起/彼女
とある知り合いのあだ名である「すさのを」をモチーフに、その場のノリと勢いで書き始めた作品。
当初はこんな近代文学っぽい作品になるとは思いませんでしたが、近代文学らしい改行でありつつも、現代文学らしくひらがなを多めに使ってみたので、多少は読みやすくなっているかと存じます。
それほど長くはない作品でありますし、頭もそれほど使わずに読めるとも思うので、是非、軽い気持ちで読んでいってください。
現世は夢。夜の夢こそ真実。
かの小説家、江戸川乱歩は、サインを求められた際に、こう書いていたという。これは、「わたしたちの生きる現実世界は夢であり、夜に見る夢こそが真実のものである」という、文字通りの意味合いであるが、この言葉はまさしく、江戸川乱歩の作品を象徴したものであるといえる。
もしか、彼の言葉が真実のものであったなら、今ぼくが見ているこの現実もまた、夢であり、幻想であり、ほんの小さなきっかけで崩れ去るような、脆いものであるのかもしれない。ぼくの現世が崩れ去った時、夜の夢は本当の形を帯びるのだ。これから訪れる夜の夢にこそ、闇夜の幻想にこそ、ぼくの真実があるのだろう。
けれど、真実にばかり意味があるとは思えない。もしぼくの見ているこの現実が夢であったとして、そして夜の夢が残酷な真実を示すものであるというのなら、ぼくは、盲目なまま、現世の夢を見ていたいと思う。その幸福な現実に、生涯を、幸福に過ごしていこうと、そう、思っていたのに。
「おやすみなさい、すさのをくん」
ぼくが掴んだ、現世の中に隠されていた夜の夢。その真実は、果たして、本当にぼくが欲していたものなのだろうか。
1
その日は、天気がよかった。
空は青く、雲だってほとんど見当たらない、いわゆる快晴である。もう夏も佳境に差し掛かるという時期、時刻も昼間であるにもかかわらず、ささやかな風はさらりと涼しく、湿気もそれほど感じない。ぎらぎらと輝く日光に当てられて、肌はほんのり汗ばんではいるし、ミンミンと、セミの鳴き声が騒ぎ立てているものの、口に出すほど不快に思うものではなく、適度に『夏』を感じさせるものである。
それらはまとめて爽快、と一言でいってしまえばそれまでだけれど、この胸にある、いいようもない夏を象徴した心地よさは、爽快という一言で表すにはもったいないような気がしたのだ。
ぼくは、そんな爽快に思う夏の道を、歩く。
ぼくの右手に見えるのは、マンションが立ち並ぶ住宅街。マンションの近くにある公園では、母親たちに見守られて、楽しく遊具や砂場で遊ぶ子供たちの姿がある。小さなころは、ぼくも親や友達とあの公園で遊んだもので、子供たちの姿は、かつて公園で遊んだ過去を思い出させた。
ぼくの左手に見えるのは、幼き日々を遊んで過ごした川辺。季節が季節だけに、シャツとパンツだけになった幼い子供たちが、わいわいとはしゃいでいた。昨今の子供は家でゲームをすることが多いと聞くけれど、この街の子供たちは外で遊ぶこともするらしく、ぼくが積み重ねてきた楽しい日々を、他の子供たちもまた同じように過ごしていることを思うと、嬉しい限りである。
そしてぼくが歩くのは、川辺から少し上にある土手道だ。ここはちょっとした高い道になっていて、ここを歩くだけで実に多くの景色が見渡せる。これはドラマやアニメなどでもよくあるような土手道で、ぼくが中学校の頃には、ここでテレビ番組の撮影をしていたことをよく覚えている。それぐらいには、いわゆる『よくある』見事な土手道なのだ。
小さい頃は、こんな田舎くさい街なんかさっさと出て、おれはせっせと都会で働くぜ、なんて意気込んでいたものだけれど、久々にこの場所を歩いてみたら、なかなかどうして悪くない。ぼくの生活する東京都内とは違って、ここでは低い位置からでも、多くの景色が見渡せる。綺麗な街景色、美しい自然に、はしゃぐ子供たち。
昭和風というか、古臭いというか。ぼくから言わせてみれば、『いとをかし』という感じで、この街は大好きなのだけれど、都会に生きた人々からしてみたら、「なんだい、こんな古臭い街は」と小馬鹿にするかもしれないなと思う。
すぅと、深く息を吸った。
鼻には、昔から慣れ親しんだ、爽やかでありながら、どこか渋みを感じさせるような、草木と土、そして川の香りがした。目を閉じれば、かつて自分が見聞きし触れた、あの日のままの風景が広がっている気がして、都会で切り詰められた心が柔らかくなるような温かみを胸に抱き、「うん」と、頷いた。
ぼくが東京の大学で一人暮らしをするようになって、社会の荒波(所詮は大学生が社会の荒波などというにはまだ早い、生温い、と思われるだろうが、田舎者のぼくにとっては十分すぎるほど荒波であったのだ)に揉まれ、半年ほどの都市を経てこの街に帰って来た時の感想が、「空気が美味い」であったことを思い出した。
本当に、恵まれた環境にあったのだと、つくづく思う。
今のぼくは、きっと幸せだ。
これまで生きてきた中で、最高に楽しかった日々が多くある。辛いこともたくさんあったけれど、それでも楽しい日々は確かにあった。しかし、それら幸福な日々と比べても、全く見劣りしないどころか、これほどまでに幸福な日々はないだろうな、と思うほどに、ぼくは今、満たされている。
心の底から生まれてよかったと思うし、本当に、幸せなのだと思う。
――それは、もしかしたら。
ぼくの隣で、微笑む彼女がいるからかもしれない。
「ここをね、ずっと先に行くの」
花が咲くような笑顔を向けた彼女は、ぼくの前に出て、小さく駆けて振り向いた。
彼女が着るのは、水色のワンピース。その上に羽織った白いカーディガンが、また彼女の白い肌を一層美しく魅せている。頭には少しつばが広めの麦わら帽子をかぶっていて、この帽子は昨今の若者にしては少しばかり地味なように見えるけれど、この目に映る景色や、彼女の着ているワンピースとカーディガン、風が吹く度に心地よい風鈴の音を鳴らしそうな、長くさらさらの黒髪、これらの要素が相まって、とても美しい芸術品のように仕上がっている。
これは写真や絵に収めて、いつまでも手元に残しておきたいな、とか、こんな彫刻品があったら家に飾っておきたいな、などとよこしまな考えを抱くほどには、それは美しいものだった。ぼくがそんなことを考えていると、少し唇を尖らせて、「ぼーっとしないで。ちゃんと話を聞いていてよ」と彼女が拗ねるものだから、ごめんと一言謝って、ぼくは小走りで、彼女の隣に並ぶ。
「手、繋ごう」
そういって、彼女はぼくに右手を差し出した。彼女は時々、本当にずるいとぼくは思う。おそらく自分でも意識していないのだろうが、僅かに腰をかがめた姿勢といい、子供が親にせがむような腕の出し方といい、そしてなにより、僅かに上目を向けて、ぼくを見るところが本当に完璧な可愛さを演出していて、この場面、この明るさにおいて最も適した角度で問うてくるものだから、ぼくも「いいよ」と頷く他ない。
夏だというのに、決してカーディガンを脱がず、またカーディガンの袖を捲ることなく、手首まで上手に隠してある彼女の手を握った。以前、彼女にどうして夏でも長袖を着るのかと聞いたことがあったけれど、その時は「あなたに相応しい身だしなみでいたいから」といっていた。彼女からしてみると、手首や足首を不用意に人前で晒すのは、恥ずかしいことらしい。良くも悪くも、近代文学の影響を受けているように思った。触れた彼女の肌は白百合のように汚れのない白で、そのさわり心地は玉のようにつるつるとして、またその手は、綿毛のように柔らかだった。
「それにしても、驚いた。ここ、本当にキミの実家の近所なのかい」
懐かしい雰囲気に浸りながら問うたぼくに、彼女は笑顔を向けた。
彼女の笑顔は、まるであさがおの花ようだと思った。あさがおの花は短命であるために、はかないものであるとされている。彼女の笑顔もまさしくそれで、普段は萎れたように心細くしているけれど、ぼくと話す時には満面の笑みで応えてくれる。けれどぼくと離れては、また萎れてしまうものだから、ぼくが傍にいなければいけないのだな、と男心をくすぐられてしまう。ぼくはきっと、彼女のそういうところに、どうしようもなく魅かれてしまったのだろう。
「うん。そうなの。わたしの家は、この近くでね。綺麗な景色でしょう」
くすくすと、あどけない表情で笑う彼女は子供のような笑顔であったけれど、大きく綺麗な僅かに目を細めて、悪戯心を含めた、妖艶を思わせるその瞳であるとか、真珠のように白く、綺麗な歯を見せるまいと、片手で口元を隠したりだとか、どうにも子供に似つかわしくない表情や仕草がまた、ギャップをそそるとでもいうのか、ぼくはまた堪らない気持ちになるのだ。
「ああ、本当に。ここは綺麗な景色だよ」
まさか、彼女の方も、ぼくの家がこの近くにあるなどとは思いもしないだろう。
彼女と付き合って、実に一年と五か月ほどが経過したのだけれど、互いの家について話すことは、ほとんどなかった。お互い寮に住んでいるものだから、大学にいる間以外には、ほとんど会うことはないし、もし彼女と会っていたとしても、なにも話さず本を読んでいたり、仮に話すとしても、内容は本のことばかりになってしまうので、とうとう、そのままずるずると引きずっていたのだ。そうして時間が経ったところで、先日、彼女が「わたしの親と会ってみないか」と言い出して、今に至るのだ。
その時に、ぼくは彼女の実家がどの辺りにあるのかを聞いたのだけれど、彼女はぼくの出身がどこなこか、尋ねることはなかった。ちょうどぼくも、実は、彼女の家にぼくの家が近いのだということを、ドラマチックに明かしてやろうと思って、敢えて何も言わず、その機会を伺っているのである。
ぼくたちの目的地である、彼女の家に遊びに行ってから、ぼくもこの近くに実家があるのだ、と教えようか。それとも、東京へ帰るときに「実は」と切り出して教えようか。いつ種を明かせば、彼女の大きく可愛らしい、くりくりとした瞳が、驚愕に見開いてぼくの顔を見るだろうか。そんなことを考えていたら、どうやら楽しい気持ちが顔に出てしまっていたらしい。
「なにを笑っているの」
不思議そうな顔で、彼女に聞かれてしまった。
本当はここで「ぼくもこの辺りの出身なんだ」と明かしてやりたかったのだけど、せっかく、これまで隠してきた秘密なのだから、どうせならぎりぎりまで溜めてから驚かしたいと思うので、ぼくは「なんでもないよ」と微笑み返した。
「……その顔は、なんでもなくない顔ね。教えてくれてもいいのに、いじわるな人」
小さな唇を尖らせて、拗ねた様子がまた可愛らしく、ぼくはやっぱり、「しばらく隠しておこう」と思うのだった。
2
ぼくは彼女と二人で、土手道を歩いていく。
左手の川辺で遊ぶ子供たちを見ていたぼくの目に、ざわりと、周囲の草たちが手招きをするように揺れたのが映って、少し大きな風が吹いたのだとわかった。小さな子供が「あーっ」と、大きな声でこちらを見る。初めは何事なのかと思ったけれど、子供の指差す方向を見てみればなるほど、子供たちを見ていたから気付かなかったけれど、ぼくの隣を歩いていた彼女の麦わら帽子が、空に舞っていた。
あっと、彼女はやはり子供のような声をあげて、後方へ飛んでいってしまった帽子を見る。ぼくと繋いだ手を離して、帽子を追いかけていくけれども、彼女の足では到底おいつくことができないだろう。彼女に少し遅れる形で、ぼくも走り、すぐに先に走り出した彼女を追い越した。
彼女の運動神経は、お世辞にもいいとはいえないけれど、ぼくは昔剣道をやっていた経験があるし、運動神経もそれほど悪くはない(と思っている)。大学に入ってからはあまり運動をしていないものだから、持久力には不安が残るけれど、瞬発力に関しては自信があった。
彼女の帽子を追いかけていると、ぼくの隣を一つの自転車が通り過ぎていった。その速さは、まさに風そのもので、自転車は風と一体化しているのではないかと思うほどである。
空高く舞った、彼女の麦わら帽子が、落下を始めてしばらくしたころに、ちょうどいい位置で追いついた風のような自転車は、ぱしりと、まるでサーカスの曲芸を思わせる華麗な手際で、彼女の帽子をその手に掴む。おお、と川辺の方では子供たちの歓声があがり、ぼくもまた思わず「おお」と感嘆してしまうほど、それは見事な手際だった。
走っていたぼくが、徐々に速度を落としていくと、やはり風のようにしゃーっとこちらに走る自転車が、目の前に止まり、「ほらよ」と帽子を差し出した。
乗っていたのは、見たところ20歳ほどの、ぼくや彼女と年齢の近い男だった。スポーツウェアを着て、サングラスをかけ、これから部活に行きます、といった格好で現れた彼を、ぽかんと見つめていると、「ほれ」と再度帽子をぼくに差し出した。
すみません、ありがとうございました。小さく謝辞を述べたぼくは、ふと彼の自転車に目を向けた。ぼくが普段乗っているような、ものを乗せることを前提にした自転車とは違う。とてもフレームが細くて、サドルが高い位置にあり、ものを入れるようなカゴも見当たらなかった。口が勝手に「その自転車、速いですね」と言った。
あんまり知らない人には余計な声をかけない方がいい。東京の方では、道を聞くたびに無視をされ、経験的にそれを知っていたぼくは、咄嗟にしまったと口を抑えるも、男の方は気を悪くするどころか、「おっ、わかるかい兄ちゃん」と、歯並びの綺麗な口で、ニッカリと笑った。
そういえば、ここはもう東京ではないのだった。
「コイツぁな、ロードレーサーつってな、速さを追求した自転車だ。速くて当たり前よ」
ふふんと鼻を鳴らして、得意げに、彼はぽんぽんと自転車のサドルを叩く。
「そうなんですか。そういえば、ぼくの旧友にも自転車をやっている人がいましたね」
「へぇ。そいつもなかなか、いいセンスしてんな。俺はそこらの大会も出てっから、もしかしたら顔を合わせてるかもしれねぇ。ちなみに、そいつの名前は……」
名前は、なんてんだ?
そう聞きたかったのであろう、彼の言葉は、どんどんと尻すぼみになっていって、言葉を止めた時に、カチャと小さな音をたてて、サングラスを片手で押し上げて、顔をぼくに寄せて、まじまじとぼくを見た。
ぼくも思わず、彼の顔を見た。
「あーっ」
サングラスをかけていたから、どうにもわかり辛かったけれど、自転車をやっていた旧友こそが、目の前の彼、その人であった。
悪い目つきに、ちゃらちゃらとした言葉遣い、当時、不良のレッテルを貼られていたくせに、やたらと近所の老人や子供たちを助けるなどしていた、見た目に反して情に厚いその性格。見知らぬ女の麦わら帽を、自転車を飛ばして取ってくれた辺り、何も変わっていないようで、安心する。
「自転車やっていたぼくの旧友は、キミだ」
興奮してしまっために、思わず指を突き付けてそう言うと、彼の方も少し遅れて理解したらしく、「あーっ」と大きな声をあげて、「お前かよ」と、川辺の子供たちがびっくりして、こちらに一斉に振り向くほど、大きな声をあげた。
「なんだ、キミ、肌も黒く焼けてしまって。まだ自転車をやっていたのか」
「そういうお前こそ、東京の大学行っても、まだ剣道の方はやってんのかよ」
「いや、もうやめてしまった。おかげで大学では、めっきり運動しなくなってね」
そんなことを肩を叩きながら言い合って、男同士でお互いの大学の話や、今どんな学科でどんな勉強をしているのか、といった現状の話を軽く交わしていると、少し遅れて、ひぃひぃと口をへの字に曲げた彼女が、へとへとになってやって来た。
「すみません。帽子を取っていただいて、ありがとうございました」
息を荒げながらしゃがみこんだ彼女に、彼は帽子を差し出した。ありがとうございますと帽子を受け取った彼女は、まだ息を荒げている。彼女は運動が苦手だから、少し休ませた方がいいかな、と彼女を見ていると、彼が肘でぼくの胸を突っついた。
「なんだ、彼女か」と、小声で、聞いてきた。
こんなところで嘘をつく理由もないと思って、ぼくは「恋人だよ」と肯定した。
「ちなみに、今度は何週間だ」と、彼は聞く。
彼が「何週間」と聞くにも理由がある。なにしろぼくは、中学・高校と何人かの女性と付き合ったことがあるのだけれど、どうにも上手くいったためしがない。初めての彼女は約一か月で別れた。次にも彼女ができたけれど、またすぐに別れてしまった。
一時期は、ぼくは女性に好かれる性格をしていないのだろうか、と思い悩んだものだけれど、その時には、決まってこの彼が励ましてくれたのをよく覚えている。
だが、今のぼくは、あの時のぼくとは違うのだ。
「一年と五カ月だよ」
ぼくがこれでもか、という笑顔でそう告げてやると、羨ましいねぇと茶化して、「これから実家に挨拶か」と、また肘をつつく。
「いや、挨拶というほどのものでもないよ。もっとも、家には行くけれども」
「早速、女を家に連れ込むのか、羨ましいヤツだぜ」
ニヤニヤと笑みを浮かべる彼に、ぼくは否定の意を示して首を振る。
「ぼくはむしろ、彼女の家に誘いを受けた側だよ」
そういうと、彼は初めこそ驚いた顔をしたけれど、やはり先ほどのようにニヤリと笑って、「隅におけないねぇ、こいつは」と肘で胸をつついてくる。
「しっかし、あんな美人さん、ここいらに居たっけか。俺の昔の調べでは、この周辺の中学・高校にはあんな美人いなかったと思うんだがね。……家はこの辺なのかい」
「そうらしいよ。本日が初招待だから、詳しいところはわからないけど」
「それなら、引っ越してきたのかねぇ」
首を傾げる彼に、「……ところで」と、ぼくは問う。
「キミ、暇なのかい」
「――やっべぇ。俺、部活遅刻しそうだったんだ」
そういって自転車に跨った彼は、「またな、機会あったら遊ぼうぜ」と去り際に残して、さっそうと土手道を走って行った。風のようにぼくたちを助けてくれた男は、やはり風のように去っていく。