表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SR -Survival Race-  作者: ARMY-MONKEY
1/1

プロローグ

 闇。


 無限に続く、漆黒の世界。


 闇はこの世界に存在し得るありとあらゆるものを引き込む。一度引きずり込まれれば、如何なるものも決して這いずり出すことはできない。


 光、音、熱……。身の周りにあるはずの、ありふれていたはずの感覚がそこにはなかった。


 何も感じず、何も聞こえず、匂いもない。肌に触れているはずの空気の感触すらも感じることはない。この世界でいくら五感を張りつめさせようが、何を感じ取ることも叶わなかった。



 そんな闇の中を、ただひたすら歩き続けている一人の男がいた。


 果たして、歩き続けているというのは正しい表現と言えるのだろうか?両足がちゃんと地面に着いているのかどうかも怪しいのだ。


 足の裏から伝わるはずの、地面を踏みしめているという感覚は微塵も感じ取れなかった。

  

 まるで自分が宙に浮いているかのような錯覚を覚えた。あるいは、極端に抵抗の少ない、水とはまた違う液体の中にでもいるかのような……。ここには重力すらも存在していないようだった。


 彼には、なぜ自分がここにいるのか、ここはどこなのか、そして自分はこれからどこに向かっているのかは知る由もなかった。

 

 気がついた時には、彼はここにいた。そして、先の見えないこの世界を歩き続けていた。


 果たして、本当に数センチでも前に進んでいるのかどうかも定かでないのに、歩いていると決めつけるのも全くおかしな話だが、他に何ができるかも思いつかなかったので、おぼつかない足取りではあるものの、歩くという動作を無心に続けていた。


 そんな彼の脳裏にふと、ある疑問がよぎった。それは極めて単純なことだった。


 今の今までそれを考えたことはなかった。むしろ、ものを考える必要がなかったという方が正しいのかもしれない。何か考え事をしようにも、その対象であるべきものが存在しないし、何を思おうとも、些細なことですら何も浮かんでこなかったのだ。


 この文字通り何もない世界では、ものを考えているよりも、漂っているのに近い状態に変わりはないが、歩き続けている方が得策だという気がした。何より、この奇妙な世界から一秒でも早く抜け出したかった。



 しかし、不意に彼はこの世界についてではなく、初めて『自分』について考えたのだ。


 自分は一体誰なのか?


 それが自分について、第一に浮かんだ疑問だった。

 

 どこかで無駄だとはわかっていたが、彼は足を止めるとしばらくの間そのことを考え、自らに問いかけてみた。


 だが、やはり何かを思い出すことはなく、頭のどこかから答えが返ってくるということもなかった。それでも再び自分が誰で、どんな人間だったのか、ありもしない記憶を思い出そうと反芻してしまう。それは、折れた歯を舌先で探る行為にどこか似ていた。

 

 やがて彼は諦め、歩き始めようとした。だが、足を踏み出そうとしたところで、やめた。


 もはや何をしようとも無駄だということに気づいていた。それでも何かのきっかけになればと思い、行動してみたにも関わらず、何も結果が返ってくることはない。何をしようとも何かが起こるわけではない。何かを考え、思おうとも、何も浮かばない。


 このまま永久にこの虚空の牢獄の中で漂い、彷徨うことになるのだろうか……。


 ここは以前に彼が存在した世界と比べれば、ましでもなければひどくもないに違いない。取り分け魅力的ではないが、ひどく気が滅入るほど居心地が悪いわけでもない。この世界では生きているのか、死んでいるのかさえも大した問題ではない気がした。


 

 死。


 彼の頭に今度はこの一文字が浮かんだ。


 果たして自分は今、生きているとは言えるのだろうか。


 どう考えても、ここは現実の世界であるとはまず思えない。もしも、ここが俗に言う『あの世』という場所ならば、自分は死んでしまったのだろうか。それとも、どこかの病院で死と消毒液の臭いの染みついた病室のベッドの上か、手術室の台の上で生死の境を彷徨っている最中だとでもいうのだろうか?


 どちらにしても、こんな場所からすぐにでも抜け出すことができるのならば、すぐにでもそうしたかった。これがもしも悪夢ならば、今すぐに誰か起こしてくれ……。



 不意に、耳のすぐそばで音が聞こえた。


 いや、音ではなく、あれは『声』だった。彼は思いがけない『声』にくるりと振り向いたが、そこには当然のことながら誰の姿もなかった。もうすっかり馴染みになった闇が広がっているばかりだ。


 誰が何を言ったのかは唐突すぎて聞き取れなかったが、この世界で目覚めてからというもの、音を聞くということに必要性を見出せず、その存在を忘れかけていた両耳が初めて聞いた音だった。


 しかし、ここには少なくとも彼以外には誰もいない。実際に、まだ一人だ。ここにいるのは彼だけだった。


 彼は首を傾げた。なぜかあの『声』には聞き覚えがあった。


 恐らく、彼が目覚める以前に聞いた『声』のひとつだ。彼はそう確信した。あの『声』の主が誰であるかは全く思い出せなかったが、これをきっかけに以前の記憶を取り戻せそうな気がした。


 メスを深く入れるように空っぽの記憶を探っていくと、突然、何かが彼の頭の中を強打した。


 頭を抱え、その場に膝を着くような形で崩れ落ちる。彼は右のこめかみに手を伸ばし、そこを掴んだ。まるでそこから何かを抉り出そうとするかのように。


 これは痛みというよりも、もっと致命的なものだった。

  

 彼は頭を押さえたまま絶叫した。頭の中で再びあの『声』が聞こえた。はっきりと聞こえているはずなのに、聞き取ることができない。


 右のこめかみに更に激痛が跳ね、それと同時に視界にカメラのストロボのような閃光が走る。

 

 激痛がさらに増してきた時、不意に漆黒の世界に光が戻ってきた。数千のカメラのストロボが一斉に焚かれたかのような閃光が次第に強さを増し、やがて真っ白になった。


 彼は思わず目を閉じた。瞼越しに突き刺す光の明るさに慣れてくると、彼はずいぶんと時間をかけながらも目を開けた。


 徐々に辺りが見え始めるにつれて、まるで酔っていたかのようにぼんやりとしていた視界がはっきりとしていく。先程まで明るかったはずの空はいつの間にか薄暗くなっていた。

 

 彼は呆然としてその場に立ち尽くした。


 強い既視感に、彼は目眩を覚えたかのように視界をぐらつかせた。いや、既視感というのはおかしい。彼に記憶というものはなく、何も覚えていないのだ。


 しかし、彼は確かにこの光景を何度も見てきている。あるはずのない記憶の中で……。


 また、その時は来たのだ。


 世界はまた壊れた。



 陽は昇っていたが、鉛のように重く分厚い、少し赤みのかかった灰色の積雲が地上に降り注ぐ一切の光を遮っていた。


 その灰色の空の下には、赤い色をした奇妙な砂の海が広がっている。想像を絶する力によって蹴り壊された砂の城のように破壊された建築物らしき残骸が、赤い風景の中にぽつぽつとまるで木のようにそびえている。


 妙に湿り気を含んだ生ぬるい風が瓦礫と鉄屑の間を吹き抜け、慟哭する。


 風が唸り、どういうわけか逆さまにひっくり返った状態で放置されている自動車の残骸から消えかけていた小さな炎を煽る。赤い砂が巻き上げられ、残骸の焼け焦げた表面をこすった。


 その脇には、もはやものを言わなくなった男の屍が横たわり、その見開かれた両目は虚空を睨んでいるかのように見える。男の体中からはおびただしい量の血が流れ出しているが、それもすぐに赤い砂に吸い込まれていく。

 

 この赤い砂の海に転がっている屍はそれだけではない。不意に分厚い雲のわずかな隙間から差し込んできたわずかな光のおかげで、それがはっきりと見えた。


 何十もの男女の死体だった。見渡せば、つい先程まではそこには存在していなかったはずなのに、足の踏み場のないぐらいにあちらこちらに死体が横たわっている。


 中には赤い砂に半ば埋もれているものもあった。死体の大半は若者だったが、中には中年の者から初老の者もいた。彼はどの死体も一様に血まみれであることに気がついた。

  

 異様な光景だった。

 

 ここで何かとてつもなく恐ろしいことが起こったに違いない。それが一体何なのかは想像もつかないが、とにかく、何かとんでもないことが起こったことは確かなようだ。


 これがこの世の光景だろうか?


 地獄というのはまさに今いる、この場所のことをいうのだろう。ここ以上に狂った悪夢のような世界が、一体、どこに存在するというのだろうか。


 彼は呆然としながらも、再び歩き始めた。


 血まみれの死体を蹴飛ばさないように時折、足元に視線を落としながら注意深く歩を進める。足元に注意を払いながらも、目線は常に忙しく周囲を見回し続けていた。

 

 自分でも驚くほどに、彼は冷静だった。闇から突如この世界に引きずり出され、重なる狂気に混乱しかけていた頭は、なぜか落ち着きを取り戻しつつあった。

 

 死と狂気に満ち溢れているこの世界では、いつ発狂してもおかしくないだろうが、彼は至って冷静だった。


 いっそのこと、発狂してしまった方が楽になれるかもしれないが、彼の頭はそれを許してくれそうになかった。なぜここまで冷静になれるのかは分からないが、今はただ歩き続けるしかないのだ。彼にはそれ以外の選択肢は選べなかった。 

 

 左右を崩れかけた瓦礫の山に挟まれた通りを歩き続けているとやがて、道を塞ぐようにそびえ立つコンクリートの山にぶつかった。崩れかけている建物の瓦礫をよじ登りながら、彼は思った。

 

 すでに自分は頭がおかしくなっていたのかもしれない。

 

 これまでに人並みのまともな人生を送ってきた普通の人間ならば、人間の死体を、それもあんなに大量の死体を見て、平然としていられるわけがないのだ。

 

 彼は瓦礫のコンクリートを掴んだ体勢のまま、後方を振り返った。背後にはやはり、死体だらけの赤い世界が広がっている。


 この状況に順応しつつあるのか、頭がイカレ始めたのか……。


 どちらにせよ、自分か、この世界のどちらかが狂っていることには変わりはあるまいが、狂った自分が正しいのか、この狂った世界が正しいのか、答えはもうじき分かるだろう。

 

 瓦礫の山を登り切ると、彼はふうと息をついた。いつの間にか、両手が血まみれになっていることに気がついて、彼は顔をしかめたが、それだけだった。


 瓦礫の山はいつの間にか、バケツの中身をひっくり返したように血で赤く染まっていた。


 彼はうんざりして、空を見上げた。


 いつの間にか、空を覆っている分厚い雲の赤みも増してきたような気がする。この様子だと、血の雨まで降ってきそうだった。全く、狂ってる。

 

 やはり、彼はこの状況に慣れ始めていた。それは彼自身も自覚していた。相変わらず、自分のことも、この世界のことも何一つ思い出せないが、もはやどうでもよくなっていた。彼はこのありふれた死と狂気に退屈を感じ始めてすらいた。

 

 果たして今、死ぬことは可能だろうか?彼はふと、思った。つい数分前までは考えもしなかったことだが彼は思いを巡らせた。

 

 この終わりのない悪夢のような世界から抜け出せるとしたら、それしかないのだろうか?


 彼は立ち上がると、瓦礫の山から足元を見降ろした。

 

 瓦礫の高さは五、六メートルほどだった。ここから身を投げ、頭から落下した場合に死ぬことができるかどうか考えていた時、不意にまた、あの『声』が聞こえた。

 

 彼はぎょっとして周りを見回した。すぐそばで聞こえた気がした。

 

 辺りは静まり返っていた。相変わらず、血と赤い砂と瓦礫、そして死体が散乱している。動くものは何もなかった。

 

 ただ一つを除いて……。

 

 瓦礫の山の間で何かが動いていた。彼はそれを見逃さなかった。


 すぐさま、瓦礫の山から赤い砂の上に飛び降りていた。着地した時にバランスを崩して転倒しかけたが、すぐに体勢を立て直し、何度か死体につまづきながらも走った。


 着地してから十五メートルほど走ったところで、真新しい血だまりがあった。血だまりはその先、瓦礫の谷間を十メートル以上に渡って、引きずったような跡を残して続いていた。


 そしてその先に、黒い塊があった。

 

 誰かがあれを、引きずったのだろうか?

 

 血だまりは見る見るうちに砂に吸い込まれていき、さらに砂が赤く染まっていく。彼は恐る恐る、その塊に近づいた。一歩ずつ近づいていくにつれ、やがてその塊がはっきりと見えてきた。 

 

 それは、人だった。黒く見えたの学生服を着込んでいたからだ。こちらに背を向け、体をくの字に折り、うずくまっている。その男を中心に、大きな血だまりができていた。


 彼は歩み寄ると屈み込み、倒れている男の脇の下に手を突っ込んで引き起こした。


 その首がだらりと肩の方に向かって垂れ下がり、どろりと血が流れ出した。男の体を支えていた右手にボタボタと落ちた。彼はうっ、と呻いて男を放しそうになったが、その顔を覗き込んだ。


 男の顔は血まみれで、白く濁った両目が見開かれていた。格好と年齢的に見ても、男は高校生ぐらいだろう。学生服の上着は指が入りそうなほどの穴が無数に開いており、おびただしい量の血が流れ出していた。


 「メリ……メリメリ……」


 その時、不意に彼の耳に音が聞こえた。彼が視線を音がした方に向けると、男の首がぱっくりと割れ、その首が胴体から離れ、落ちた。


 首の断面から血が噴き出し、彼の顔面を赤く染めた。


 体のどこか深いところ、もしかしたら足の裏からかもしれない。寒気に似た感覚が彼の中で突き上げた。続いて、濃密な血の臭いに鼻腔を刺激され、思わず嘔吐しそうになる。


 喚きながら男の首なし死体を脇に放り出した時、彼はふと気がついた。

 

 全てを忘れた彼が視覚、聴覚に続いて思い出したのは、『嗅覚』だった。なぜ今の今まで血の匂いを感じることができなかったのかは知る由もないが、これほどの血の臭いもなぜか覚えがあった。

 

 そうでなければ、この短時間でこの臭いになれることは不可能だったに違いない。現に、彼がそのことを思い出そうとする頃には、既に血の臭いには慣れ始めていた。


 そして、血の臭いとは別な異臭が漂い出していることもすぐに理解した。

 

 血の臭いに麻痺し始めた鼻腔をくすぐるのは、死体が発する腐敗臭だった。


 人体の細胞組織が壊死し、崩壊することでそれは生じる。すぐにこの臭いもこの世界では特別な臭いではなくなるはずだ。

 

 普通の、並の人間ならばこのような状況でまともな精神状態を保つことは困難を極めるはずだ。精神崩壊に陥り、発狂してしまうのが普通なのだ。


 しかし、彼はこれほどの状況に置かれても、当の本人が思った以上に混乱することはなかった。それは彼の生来の精神構造のためなのかもしれないが、少なくとも彼が並の人間ではないのか、あるいは過去にもこのような状況に遭遇したことがあるのは間違いないだろう。


 そして、ひとつずつ感覚を取り戻していくにつれて彼は落ち着き払い、冷静に物事を考えることができるようになっていた。まだ、肝心なことの大部分を思い出せていないということはわかっていたが、彼は確信した。


 この調子でいけば、失われた記憶を取り戻すのも、そう長くはないだろう。


 彼がそう思ったその時、不意にまた、別な感覚が彼を襲った。


 次に彼が思い出したのは、これまでに味わったことのない、『痛み』だった。


 全身を貫くような激痛に彼は息を詰まらせ、身をよじり、その場に崩れた。


 喘ぎながらも彼は自分の身体を見下ろした。一体、自分の身体に何が起こっているのかを自分の目で確認せずにはいられなかった。

 

 驚いたことに、彼は先ほどの首なし死体と同じように、黒い学生服を着ていた。そしてもちろん、あちらこちらがズタズタに引き裂かれており、血が噴き出してきた。

 

 彼が呆然とそれを見つめているうちに、瞬く間に血で赤く染まっていった。激痛は当然ながら、そのズタズタになった学生服の下から襲ってくる。


 全身に、さっきまで立てて、歩き回っていたことが不思議なほどの重傷を負っているのは明らかだった。

 

 彼は込み上げた吐き気を堪え切れず、嘔吐した。案の定、血が吐き出され、鼻からも噴き出した。呼吸をする度に体中の傷口から血が溢れ出し、力が抜けていく気がした。


 失血のためか、ぼんやりとし始めた頭を振り、彼は必死に思考を張り巡らせた。

 

 一体、何が起こっているのか?


 一体、自分は誰なのか?


 わからない。


 何もわからない。


 再び体中に激痛が跳ね、彼の意識を暗闇に引きずり込もうとする。


 倒れまいと、踏み出した右足に体重をかけて踏みとどまろうとするが、唐突に膝の辺りからどす黒い血が噴き出し、ついに彼は耐え切れずにその場に倒れ込んだ。

 

 彼は赤い砂と自らの血にまみれながら、荒い呼吸をした。もはや、苦痛に身をよじる力も残されていない。


 不意に、人の気配を感じ、ずいぶん苦労して彼は顔を上げた。


 ぼやけ始めた視界の片隅で人のような影を認めた。しかし、視界がピントぼけしたカメラのようにぼやけているので、そこに立っているのが誰なのかはっきりとは見えない。ぼんやりとした影しか映らず、像を結ぶまでにひどく時間がかかってしまった。

 

 人影はふらつきながらこちらに近づいてきていた。


 ようやくはっきりと見える距離まで近づいてきた時、彼はそれが男であるということに気がついた。その男が自分と同じように傷つき、体中から血を流しているのも見えた。


 どうやら、この世界で生き延びていたのは自分だけではなかったようだ。恐らくこの男も自分と同じように傷つき、混乱し、助けを求めているはずだ。


 彼はそう思った。しかし、その男の顔を見た瞬間、彼は悪寒のように背中にさっと走る感覚と、雷に打たれたような衝撃を覚えた。


 彼は男の顔を凝視していた。不思議なことに、自分はこの男を知っている。いや、知っていたという方が正しいのか。


 彼はこれまでに一度もこの男と顔を合わしたことがないはずなのに、その顔には見覚えがあった。

 

 なぜだ。


 彼は思った。口の中がカラカラに乾いていた。鉄の味のする唾を飲み込んだ喉が焼けるように痛んだ。


 なぜ、思い出せない……?


 そして、彼は男の顔を見た時から焦燥感に駆られていた。記憶にはない何かが、彼に告げていた。 


 今すぐに、ここから逃げろと。この男から逃げろと。


 彼にはその意味が理解できなかった。せっかく、この死で満ち溢れている世界で生きている人間に会えたというのに、なぜ逃げなければならないのか。


 しかし、その一方で、目の前の男に違和感を感じ始めていた。


 やがて、男がその右手に何かをぶら下げていることに気がついた。そして男はゆっくりとそれを持ち上げ、自分に向けている!男がこちらに向けているものが、奇妙な形をしていたが、銃だと気づくのにそう時間はかからなかった。


 男がもう一歩踏み出そうとする前に、先程から自分の中で聞こえていた声の意味をようやく理解した彼は、身体中の傷のことも忘れて立ち上がろうとしていた。途端に傷口から血が噴き出したが、気にも留めなかった。

 

 しかし、どんなに足掻いても身体が言うことを聞かなかった。上体を起こし、ひどくじれったい速度で後ずさるのが精一杯だった。

 

 無情にも男は彼との距離をどんどん詰め、目の前に迫っていた。一歩、また一歩とその足取りは自信に満ちているかのように一定のリズムで赤い砂を踏み締める。

 

 彼は自分を殺そうとしている男の顔を見ずにはいられなかった。後ずさりながら、男の血まみれの顔を見上げると、その目に狂気の入り混じった殺意が浮かんでいるのを見た。

 

 恐怖心と共に、彼の現実感覚が途切れていった。男は無表情だった顔に歪んだ笑みを浮かべると銃口を下げ、引き金を引いた。


 力なく投げ出されている彼の右膝の少し上が、閃光と共に爆発した。


 ぞっとするような叫びを彼があげる。男は執拗に右足の傷口を踏みつけ、笑い声をあげた。彼の叫び声を聞いて楽しんでいるように見える。


 やがて、男は右手の銃を持ち上げると彼の額に突きつけ、血にまみれた笑みをその顔に貼りつけたまま、彼を見下ろした。

 

 殺される。


 彼は抵抗しようともがいた。腕を持ち上げ、伸ばし、銃身を掴もうとしたが、腕が自由に動かなかった。銃口の黒い空洞が、最期の瞬間に直結しているように思えた。


 やがて、男が口を開いた。


「アバヨ……。――――……」


 ほぼ、同時に引き金を引いていた。


 奇怪な形の銃の薬室内で、撃針が装填されていた弾丸の雷管を叩いた。


 雷管が即座に破裂し、薬莢内の火薬に点火し、爆発を引き起こす。爆発により発生したエネルギーは薬莢から弾丸を押し出し、弾丸は銃身内に施されているライフリングと呼ばれる螺旋状の溝によって回転を与えられて、銃口から飛び出し、その銃口の向いている方向へまっすぐ飛んでいく。

 

 役目を終えた薬莢が銃の側面の排莢口から飛び出し、真鍮の金色を反射させた刹那、音も立てずに赤い砂の上に落ちた。


 時間の経過が妙に遅く感じられた。


 彼は耳を聾する銃声に両目を固く閉じたまま、微動だにしなかった。男が最後に何を言ったのかは聞き取れなかった。銃声のせいで耳がおかしくなってしまったのだろうか……。

 

 妙だ。

 

 彼は閉じていた目をゆっくりと開いた。そして、まだ自分が息をしていることに驚いた。

 

 銃口から飛び出た弾丸は、彼の頭を吹き飛ばすこともなく、体のどこにも、他の何かに当たることもなかった。銃口は彼の額から逸れていたのだ。


 彼は息を呑み、男の顔に目を向けた。


 男は相変わらず薄笑いを浮かべていたが、その目は彼を見ていなかった。彼は男の喉にぽっかりと穴が開いているのを見た。その穴はちょうど親指が入るほどの大きさで、真新しいものだとわかった。

 

 すぐに穴から間欠泉のように血が噴き出した。男はごぼっと血を吐いたかと思うと白目を剥き、銃を持つ右腕を持ち上げたまま、ゆっくりと仰向けに倒れ込んだ。

  

 彼は荒い息をしながら、倒れ込んだままぴくりとも動かない男を見つめていたが、ふと、背後に人の気配を感じて振り返った。

 

 そこには、自分よりも遥かにひどい怪我をしている男が、猟銃のような細長い物をこちらに向けたまま立ち尽くしていた。

 

 彼は身体中が強張っていくのを感じた。この男も自分を殺すためにここに来たのだろうか?それとも……。


 男は銃を下ろすと、右足を引きずるようにしながら彼のもとに歩み寄ってきた。


 彼は、この男の目に先程の男のような殺意が全く見当たらないことを認めた。その右手に握られている猟銃も、その銃口は地面に向けられており、この男に撃つ気がないのは明らかだった。


 そして何より、彼はこの男の顔を見た時、どこか、懐かしいような感じがしたのだ。例えるなら、旧友に再会した時のような……。

 

 無論、彼はこの男のことも全く覚えていなかったのだが、さっきの男の時とはまるで違った。


 そう。この男からは、あの男からは感じられた殺意や、それ以上の何かとてつもなくおぞましいものは感じられず、恐怖という感情は湧いてこないのだ。

 

 男は彼の眼前に立つと、右手を差し出した。自分と同じ、傷だらけで、血まみれの手だ。彼が戸惑いながらも腕を伸ばしてその手を握ると、男は彼を引っ張り起こした。

 

 「…大丈夫カ…?―――――…」彼が呻き声をあげながら立ち上がるのを見て、男が口を開いた。


 また、だ。


 また聞こえない。


 やはり耳がおかしくなっているのだろうか。もしかしたら、鼓膜が吹っ飛んでしまっているのかもしれない。


 彼はなんとか返事をしようとしたが、声を出すこともできなかった。

 

 男はズタズタになっている右足をかばうように体勢を立て直すと、腰に挿していたオートマチック拳銃を抜き、弾丸が装填されていることを確認すると、彼に差し出した。


 彼は躊躇いがちにそれを受け取ると、その拳銃をじっと見つめた。


 拳銃はひどく重かった。それ自体の質量や、それにかかっている重力などとは別な重さが存在しているようだ。


 自分の手の中にある金属の塊が、人を殺すための道具であり、この銃から放たれた弾丸によって死んだ人間がいるという事実。たった今、喉を撃ち抜かれて死んだあの男のように、だ。

 

 少なくとも、彼はこれまでの記憶の中で銃を手にするのは初めてだったが、それら全てを含めた『重さ』を彼は感じ取っていた。


 彼がそれを受け取った瞬間、男は目を見開いていた。とっさに提げていた猟銃を持ち上げ、彼を横に突き飛ばしていた。

 

 背後にただならない気配を感じた直後、彼は突き飛ばされていた。体勢を崩してつんのめりながらも振り返ったその先には、喉を撃たれて絶命していたはずの、あの男が立ち上がっていた。


 その右手の奇怪な銃をこちらに向けて持ち上げようとしているところだった。


 彼の真横で、男はとっさに猟銃を腰だめで構え、引き金を引き絞ろうしたが、あの男の方が早かった。手にした奇怪な銃の銃口から轟音と共に巨大な炎が噴き出したかと思うと、彼の目の前で男がなぎ倒され、猟銃がその手から吹っ飛んだ。


 今度は立て続けに発砲してきた。


 奇怪な銃から次々と吐き出された弾丸は、全てが倒れている男に命中した。巨大な弾丸はその身体に深く突き刺さり、えぐり、引き裂いていく。男の身体が肉塊同然に変わるのに、そう時間はかからなかった。

 

 「……――……―……」

 

 もはや虫の息となった男が途切れ途切れに消え入りそうな声で何かを言っていた。彼は呆然と目の前の男を見つめていた。もう、何も聞こえなかった。

 

 最後の瞬間、男はかっと目を見開き、叫んでいた。その両目からは、まるで涙のように血が流れ出していた。

 

 「―――!!」

 

 男が何かを言い終わった直後に、こもった銃声が響いた。

 

 男の眉間の中央がまるでセルロイドの作り物のようにぐしゃりと音を立ててへこみ、その直後にその頭部が弾け飛んだ。


 彼の目には、それがスローモーションのようにゆっくりと、そしてはっきりと鮮明に見えた。

 

 この瞬間、彼の中で何かが崩れていった。

 

 彼は叫び声をあげ、右手に握り締めていた拳銃を持ち上げ、あの男に向けた。そして、躊躇することもなく引き金を引き絞った。


 あの男の奇怪な銃が火を噴くのより、わずかに早かった。


 乾いた銃声と共に、その額の中央にぽつりと丸い穴が開いていた。


 あの男の手から奇怪な形の銃が落ち、銃を握っていた腕を突き出したまま、男は仰向けに倒れ込んだ。



 彼も同じだった。


 右側の側頭部にバットをフルスイングされたかのような衝撃を覚えた直後、銃を握っていた手、そして両足から力が抜けていた。


 彼は自分の身体が力なく投げ出されるのを感じていた。世界が赤く変わっていくのを、奇妙に引き延ばされた時間の中で認識していた。


 やがて真っ白になっていく世界に続いて忘却の中のようなものに入り込み、空間を浮遊しているような気がした。

 


 その時、不意に世界が消えた。

 

 全てが失われていき、そして自分が消えていく。それを食い止めるために、彼にできることは何もなかった。

 

 やがて、彼は悟った。

 

 自分は死んだのだ、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ