承/部屋ノ隅
4
「……お邪魔します」
彼女に連れられて、ぼくは家の門を潜り、部屋に招かれた。その家はやはり、ぼくの家の近所のもので、小学校の範囲にはないだろうけれど、中学校は同じだったのではないかと思うような距離だったので、もしかしたら、先ほど偶然会った旧友の言う通り、彼女は大学か高校の頃に、ここに越してきたのかもしれないと思った。
今日は彼女の父親は遅くまで仕事らしく、その隙に母親に紹介するという話らしいのだが、その母親も今はパートの時間のようで、まだいない。知らない家で、その家の娘と二人きりという状況は、家の空気に慣れず、ちくちくと、肌の周囲を爪楊枝のような小さな針もので刺されている居心地だった。
彼女の部屋は二階の東にあり、家の廊下を通った印象では、小奇麗な家である。また、やはりぼくの家とは違い、この家独特の家の匂いがあった。別段ぼくは匂いのフェチズムがあるわけでもないのだけれど、鼻は少しばかり敏感なようで、なんとなく「この匂いはあの人の匂いだな」というのがわかる。彼女の家にはやはり、彼女の匂いの大本とでもいえる匂いがあった。どこか、あさがおの花を思わせるような、透き通る綺麗な香りだ。
そんなことを感じながら、彼女の部屋を通される。彼女の部屋もまた、家の廊下と同じように小奇麗にしてあって、高校時代に使っていたと思われる勉強机と、その横にたくさんの本が入った本棚が置いてあった。部屋の壁は白いのに、彼女の匂いがするからか、それとも、床に、薄いピンク色のカーペットが敷いてあるからか、どこか透き通ったピンクの部屋であるように感じた。
彼女の部屋には、必要最低限なものと本の他には、ほとんどなにもない。やはりピンクのベッドと、一つだけ、くりくりした眼、太く亀のような足をして可愛らしい蜘蛛のぬいぐるみが、ぽつんと布団で寝ているが、女の子の部屋であるから、これくらいは普通というものであろう。どうして蜘蛛なのか、と以前に聞いたことがあったけれど、彼女が初めて読んだ乱歩の小説が、蜘蛛に関する小説であるとかで、このぬいぐるみは、東京の方の彼女の寮にも置いていると言っていた。
これくらいの年齢なら、いくら可愛いぬいぐるみでも、蜘蛛よりは男性アイドルなどに興味をもつものではないか、と思っていたけれど、これまで話した中では、彼女の口から、一片たりとも、アイドルとかそう言った類の単語が出てくることはなく、どうやら本当に、アイドルなどには興味がないらしい。
「これを使って、楽にしていてね」
ブーンと、エアコンが起動する音と共に、彼女はぼくに座布団を差し出した。ぼくは座布団を受け取って床に敷き、その上に正座すると、彼女は「そんなに畏まらないでいいのに」と笑った。ここは一応、女の子の部屋であるわけだし、いくら恋人だからと言っても、初めて入る異性の部屋は緊張するものだろう。ぼくが、落ち着かない空気に、少しばかりそわそわとしていると、彼女はぼくの緊張を解こうとしたのか、ぼくの隣に腰を下ろして、ぼくにもたれ掛るように、トンとぼくの肩に小さな頭を置いた。
「大丈夫だよ」
耳元でそんなことを囁かれたものだから、ぼくは思わず彼女の隣から飛び退いて、床に手をついた。はじめはぼくの挙動に驚いたらしく、大きく開いていた彼女の瞳は、ぼくの滑稽な仕草と表情を目にしてか、次第に悪戯に細まって、右手を口元にあてがいながら、くすくすと笑う。なんだかそれが無性に恥ずかしくて、ぼくの顔が熱くなるのを感じた。顔から火でも出そうなほど、ぼくの顔は熱くなっていて、そうやってすぐに顔に出てしまうのが、また尚更に恥ずかしく、ぼくは彼女に背中を向けた。
「ごめんなさい、あなたが可愛かったものだから、少し悪戯をしてしまったわ」
「それくらいで勘弁してくれ、こういうのは弱いんだ」
「ええ、少しやり過ぎたかも。お詫びにお菓子を持ってくるわ。あなたが来るから、昨日のうちに、クッキーの生地を準備しておいたの。それを今から焼いてくるから、少しばかり待っていてね」
そういって、彼女が部屋を出る前に、「飲み物なら、すぐに持ってこられるけれど」とぼくに問いかけたので、ぼくは「今は大丈夫。クッキーと一緒にコーヒーか牛乳を飲みたいかな」と言った。
バタンと静かに扉が閉まり、彼女が階段を降りるトントンという子気味のいい音を聞いていると、なんだか余計に、ぼくの周りの空気が、一層厳しくなったように感じた。お前はここにいるべきものではないよ、はやく出なさい、そんなことを言われているようで、ちくちく、ちくちくと、爪楊枝のような小さな針のもので、この家の空気はぼくの肌を刺す。
どうにも居づらいなぁ、と周囲を見渡していると、ふと、彼女の勉強机の下に、不自然な形ではみ出ている紙があった。一体なんだろうと、座った姿勢から両手をついて、四つん這いの形で近づいて見てみると、ピンク色の装飾の、ノートらしきものがあった。もしかしたら、このノートは、彼女が、掃除かなにかの時に見落としたものかもしれない、と思い、ぼくはそれを出してみることにした。
立ち上がり、彼女の勉強机を持ち上げてみる。机の上にあるものを、下に落としてしまわないよう、机の角度に気を付けながら、引き出しの中に本などがたくさん入っているのだろうか、思ったよりも重かったその机を持ちつつ、不作法ながらも足でノートをひっかけて、それを机の下からしっかりと取り出したのを見て、もう一度机を降ろして、元通りにする。念のために机の上を見ていたけれど、多少ものがずれたばかりで、ものが落ちるとかそういったことはなく、僅かに浮いた額の汗を拭って「ふぅ」と息をつく。
座布団の上にどすんと座ったぼくには、この部屋に対する緊張などよりも、今先ほど手に入れた、このピンク色のノートがいやに気になって、とても空気の機微などを感じてはいられない。このノートは何なのだろう、好機でノートを手に取って、それを見る。
相当古いものなのか、ピンクのノートは薄汚れていて、太陽の光に当てられたのか、それとも、年月のための劣化なのか、大部分が黄ばんでいた。それでも折り目などはほとんど見当たらなくて、大切にしていたことが伺えるノートであった。こんなノートが机の下にあるというのは、どうにも奇妙な話である。ノートの表紙を見ると、小学生ぐらいの稚拙な文字で、『未来日記』と書いてあった。
「ああ、懐かしい」思わず、ぼくは心の中で嘆息した。
この『未来日記』というものは、ぼくが小学校だったか、中学校だったかの時に流行った代物で、現在を生きる自分が、未来の自分になりきって、自分の未来がこうなったらいいなと、未来への憧れを書き記すというものである。
例えばぼくが、小説家になり、多くのファンからファンレターを貰いたいと願っているとする。であれば、ぼくが『未来日記』に記す内容は、
『20××年、×月×日。ぼくの書いた本が百万部を超えて、なんと直木賞をも取るような大作となった。既に映画化の話も来ていて、自分でも、あんな作品がどうしてここまでのヒットを生み出したのかはわからないけれど、あの作品は、ぼくなりに自分の魂と呼べるものを削って書き記したものであったから、感極まるというものだ。また、ファンからは多くの手紙をいただいた。どれもこれも応援の言葉で、本当に頭が下がる思いでいる。中には自作小説を送ってくれる人もいて、自分はなんて恵まれているのだろうと思った。』
――といった具合だろうか。
子供(特に男の子)というものは、今を懸命に生きていて、明日のことなど考えていない刹那主義が多いことである。未来に思いを馳せるといえば、正義の味方になるとか、消防士や警察官、スポーツ選手になるとか、そんな、今の自分から、なりたい自分にどうやってなるのか、なんていう過程を考えないものだから、この『未来日記』というものはあまり流行しなかった。けれど女の子は、少なくとも男の子よりはものを考えているようであったし、恋に悩む子も少なからずいたものだから、その願掛けのような形で、一部はこの『未来日記』を記していたと記憶している。
ぼくは、彼女が書いたのだろうと思われる『未来日記』をじっと見つめて、数分間、己の内にある良識と、好奇の心とが勝敗を決するのを待っていた。やがてどうするかを決めたぼくは、その『未来日記』を開いてみようと決心する。どうやら、ぼくの心の中では良識が敗北し、好奇の心が勝利を収めてしまったらしい。正直なところ、こういう盗み見というのはあまり好みではないが、どうしてもこの古臭いノートが気になって仕方がない。
また、幼い頃の彼女は、どんなことを思って生活していたのだろうと思うと、まるで彼女の古いアルバムでも見るような心持になって、自分の知らない可愛い一面があったのだと知れたらどんなにいいだろうと、意図せぬところで考えてしまったのである。
人間、情欲には勝てぬ。情欲を抱くものこそ人なのだ。坪内逍遥の『小説神髄』をなんとなく頭に思い浮かべて、言い訳がましく「仕方ない、人は情欲に生きるのだ」と心に復唱して、ぼくはそっとそのノートの真ん中あたりを開き――。
「……」
――パタンと、閉じた。
今のは、一体なんだったのか。
再度、開いて。
見間違いではなかったと、閉じる。
理解を拒んだぼくの頭が、思わず現実から目を逸らそうとするけれど、手に持ったノートがぼくに「現実を見ろ」と語り掛けるようで、どうにも考えがまとまらない。エアコンの音だけが静かにこの空間に音楽を奏でていて、遥か遠くで、セミの鳴く声がした。ごくりと、唾を飲み込む音が鳴り、どくどくと、心臓が激しく脈打った。身体からは、とめどなく汗が流れ出ているのに、身体は寒いと思った。
ぼくの脳裏に思い出されるのは、ノートの中身。何が書かれているのか、そこまでは読み取ることは出来なかったけれど、それでも感じるものがある。これは開いてはいけないものだ、この中には、狂気が詰まっている。これを読んでしまっては、もう後戻りはできなくなる。おそらく、今の彼女との関係もここで終わりだ、ぼくは彼女を受け入れることができなくなるだろう。それは、駄目だ。ぼく自身がそんなことを望んでいないし、なにより彼女が悲しむと思う。ぼくの勝手な好奇心によって関係が壊れるぐらいなら、ぼくはこの好奇心を殺すべきなのだ。
わかっている。それはわかっているけれど、やはり頭に浮かぶのは、先に目にしたノートの中身。丸みのある、女の子の書くような文字が中央にあり、それを取り巻くように、蚯蚓や蛞蝓でも這った様な、生理的嫌悪を催す不気味な文字の羅列が、ぼくの目から離れない。この、白いはずのノートの中身、その一面が黒く染まるほどに這い回った、狂気の文字列を、あの彼女が書いたものであるならば、ぼくはきっと、知れば後悔するような、彼女の秘密の一面を目にすることになるだろう。
それでも、ぼくの右手は、憎らしいことに、ぼくの意志に反して、また、警鐘を鳴らす脳の信号を無視して、そのノートを開いていた。そしてぼくの目も、彼女が描いたのであろう狂気の世界から、目を離せなくなっていたのである。