第十九話
丘の下には狼砦、群れで暮らしている狼達は岩を中心に伏せたまま寛いでいる。
『お前さんにもそういう時期があるってことは、随分呪いが進行しているってことじゃないかね』
小柄な狼は陽気な声で目の前にいる同胞へ声をかけた。
狼は右目を失っていて、切り傷が縦に刻まれている。
それだけではなく体中に傷を負い、これまでの激しい戦いを生き残ってきた証となっていた。
人語を理解し、言葉を話すことができる小柄な狼の目の前には灰色の毛に覆われた狼がお座りをして耳を傾ける。
灰色の狼は他の同胞に比べると一際体が大きい。
『その悪人のような面構えはやめてくれんか、ワシって結構弱いのさ』
聞き慣れた言葉に灰色の狼は軽く鼻息を出して地面に伏せた。
『ワシの群れにも沢山雌がいるのに選ばないってことは……あの若い商人かい? それとも、この前来ていたあの』
『ぐぅううう!』
灰色の狼は蒼い丸い瞳を縮めて低く唸る。
牙を剥き出しに小柄な狼を狙っているようにも見えた。
危険を感じ取った小柄な狼は森の中央に突き刺さった大きな岩に飛び移ると、腰をおろす。
『すまんすまん、彼女もワシらと同胞。どんな事情にせよ辛いものさ』
灰色の狼は伏せから立ち上がり、四脚で地面を踏みつけると勇ましい姿勢で見上げる。
『ま、若い商人に対して異様に反応するってことはそういうことなんじゃないかね? 本能には逆らえない。それが嫌なら狼になるのをなるべく抑えて人間として過ごすのが一番だと思うさ』
納得するしかない答えに灰色の狼は無言を貫いて、後ろ脚だけで立ち上がった。
一際大きな体をさらに伸ばして人としての姿を形成していく。
灰色の毛は消えて、代わりに現れたのは黒いシャツとぶかぶかのズボン。
男の平均身長を軽く上回る背丈に筋肉質の体をもつ人間となった若い青年アクセルとなる。
青みがかった黒髪を掻いて眠たそうに欠伸をしたアクセルは小柄な狼を軽く睨む。
「色々と邪魔して悪かったよ」
不機嫌な声を出したアクセルに小柄な狼は一笑。
『いいさいいさ、ワシはこの地域を見守っている狼だからね。何かあればまた来たらいいさ』
「呑気なジジイだな」
呆れたアクセルの呟きにも笑って済ます小柄な狼は優しく見下ろした。
アクセルは手を挙げて挨拶をすると、背を向けて狼砦から去る。
彼の去り際に小柄な狼はなにかを思い出したかのように立ち上がった。
『ドラゴン信者の一部が町まできているという噂があるから気を付けろ』
「ドラゴン信者?」
初めて聞いた単語にアクセルは足を止めて、眉を顰める。
『ドラゴンと巫女を誰よりも崇めている少し変わった奴らさ、その一部が何やら動いている』
口を紡いでいるアクセルは目を細めて軽く何度も頷く。
『ワシらは同胞の味方でも、あの巫女さんや若い商人の味方じゃないさ』
小柄な狼の忠告に応じるように手を挙げて、アクセルは狼砦から町へと戻った。
森に囲まれた狼砦を抜ければ一面草原の景色。
商人が賑わう町の隣には丘がある。
町には様々な通りに一つ門があり、アクセルは商店通りの門から入るが、帝国兵は誰も門番をしていない。
アクセルが一歩、足を踏み入れた途端目の前に小袖と緋袴を着た少女が現れた。
「シンシア?」
黒く長い髪を揺らし、普段なら涼しい表情を見せるシンシアの青いつり目は鋭く辺りを警戒している。
彼女の名前を呼ぶが、アクセルを見上げて睨んでいるだけ。
「どうした、シンシア。何かあったのか? それとも俺に会えなくてさび」
「アクセルさん」
少しふざけようとしていたアクセルは途中で遮られ、名前を呼ばれた。
「はい」
年下の少女に対して呟くように返事をする。
「聞こえませんの……声が」
「はい!」
今度は大きな声で返事をしたアクセルに、
「貴方の返事はどうでもいいですの! 聞こえないのはドラゴンの声ですわ!!」
苛立ちに満ちたシンシアの高い怒声が耳に響いた。
「なんでだよ?」
「信者ですわ、ドラゴン信者。あいつらがわたくしを探しているんですわ。もうわたくしは巫女を剥奪されましたのに、まだつけ狙うなんて厄介ですの」
赤い宝石が埋め込まれた指輪を左手中指に填めているシンシアは拳を作ると強く震わす。
「だからってどうしてドラゴンの声が聞こえなくなるんだ?」
疑問を浮かべるアクセルにシンシアは難しい表情で目を細める。
「信者の中には高度な魔術を扱える者がいますの。シルバードラゴンとわたくしとの会話を遮断できるほどの魔術師がいますわ」
「じゃあ、今度はシンシアか。イリスはアンに任せて俺はしばらくお前といるよ」
護衛を名乗り出たアクセルだが、シンシアには疑いの眼差しで見上げられてしまい、口角と眉を下げて睨んだ。
「イリスさんといなくていいんですの? それに、わたくしは別に一人でも問題はありませんわ」
「あーいや、今は無理だな」
目を逸らしたアクセルにシンシアは腰に手を当てて息を吐く。
「発情期だから、ですの?」
アクセルは何も言わずにゆっくりと頷く。
ずっと見上げているシンシアは青い目を揺らして、口を半開きにさせた。
拳を解いて力が抜けたように両腕をぶら下げ、すぐに俯いてしまう。
「わたくし、今はドラゴンの加護が弱まってますから……」
呟く声は最後まで聞き取れず、アクセルは眉を潜めた。
「なんだよ、加護が弱くなるって」
「魔術は使えても、少しだけ人間の体質に戻ってしまうと言う事ですわ!」
強めの高い声がまたも耳に響き、アクセルは耳を押さえる。
「はいはい、わかったよ」
「わかっていませんわ。わからなくて、いいですわ」
声を落として両腕を前で組み、商店通りを先に進むシンシア。
彼女の歩幅はアクセルに比べると小さく、すぐにアクセルは横に並ぶ事ができてしまい、横からシンシアに睨まれてしまった。
アクセルは軽く一笑して、そこからはずっと横に並んで商店通りを歩く。
既に露天市場は終了しており、商店通りは閑散として商人以外は誰もいない。
商店の中には衣服を扱っているお店もあった。
アクセルはそこに目を止めて、次にシンシアの服装を見下ろす。
「変装しないのか? 巫女っていうのか、その服装ならすぐに見つかるぞ」
単純な疑問にシンシアは首を横に振る。
「隠れる意味がわかりませんわ。いくら高度な魔術師でもわたくしに勝てる人なんていませんもの」
自信に満ち溢れた発言に、アクセルは怪訝な表情を浮かべた。
「恩恵の指輪がないと駄目だろ、お前」
「そ、それは詠唱する時間の話ですの。これでもドラゴンを仕留めるくらいの魔術は扱えますわ」
「そりゃ凄いなぁーぁ」
大きな欠伸と一緒に吐き出された感情のこもっていない言葉に、シンシアはまたも睨む。
「イリスさんがいるお店に行きますわよ」
鋭く棘のある声に口は閉じて、真顔に変わったアクセル。
「俺は宿に戻ってもう一度寝ないと体がもたないんだよ」
「何を言っていますの、わたくしの護衛をするのでしたらついてきてくださいまし」
嫌がるアクセルを睨むシンシア。
「悪い……帰る!」
シンシアの制止を振り切って、宿がある反対方向へ迷わず走り出した。
何重もの板が壁に打ち付けられ、耐久性に不安が残る宿屋はいつもの騒がしい声はない。
中を覗くと黒いマントに身を包むドラゴンの仮面を被った怪しい人物が複数いるのが分かる。
「巫女様がここにいるという噂を耳にした。迅速に、且つ慎重に差し出せ!」
外にまで聞こえる低い声にアクセルは状況を察知、再び商店通りへと駆け出した。
「おい、怪しいな、あいつを追いかけろ!」
すぐに気付かれてしまったアクセルは苦い表情で立ち止まる。
振り返ればアクセルより怪しい集団が横一列に並んでいた。
「えーと、何用で?」
彼等の装飾品を観察していると、見たことのある赤い指輪が右手に填められているのに気付く。
思わず顔が引き攣ってしまいそうになるも、アクセルは平然を装う。
「巫女様の居場所を知っていそうだな、答えろ!」
「しらねぇよそんなの、俺はただの盗賊だ。今から仕事なんだよ」
乱暴な口調に益々疑いたくなる怪しい集団。
お互い仮面越しに目を合わせると、揃って頷いた。
「もういい、行け」
見下したような口調と態度に苛立ちを覚えるが、アクセルは何も言わずに立ち去る。
人通りの少ない閑散とした商店を進むと、先程まで一緒にいたシンシアを発見。
背を向けているのでこちらに気付いていない。
目標を捉えたアクセルは声をかけずに盗賊らしく、音も立てずに颯爽とシンシアを抱き上げた。
お姫様抱っこの状態になり、シンシアは突然のことで数秒だけ呆然とする。
落とさないよう密着させて、アクセルは路地裏へと入っていく。
「な、な、ななんあなあなな!?」
わけもわからない状況に顔を赤面させたシンシアをよそにアクセルは表情を変えずに辺りを見回す。
相変わらず陰湿な空間で普通の人間なら歩きたいと思わないだろう。
シンシアを下ろして、アクセルはしゃがみ込む。
「宿に戻ったら信者がお前を捜してた。しかも、お前と同じ恩恵の指輪を持ってたんだが、どういうことだ?」
路地裏に連れられて、事実を告げられたシンシアは困惑な表情を見せた。
「それはわたくしが知りたいですわ! 恩恵の指輪を持っているなんて初耳ですの、ドラゴンと血の誓約をするなんて……狂ってますわ!!」
ならシンシアは狂っているということになる、それをアクセルは口に出さずに飲み込んだ。
「ま、どうする?」
これからのことを尋ねてみると、シンシアは袖を捲ってつり目で前を睨む。
「追い払うに決まっていますわ。ドラゴンと会話ができなくても召喚は可能ですもの、丘へ行きますわよ」
ついてこいと意気揚々に丘へ続く路地裏の道を先に進んだシンシア。
アクセルは黙って立ち上がり、同じ道を進んでいく。
路地裏から抜けていくと一気に視界が広がって、狭苦しい暗い通りから緑色の景色が一面に映る。
登った先を見下ろすと木々に囲まれた狼砦。
前を眺めれば深い森がずっと続いている。
アクセルは詠唱の準備を始めたシンシアを見守りながら、信者が来ないか警戒をした。
本日の天候は晴れ、召喚をすればすぐに空は曇天に変わるはず。
しかし、シンシアは苦い表情を浮かべて召喚を途中でやめてしまう。
「どうした?」
「駄目ですわ、できませんの」
シンシアは溜息交じりに先程登ってきた丘の道を見下ろす。
釣られてアクセルも丘の道を見下ろすと、嫌そうな顔を露骨に浮かべた。
怪しい集団が横一列に並んでこちらへと行進してくる。
「見つけましたよ、巫女様」
ドラゴンの仮面を被った信者は嬉しそうに低い声を少し高めに出す。
「もうわたくしは巫女ではありませんわ」
「何を仰いますか、我々の巫女は貴女だけです。他の者が巫女になっても駄目なのですよ」
信者の手を確認すると、自身の左手を握りしめた。
「どうして血の誓約を行いましたの? 一体何を犠牲にその指輪を?」
「それは……巫女様と同じですよ」
その言葉が唇を強く噛ませる。
心を足で踏みつけられたかのような感覚にシンシアは信者達を強く睨みつけ、
「ホントに狂ってますわ」
力を込めて呟いた。