。これは乱歩の作品をモチーフに考えてみたものなのだけれど、どうにも結末が上手く思いつかないの。ほら、探偵ものというのは、普通は事件が解決して終わりじゃない。けれど、そうではなくて、少し変わったエンディングも面白いかな、なんて考えてみたのだけれど」


 そういって、彼女は食べて、とクッキーを差し出した。


「なるほどね、それは面白いかもしれない」


 彼女の持ってきたクッキーに手を伸ばし、「いただきます」と告げたぼくは、クッキーを齧る。さくりとした触感と、滑らかな舌触り、口に広がるほどよい甘みと、バターの塩気、まだ熱いとはいわないまでも、熱の残った出来立てのクッキーは、とても美味しいものだった。


 彼女の考える、「変わったエンディング」の話で花を咲かせつつ、小一時間ほど話していると、なんだか眠気が訪れてきた。駅からここまで歩くのに、それなりの時間を有していたし、彼女の帽子を取りに行くのに全力疾走をしたし、なにより、彼女の『題材』を読むことに精神的に摩耗していたことが大きな原因だろうか、とても抗えないような眠気だった。どうにも目を開けていられなくて、ぼくはうとうとと首を上下させる。


「ごめん、とても眠い」


 話の途中でぼくが言うと、「仕方ないわね」、と彼女はぼくの隣にやってきて、ぼくの頭を静かに自分の膝の上に載せる。彼女の柔らかであり、玉のようにすべすべした、エアコンの風のために冷えたその脚が、程よい高さの枕になって、ぼくを眠りに誘った。


「起きたらまた、話そうね」


 微笑む彼女に、ぼくは頷いた。最後に見た彼女の口元は、静かに言葉を紡いでいた。


「おやすみなさい、    くん」


 薄れゆく、意識。

 ――現世(うつしよ)は夢。夜の夢こそ真実(まこと)

 その時に、何故だろうか。ぼくの頭には、乱歩のそんなフレーズが浮かんだのだ。


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