第十一話
記憶を遡れば、そこは猟師の村。
森林に囲まれた他者と交流することはない村は少人数で暮らしていた。
弓を背負い、腰には短刀を差して仕掛けの道具を手に持つ村人ばかり。
少年は優しい蒼い瞳で大人しい少女へ手を差し伸べる。
「アクセル、やめよう。二人だけで狩りなんてムリだよぉ」
今にも泣きそうな漆黒の瞳は潤んで手を胸に引っ込めていた。
「大丈夫、何があってもオレが守るから。オレだって一人で狩りができるって周りに証明しないといけないんだ。ほら、アヤノ」
引っ込める手を掴んでアクセルはアヤノを無理に森の中へと連れていく。
人が通れるような道はなく、二人の背を超える雑草が行く先を邪魔している。
アクセルは傷一つもない手で掻きわけて、足で雑草を踏み進む。
天気は快晴なのに木々が生い茂って空を塞がれている。
「コワいよぉ……」
アヤノの手から伝わる恐怖と消えてしまいそうな声、アクセルはしっかりと強く握り締めた。
しばらく進んでいくと、長い雑草の向こう側から荒い息遣いが聞こえ、アクセルはすぐにアヤノを深く座らせて身を隠す。
「獣臭い、多分すぐそこにいる」
アヤノに耳打ちしたアクセルは自身より大きな弓を手に構えて矢を宛がい、立ち上がった。
雑草を足で潰して前に出ると、太陽の光が差し込む見通しの良い空間。
真ん中には灰色の毛に覆われた獣が確かにいた。
「で、でかっ!」
思わず大きな声を出してしまったアクセルは顔を引き攣らせて射る事を忘れてしまう。
予想を上回る大きな体を支える逞しい四脚で森に立ち、鋭く黄色い瞳でアクセルを睨んでいる。
一体どれほどの獲物を喰らってきたのか、牙や口の周りには血液が染みついていた。
『人間ノコドモか』
「え、喋って……るっ!?」
アクセルが呆然としている間に獣は目前までたった数歩で近寄り、二人を簡単に見下ろす。
「あ、ああ、あ」
獣の姿にもう体は動けないのか、アヤノはうまく声も出せなかった。
まだ矢は宛がったまま。
「あ、アヤノに近づくな、これ以上近づいたら」
顔を青ざめながらもアクセルは弓を構えて獣に向ける。
獣は前脚でアクセルを軽く横に打ち払った。
衝撃で矢が飛び出して、獣の体に突き刺さるが全く気にしていない。
払われたアクセルは大木に背中からぶつかり頭から地面に落ちる。
鞭打ち状態で満足に受け身を取ることができず、アクセルは意識を朦朧とさせた。
「あ、あくせ、る」
『コドモは美味ダ、我のエサとなるか……それとも』
アクセルは手で頭を押さえて腰に差した短剣を抜く。
『我の子とナル、か』
痛さに耐えて走ったアクセルは獣の首先に刃先を刺した。
「アヤノに近寄るなぁ!!」
短剣を抜けば、首先から大量の血液が滝のように噴出。
真っ先に血を浴びたアクセルは思わず目を閉じて俯く。
飛び散る返り血にアヤノも少量ながら付着してしまう。
獣は大きな体を一度反らして、遠吠えを響かせると横になって倒れた。
「アヤノ、大丈夫!?」
「あ、あ、うぁ」
アヤノは放心状態でアクセルの顔を見上げる。
「おーい、今の音はなんだぁ!?」
遠くから大人の声が聞こえ、アクセルは思わず背を震わした。
逃げようと思ってもアヤノは立つことができない。
「もしかしてアクセルか!?」
勘付かれてしまった、アクセルは返り血を手で拭い、その場に座り込む。
「な、なんだ、血だらけじゃないか。アヤノまで……しかも、なんて大きい獣だ。獣? いや、これは」
駆けつけてきた男は獣を確認すると、次第に青ざめてアクセル達を鬼のような形相で睨んだ。
「なんてことを……アクセル! アヤノ! お前達はとんでもないことをしたな!!」
詳しい説明もなく、二人は村に戻され二人の両親が呼び出された。
村の中心に集められ、村人達の険しい顔に囲まれてしまうアクセル。
村の長である筋肉質な男は静かに目を細めて、アクセルとアヤノを見下ろすと息を吐く。
「お前達が殺したのは獣ではない、フェンリルという我々狩人の神だ。フェンリルを殺害したお前達の罪は死に値する。その責任は、もちろん親にもある」
「え、死ぬって、なんで」
アクセルは信じられず首を横に振るが、
「黙ってろアクセル! なんて馬鹿な息子だ、どうせ嫌がるアヤノを連れて行ったのだろ? まだ引っ越してきたばかりのアヤノ達まで巻き込むなんて、最悪だ」
父の言葉に思考が止まってしまう。
口には獣臭い血液が残っていた。
アクセルはどうしてか胸が熱く、焼けるようで服越しに胸部を握りしめる。
アヤノは俯いて頭を抱えて座り込んでいた。
目の前では父が腕と足を木に縛り付けらている。
その先には弓を構えている村人の姿。
人数分以上の矢が用意され、村人は矢を宛がって射る準備を進めた。
呼吸が荒くなるのを分かっていながらもアクセルは声が出せず、地面に座って四つん這いとなる。
躊躇いもなく矢は射られ、あっという間に父の心臓へ深く入り込む。
短い呻き声だった。
力無く首が垂れ、体が解放されると狩られた獣と同じように捨てられる。
あまりの恐怖に頭でもおかしくなったのか、アクセルの口元には笑みが浮かんでいた。
何人目かの短い呻き声でようやく顔を上げたアクセルは父の上に乗った母の遺体を視界に映す。
さらに母の上にアヤノの両親が重なって乗せられている。
次はどちらの番なのだろうか、気付けばアクセルは村人に襟首を掴まれていた。
「次はお前だ。すぐに家族の所に連れて行こう……お前の勝手な行動がこのようなことになった、しっかり懺悔することだな」
アクセルはそれが人語なのか、別の言葉なのか、理解できていない。
自らの体が肉を欲している。
獲物が周りに沢山あることで心が躍り、アクセルは村人の手を振り払った。
『がぁああ』
獣のような鳴き声に変わったアクセルは次第に衣服が消え、灰色の毛が体中を覆い隠す。
「アクセルが、獣に変わった!?」
鋭い牙が生え揃い、フサフサの尻尾を垂らして耳を立て、蒼い丸い瞳で獲物を捉える。
「アヤノも獣に変わったぞ!!」
二匹の獣は目の前にいる村人に喰らいつく。
現実の世界にいるというのに悪夢だった。
全員の肉を食べ終えた頃、二匹は村から姿を消す。
村から離れ、森を抜けると草原が広がっている。
アヤノを背負い歩くアクセルの手は血で汚れて、口の周りも赤い。
「このままオレ達、獣になるのかな? フェンリルを殺した罰なのかな?」
目を細めたアクセルは背中にいるアヤノに声をかけた。
「そんなの……イヤ。私はもう獣なんかになりたくない、人を殺したくない」
怯えた声で必死に望みを言うアヤノに、アクセルは俯く。
「治す方法なんて知らないし、このまま生きるしかないよ」
「降ろして!」
アヤノの強い言葉に驚いたアクセルは目を丸くしてすぐに背中から降ろした。
自由になると、アヤノはアクセルから離れる。
「絶対、このまま生きるなんてイヤ。私はアクセルとは違うんだから、アクセルみたいにそんな、そんな」
「アヤノ?」
顔は引き攣り、アヤノは泣きそうになるのを堪えてそのまま走り去ってしまう。
「えっ、一人じゃ危ない!」
「近寄らないで! 私は絶対解く方法を探すんだから!!」
アクセルは追いかけようとした体を抑えて、草原に立ち尽くす。
草原が広がる風景の先には町があった。
町のなかでは大きい方で、少し遠くても視界に映る。
一歩ずつ、ゆっくりと足を動かしたアクセルは小さく息を吐きながら目を細めた。
疲労が表情に出ているアクセルはすぐに足を止めてしまう。
草原の真ん中で膝をつき、座り込んだアクセルはうつ伏せに倒れる。
余韻もなしに深い眠りについてしまった。
「……さん、きてくだ、いまし」
誰かが耳元で呼んでいる。
「あく、るさん! きて、ますの?」
ついでに体も揺すられ、眉間に皴を寄せて目をきつく閉じた。
「アクセルさん!!」
「うぉ!?」
全身を震わしてアクセルは目を覚ます。
痺れるような感覚に疑問を浮かべながら、アクセルは上体を起こした。
側には帝都の巫女をしているシンシアの姿。
左手から微弱な電気が流れている。
「アクセルさん、なかなか起きてくれませんからちょっと軽い刺激を与えましたの」
強めの風が吹く草原の真ん中で寝ていたアクセルは自分が町の外にいるのだと気付く。
「いつの間にか寝てたのか」
青みがかったボサボサの黒髪を掻いて、今や少年の面影は消えて青年となったアクセル。
筋肉質に長身の体、犯罪に染めた手を眺めてアクセルは肩をすくめる。
「どこでも眠れますのね。ところで、うなされていましたけど変な夢でも見ましたの?」
「ああ、子供の頃の夢を見てたな」
草原の先にある森林に目を向けて、アクセルは苦く笑みを浮かべた。
しっかりと二本の足を地面につけて立ち上がる。
「子供の頃、そういえばアクセルさんはいつフェンリルの血を飲まれたのです?」
「十年前くらいか、森でフェンリルを獣だと勘違いして殺した時に飲んだんだろうな」
「獣と間違って殺した? フェンリルは人語を喋りますし、あの大きい体では森に収まりませんわ。それに、今もフェンリルの血を飲んで狼になっている人はいますもの」
アクセルは軽く何回も頷いて、シンシアの言葉に耳を疑う。
「はぁ? 俺は狼になってるだろ。喋ってたし、俺は確かにこの手で殺したぜ」
納得できないアクセル。シンシアはいないはずの誰かに囁かれ、相槌を打つ。
「フェンリルは先の大戦でドラゴンに敗れて深い傷を負いましたから、弱まっていたかもしれませんわね。ですが人間の武器では絶対に殺せませんわ」
最後の一言にアクセルは眉を顰めて青い空を見上げる。
脱力感が体を覆い尽くし、声を出す気力もない。
シンシアは怪訝な表情を浮かべて、立ち尽くしているアクセルの袖を掴む。
「さっさとお店に戻りますわよ、それともここにいますの?」
袖を引っ張るシンシアを見下ろしたアクセルは静かに息を吐く。
「いや、俺はしばらく本業に戻る。お前もそろそろ、帝都に戻った方がいいんじゃないか?」
眉を下げてすぐに袖から手を離したシンシア。
二歩後ろに下がって俯くと、シンシアは口を膨らます。
「帝都なんて戻らなくてもいいですわ、厄介な大人がたくさんいますのもの。あそこにいると、わたくし……わたくし」
「わかったわかった。とりあえず、イリスに伝えてくれ」
口ごもるシンシアの様子にアクセルは聞くのをやめた。
アクセルはもう一度深い森を眺め、頭を掻きながら町へ戻る。
商店通りに建てられたボロボロの宿に帰ると、宿主が外でアクセルを待っていた。
「あんたに客人だ」
素っ気ない言い方に肩をすくめて宿の中に入ると、ドレスを着た娼婦の女性が不機嫌そうにアクセルを睨んでいる。
ここに来るお客の大抵は不機嫌だったり、不安そうだったりで、まともな人間は来ない。
そいうものだと知っているアクセルはいつものように苦い笑みを浮かべて客人の依頼に耳を貸した。