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第三話

 閑散とした午後の商店通りを慌てて走るイリスの姿がみえた。

 右手の中指に填められた指輪には血色の石が埋め込まれ、人の目を引く。

 動きやすい衣服の上に焦げ茶のエプロン姿で走り、赤茶のボブヘアを風が浮かす。

 雑貨品を扱う責任者が戻ってくれば店番をしていた青年アクセルは大きな口をあけて息を吸い込む。

 逞しい筋肉がわかるほどぴったりと肌と密着した黒い服を着てズボンはぶかぶか。

 腰には上着のジャケットを巻いている。

「もぉ、アクセルのせいで貴族の人に迷惑かけちゃったよ」

「はいはい俺のせいだ」

 アクセルは素直に認めて青みがかった無造作な黒髪を掻く。

「あれ、お客さん?」

 隣に小袖と緋袴姿の見知らぬ少女がいることに気付いたイリス。

「お前に用があるってさ」

 長く伸びた黒い髪、つり目の青い瞳が静かにイリスを映している。

「あなたがイリスさんでよろしいですか?」

「えっと、はい」

「わたくし、帝都で巫女を務めているシンシアと申します」

 町から遠く離れた帝都からやってきた巫女、シンシアと名乗る少女。

 帝都という単語が耳に入ればイリスや周りの商人達は思わず体を強張らせる。

 アクセルは静かにシンシアの言葉に耳を澄ます。

「実はドラゴンに献上すべき品物を探していまして、それは特別な指輪で、どうやらこの町にあると聞きました」

 アクセルの視界に映ったのはイリスが右手を後ろに隠す仕草。

 左手が強く右手を握りしめている。

「真っ赤な石が埋め込まれた指輪をドラゴンは望んでいます。あなたが今隠したその指輪を譲ってほしいのです」

「ごめんなさい、これは絶対に渡せない」

 戸惑いもなく答えをはっきりと伝えたイリスにシンシアは目を細めた。

「ドラゴンの言葉に従わないつもりでしょうか?」

 鋭いナイフのように体を突き刺す冷めた声。

「なにがなんでも渡せないし、無理」

 怪訝な表情を浮かべているシンシアの様子にアクセルは肩をすくめる。

「イリス、ドラゴンの言葉は重い、必ず受け止めるのが国民の義務だぜ、いいのか?」

「罰が当たってもこれだけは無理」

 変わらない答えにアクセルは軽く数回頷く。

「突然のことですので、すぐにとは行かないでしょう。それではまた」

 シンシアがお店から去っていくとイリスは手を震わして、呑気に眠たそうな表情で目を細めるアクセルを睨んだ。

「なんでこういう時に追い払ってくれないの?」

「ドラゴンが告げた言葉に逆らうなんて馬鹿なことをするからさ」

 イリスは唇を軽く噛むと、小さく俯く。

「ねぇ……ドラゴンに逆らったら、アタシ、死ぬ?」

 急に声を大人しくさせて呟いたイリスにアクセルは目を丸くさせた。

「なんだよ急に、死ぬかどうかはドラゴンの判断だからしらねぇよ。そんなに大切な物なのか、それ」

 イリスは右手中指にはめられた指輪を左手で優しく包み込む。

「うん」

「ふーん、どれくらい?」

「人の命と同じくらい」

 思わずアクセルは息を吹き出してしまった。

 それを見たイリスにもう一度睨まれたアクセルは両手を挙げてお店から飛び出す。

「もう客も来ないだろうから俺は帰るぜ」

 アクセルはイリスの言葉に耳を傾けずに颯爽と商店通りを走っていく。

 お馴染みの宿屋へと足を進めていく途中、アクセルは苦い表情で立ち止まってしまう。

 帝国兵士が数人宿屋の前で武器を手に勇ましく立っていたのだ。

 誰かを探している様子の帝国兵士。

 宿屋には戻れないだろうと判断したアクセルは路地裏へと足を運ぶ。

 昼間であっても影に覆われて暗い路地裏には誰もいない。

 人間が入るには厳しい細い通路の前で立ち止まると、アクセルは体を前へと屈めて両手を地面につけた。

 身に着けていた衣服全てが消えて今度は灰色の体毛が全身を覆い始める。

 鼻と口が前に突きだし、太く尖った牙を剥き出しに蒼く丸い瞳をぎらつかせた。

 大きな体をもつアクセルの姿はそこにはなく、灰色の毛に覆われた狼が路地裏で猛々しく立ち尽くす。

 建物と建物の狭い間を難なく入り込んだ狼。

 通りの向こうでは帝国兵士が二人、歩いているのを確認できた。

「アクセルの姿がどこにもありません、隊長」

 鋼鉄で造られた鎧を身に纏う一人の帝国兵士と、その横には肩まで伸びた艶やかな黒髪をした帝国兵士。

 首には深緑に輝く宝石が埋め込まれた首輪を付けている。

 軽装鎧の上に羽織った帝国兵士専用の赤いラインがはいった黒のコート。

 漆黒の瞳は鋭い視線を送る。

「そうだろう。見つかるはずがない、特に今は」

 凛々しい女性は低めの声で落ち着いた様子で答えた。

「た、隊長」

 困惑している兵士に、隊長である女性は感情を表に出さずに立ち止まる。

「だから今回はここまでにして普通の巡回に戻れ、もし発見したらまず私に報告しろ」

「はっ!」

 部下の兵士は敬礼をして鋼鉄の鎧を鈍く響かせて走っていく。

 閑散とした通りに立ち止まった隊長は鋭い視線のまま細い通路へと視線を向けた。

 冷めた漆黒の瞳で見下ろす先には灰色の毛をもつ狼。

「お前はどうして獣の姿でいられるのか、わからない」

『……』

 狼は蒼い丸い瞳で睨みつける。

「私はお前とは違う。盗賊になって獣になって何が見える? ずっと現状を維持するなど、理解できない」

 首輪に手を添えると拳に変えて力強く震わす隊長は眉をひそめて首を横に小さく振った。

 数秒後、口元を緩めて微笑むと、眉を下げた隊長。

「可笑しいな」

 柔らかに目を細めた隊長は一言を呟いて歩き去っていく。

 ようやく狭い場所から抜け出した狼は隊長の後姿を視界に映して大きく息を吐いた。

 翌日、アクセルは昼間に目を覚ます。

 どこにいるのか、柔らかなベッドの代わりに硬い地面で寝ていたアクセルは全身を天へと伸ばした。

 屋根もない、完全な屋外だが陰に隠れて非常に暗い。

「だから渡せないってば!!」

 イリスの大声がどこからか響いてくる。

 商店通りの路地裏だと気付いたアクセルは太陽の光が届く大きな通りへと歩いていく。

 市場を終えると一気に人混みが消えて閑散とする商店通り。

 お店の前で言い争うのはイリスとシンシアだと分かったアクセルは目を丸くさせた。

 二人を囲む商人達は心配そうに見学している。

 右手を左手で覆い隠して相手を緑色の瞳で睨むイリスと怪訝な表情を浮かべているシンシア。

「ドラゴンの言葉に逆らうのは国民の義務に反しています。どうしてそれがわからないのです?」

「わかってるよ。わかっていても渡せない物なの、これは!」

 アクセルは肩をすくめて商人達と一緒にその様子を眺めている。

「これだから庶民は嫌いですわ」

 小さく棘のあるシンシアの声がアクセルの耳へと届く。

「どうしても駄目というのでしたら、仕方ありません」

 シンシアの左手中指に光る真っ赤な指輪が微弱な電流を空気に放つ。

「な、なに?」

 大切な指輪に触れさせない様手を力ませたイリス。

「力づくで奪います!」

 途轍もない力を感じ取ったアクセルはすぐに商人達を押しのけて割り込んでいく。

 微弱な電流が突然激しさを増すとイリスに向かって青白く発火して眩しい光が襲う。

「え」

 アクセルがイリスを手のひらで押し飛ばせば、思わぬ力にイリスの足が地面から離れてしまう。

 宙に浮いたイリスは雑貨品が並ぶ棚にぶつかって商品と一緒に倒れ込んだ。

 青白い光は狙いを外してアクセルの体に直撃。

 屈強な体が一瞬、飛び跳ねてアクセルは思わず顔を歪める。

「なんつうものを、武器も持ってない民にくらわすつもりさ」

「あいたた」

 イリスは体中をぶつけてしまい、突然の痛みに目から涙を浮かべてしまう。

 雑貨品が破損してとても商売をできるような様子ではない。

「武器を持ってない? 持ってますわ、彼女の指輪こそ武器です。それより気絶するほどの威力でしたのに、どうして効きませんの?」

 シンシアは左手の指輪を確認しながら疑問を浮かべる。

「もう十分に効いた。こんなところで変なもの使いやがって、巫女にしては随分荒いぜ」

 お店に並んでいたナイフを掴み盗ったアクセル。

「その行為は国民の義務に反したと捉えてもいいですわね」

「義務なんて果たしたことないね、あんたも巫女としての義務に反してるんじゃないか?」

 銀色に輝く刃先をシンシアに向けて、青い瞳で睨みつけた。

「これも巫女の仕事ですわ。それにそんなナイフでわたくしを止められます?」

 電流の次は近寄るだけで肌が焼けてしまうほどの熱い火がシンシアの左手に浮かび上がる。

 笑みを零しながらシンシアは手を上に翳す。

 掌で更に燃え盛る赤と橙の炎にアクセルは額に透明な雫をつたわせて苦笑。

 周りにいた商人達は我が身可愛さに逃げ出してしまった。

「あつぅ」

 痛みを堪えながら立ち上がったイリスは焼けるような熱さに後ろへと下がってしまう。

「怪我人を出したくありませんが、少しの火傷、我慢してくださいまし!」

 物を投げるように左手を振り下ろせば球体に変化した炎がアクセルに向かって飛んでくる。

 さすがに炎を受け止めることができないアクセルは大きな体をお腹から地面一杯に密着させて回避。

 目標を失った炎はまっすぐに飛び続け、シンシアが左手を握れば水もなしに炎は空気中で消えてしまう。

「こんな近い距離から避けるなんて、あなた人間ですの?」

 通り過ぎたあとでも残る熱気に背中が焼けたように痛くなる。

 シンシアは平然とした口調のまま手を広げて新たな炎を生み出した。

「いたててて! こんなのくらって火傷で済むかよ!!」

 体を起こしている余裕はない。

 笑みを浮かべたシンシアは静かに狙いをつけて手を振り下ろした。

 アクセルはこんな態勢では避けることはできないと瞬時に理解し、大きな体を縮めて灰色の毛に覆われた狼へと変化。

 球体となった炎が熱気と一緒に落ちてくる寸前に狼は地面を蹴って前進する。

 シンシアの袴を捲ってすり抜けた狼は荒い唸り声を上げて背中から倒れてしまう。

 うまく避けることができなかった狼は毛先に火がつき一気に背中を燃やされ火傷を負ってしまった。

「アクセル!?」

 イリスが慌てて駆け寄っていくと、切ない鳴き声を漏らし蒼い瞳を弱らせる。

 毛は完全に燃やされてはないが背中の一部が焦げてしまい皮膚は捲れ、真っ赤に腫れていた。

「アクセルぅ……ごめん、全然関係ないのに、こんなこと」

 眉を下げて緑色の瞳を震わすイリスの姿を狼は弱々しい目に映す。

「狼化しますのね、そうなると見過ごすことはできませんわ」

 今度は冷気が漂う鋭い氷の槍がシンシアの左手から現れる。

 狼の視界はイリスの右手中指を映した。

 血色の石が埋め込まれ、生きているかのように輝いている指輪。

 狼はそれだけを直視する。

『……』

「もういいじゃんか! 狼だったらなんで見過ごせないの!?」

 イリスは怒りに満ちた声でシンシアに疑問をぶつけた。

「人間が狼になるのには古代から存在するフェンリルという巨大な狼の血を飲む必要がありますの。それは神であるドラゴンに対する反逆罪となり帝都では見つけ次第殺害せよとの命令もありますわ」

 淡々とした説明にイリスは唇を強く噛み締めてしまう。

 イリスは右手を狼の頬へ添える。

『ヴァグ!!』

 その手を狙っていたのか、狼は勢いよく顔を上げてイリスの指に食いつく。

「いっ!?」

 反射的に手を引いてしまったイリス。

 鋭い牙が擦れてイリスの指の皮膚を軽く裂く。

 彼女の血液が牙や口先に付着するが気にせず狼は火傷をした体を無理にでも起こし、商店通りを駆けていった。

「え、アクセル、危ないよ! あれ、指輪が」

 傷ついた右手の指を見ると、中指に填めていたはずの指輪が無いことに気付く。

「逃がしませんわ」

 逃げた狼を追いかけていくシンシア。

 普段から走り慣れている町並みが歪んだ別世界のように映りはじめた狼は険しく蒼い瞳をぎらつかせている。

 後ろを振り返っている暇はなく、とにかく走り続けた。

 走れば走るほど風に当たって火傷をした部位が痛みを訴えて足を躓かせる。

 それでも器用に咥えこんだ指輪を落とさない様注意しながら町を抜けて狼は外へ。

 町から離れた深い草むらが生い茂る場所へと入り込む。

「一体どこへ隠れましたの?」

 追いかけてきたシンシアは怪訝な表情で辺りを見回す。

 静まり返った草むらには音や動きは全くない。

「わたくしの魔術に恐れましたのね、ですが指輪とアナタの命はしっかりともらいますわよ」

『……』

 草むらの割れ目からシンシアの様子を覗き込む狼。

 息を潜めて見つからない様身を屈める。

「この恩恵の指輪がある限り魔術は無限大、詠唱も必要ない最強の指輪ですわ!」

 一人で熱を入れ始めたシンシアに狼は呆れながら小さく鼻息を吐いた。

 狼は音を立てないように草むらのなかを掻き分けて歩く。

「姿を現さないのでしたら草一面を氷漬けにするか燃やすか、ですわね」

 得意気な表情を浮かべてシンシアの左手が空へと伸びて掌を翳す。

 その瞬間だった、意を決した狼はシンシアの左脇から跳躍して飛び出した。

 狼が大きな口を開けて牙を剥き出して飛びかかっているのにシンシアはまだ気付いていない。

 それどころか全く狼の方を向いていないシンシア。

 イリスの指輪が口から落ちていくのを知りながら、狼はシンシアの左手へ遠慮なく噛みついた。

「な、なななんですの!?」

 噛みついたかと思えば人間に戻ったアクセルは左手中指に填められている指輪を抜き取る。

 そのままの勢いでシンシアを押し倒すと、咥えた恩恵の指輪を手に取って握り締めたアクセル。

 息を切らしながら相手を睨み、背中は衣服が破れ、皮膚も火傷により真っ赤に爛れてしまって風に当たるだけで切れるような痛みが増す。

「お前の、負けだ……諦めろ」

 アクセルは苦い表情で笑みを浮かべた。

「ま、負けですって? そんなの認めませんわ!」

 重たい男一人に覆い被され、抵抗もできないシンシアだが負けを認めない。

「この指輪がないと、何もできないだろうが」

「何も、できないわけが、ありませんわ」

 怯えた口調で言い返すシンシアに、アクセルは失笑して恩恵の指輪を握ったまま起き上がる。

 落としたイリスの指輪を反対の手で拾うも、体は言う事を聞かず傾いてしまう。

「さすがに、きつい……な」

 世界が歪む視界のなかアクセルは体を左右前後に揺らすも立位を維持。

「恩恵の指輪がなくてもわたくしにはドラゴンがいますのよ!」

「はあ?」

 振り返れば既に離れた場所にいたシンシア。

「選ばれし巫女であるわたくしにはドラゴンを召喚することができますわ……負けるわけにはいきません、たかが狼なんかに負けるわけにはいけませんの!」

 負けを認めることができないシンシアは両手を大きく広げてブツブツを何かを唱え始める。

 それと同時にシンシアの周りを囲むようにできた数字や奇妙な文字が記された大きな輪。

 空に向かって輪から光が現れ、やがて午後の青空が唸りをあげて濃く黒い雲に隠されてしまう。

 雷や雨が降ってもおかしくない天候となりアクセルは唖然として空を見上げた。

「マジかよ、ドラゴンを召喚なんて……有り得るのか?」

「これであなたも終わりですわぁ!!」

 甲高い笑い声とともに喜ぶシンシア。

 しかし、笑うシンシアの頭上から応えるように放たれたのは頼りない微弱な雷だった。

「ふぁ!?」

 一瞬の青白い光で頭から足の指先までに電流が伝わり、長い黒髪が寝癖のように飛び跳ねてシンシアは力なく座り込む。

 生きている様子だが、アクセルはこの状況を静かに見守る。

「ど、どうしてですの?」

 まるで誰かと話をしているかのように喋るシンシア。

「いいえ、わたくしは善悪なんて見失っていませんわ!」

 顔を青ざめて首を横に振っている。

「だって、だって、教会はそれがドラゴンの言葉だと、言っていましたの」

 アクセルは戸惑い慌てふためくシンシアの傍にまでフラフラになりながら足を進ませた。

「そ、そんな……じゃあ一体、今までわたくしが、してきたのは、意味のない……こと?」

 掻き消えそうな声でシンシアは両手を震わした。

「なんだ?」

 恩恵の指輪を握っている手から割れるような音がして、アクセルが手を広げると指輪が粉々になり砂と化して散っていく。

『イトシイ巫女、皇に穢されたココロは善悪ヲ見失ッタ。しばらく反省シロ』

 雲を唸らせるほどの震動と声がアクセルの体に重くのしかかった。

「うぉ、なんだ!?」

 正体のわからない声に空を見上げると、黒い雲が左右に引いていき元の青空が現れる。

 計り知れぬ重力から解放されアクセルは顔を俯かせて沈んでいるシンシアを見下ろす。

「け……ました」

 力無い声で呟く聞き取れない言葉。

「な、なんだ?」

「認め、ますわ。負けを」

 思わず目を丸くさせたアクセル。

 戦う意志もないシンシアの虚ろな瞳に軽く数回頷いた。

「そっ、ならイリスのところに行くぞ、歩けるか?」

「はい……」

 言葉とは反対に体は全く動いていない。

「これは無理か」

 呆れながらも笑みを浮かべたアクセルは手を差しだして、彼女が掴むのを待つ。

「ありがとう、ございますの」

 俯きながらシンシアは手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。

 そろそろ夕方へと変わろうとする時刻。

 雑貨品を片付けているイリスは複雑な表情で商店通りを見回す。

 右手には牙が当たった傷跡が残っている。

「アクセル」

「おぅ、呼んだか?」

 イリスは思わぬ声に全身を震わして驚いてしまう。

 目の前にはボロボロのアクセルと全身が脱力気味のシンシアの姿。

「アクセルぅ、よかった無事だったんだぁ」

 零した笑みと瞳に浮かべた透明な粒にアクセルは笑ってしまった。

「まぁ、なんとかな。それよりほら、シンシア」

 呼ばれたシンシアはその場で正座。

「ごめんなさい。実はわたくし、騎士団長から指輪を奪うよう命令されましたの、本当に申し訳ございませんでした、ですの」

 シンシアの謝罪にアクセルは両腕を組んで軽く頷く。

 謝罪をされているイリスは唇を甘噛みして、目を細めた。

 イリスは笑顔で息を吐くと、シンシアの両肩を掴んで顔を上げさせる。

「うん、絶対許さないよ! 何度謝られても許さない。アタシとアナタだけの問題だったらいくらでも許せるけど、アクセルやお店の人達にも迷惑をかけたんだから……もしこれで観光客や町の人が来なくなったらそれこそ商売なんてできないよ。他人の生活を脅かすようなことをした以上アタシは許さない!」

 シンシアはその言葉に何も言えず、さらに顔を俯かせてしまった。

 それでもイリスは笑顔でシンシアを見つめる。

「だから、ここで頑張って働いて弁償してね!」

「は、はい! ですの?」

 思わず顔を上げたシンシアは目を丸くさせて気の抜けた声で返事をした。

「おいおい、さすがに帝都の巫女を雇うのは駄目だろ」

「アクセル」

 イリスは満面の笑みで掌を上にしてアクセルの前へと突き出す。

「指輪、ありがとう」

 感謝を述べられて、肩をすくめたアクセルは握っていた指輪を持ち主へと返却。

「俺の話聞いてた?」

「うん、いいのいいの。壊した分働いてもらうだけだからね。寝泊まりするところはアクセルが泊まってる宿でいいでしょ?」

「ま、いいけど、ね」

 アクセルはそろそろ限界なようで、体のふらつきが大きくなった。

「アクセル、大丈夫? 診療所があるから診てもらおうよ」

「ん、ああ」

「ほら、シンシアも一緒に介抱して」

 アクセルの両脇に手を添えたイリスとシンシア。

 覚束ない足取りのアクセルは意識が遠のいたり、戻ったりを繰り返していく。

 夕暮れ頃、アクセルは茜色に染められた空を眺めて目を細めた。

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