第十話
本日も露天市場は賑わい、人の行列が途切れずに商店通りを歩いている。
露店を開いている若い商人の少女イリスは今日も元気よく声を張ってお客を呼び込む。
右手中指に一際輝いているのは赤い石が刻まれた指輪。
どんな雑貨商品よりも人の目を引く。
露店の後ろにあるお店の中で市場の様子を見守っているのは盗賊でありながら、お店の用心棒を任されているアクセル。
眠たそうに大きく口を開けて空気を吸い込み、ボサボサの青みがかった黒髪を掻いている。
その隣にはローブで容姿を隠す暗殺者、アンが立っていた。
「あー眠たい。セレスティーヌはちゃんと娼婦館に戻ったし、帰っていいか?」
「アンは用心棒じゃない」
さらっと綺麗に冷たく返されてしまい、アクセルは苦い笑みを浮かべた。
「そういや、どうして俺の依頼を受けようと思ったんだ?」
浮かんだ疑問を口に出せば、アンはアクセルを見上げる。
アクセルの視界にはフードの奥深くに隠れている残酷さを覚えた紅い瞳が映った。
「アンは動物が好きだから、狼も大好きだ」
返答に肩をすくめたアクセル。
「俺は人間だっての、好きで呪いを受けたわけでもないしな」
アンは見上げるのを止めて、真っ直ぐに商店通りを眺める。
「アンはお前が良い人だって思った。多分……アクセルのこと、好きだ」
呟かれた言葉にアクセルは目を丸くさせ、すぐに目を細めると髪を掻く。
結局アンに仕事を任せて、アクセルは騒がしい市場から離れた。
商店通りを進んでいくとボロボロな宿屋が崩れそうに建っている。
何枚もの板が打ちつけられた壁に割れたガラス窓。
愛想の良い人物などここには来ない。
アクセルは入り口近くで足を止めると、怪訝な表情を浮かべた。
目の前にはこの町の帝国兵を束ねる班隊長を務める女性の姿。
軽装鎧を装備し、上に黒いコートを羽織っている。
「今日は一人なんだな」
「お前に聞きたいことがあって来ただけだ。それだけに何人もいらない」
首に巻いている深緑の宝石が埋め込まれたアクセサリーに目が行く。
「それで俺に何を聞きたいわけ?」
気にせず軽く頷いて、アクセルはその場にしゃがみ込んだ。
「ドラゴンについて、悪賊に襲撃された時に突然やってきた赤いドラゴンがどうやって来て、何をしたのかを説明してほしい」
アクセルは目を細めて髪を掻くと、息を小さく吐く。
「悪いけど知らないな、気付いたら終わってたって感じだ」
「そうか……丘から見えたあのドラゴンは幻だったのか」
呟いた言葉にアクセルはすぐに立ち上がった。
「丘? いないと思ったらお前、あの襲撃の最中に外へ出てたのかよ」
蒼い瞳で睨むと、隊長もまたアクセルを睨み返す。
五秒ほど睨み合っていると、
「宿の前でなんで見つめ合っていますの?」
涼しい表情で戻って来たシンシアが二人の間に立っていた。
「み、見つめ合ってない。お前ももう終わっただろ、さっさと基地に戻れよ」
「可笑しいな、お前は。これ以上聞いても情報がないのなら仕方ない、それじゃあ問題を起こすなよ」
軽く笑われてしまったアクセルは口角を下げて、妙な居心地の悪さに頬を掻く。
隊長がその場からいなくなると、シンシアは首を傾げてアクセルを見上げている。
「相変わらず人相の悪い顔ですわねぇ」
「うるせぇな、元々そんな顔だよ。お前、市場はいいのか手伝わなくて」
眉を下げて青いつり目を細めたシンシアは俯いた。
「あの暗殺者がいるから大丈夫ですわ」
名前ではなく職種で呼ぶシンシアにアクセルは肩をすくめる。
「さいですか……なぁシンシア、ドラゴンって色々いるのか? お前が誓約してるドラゴンってどんな奴なんだ?」
シンシアはいないはずの誰かに囁かれ、相槌を打つとアクセルの質問に答えた。
「そうですわね、様々なドラゴンが存在していますわ。わたくしと血の誓約をしたのはシルバードラゴンですの」
「シルバードラゴンってのは帝国の象徴になってる世界の支配者だろ? いくら巫女でもそんな支配者が簡単に誓約してくれるものなのかねぇ」
赤い宝石が埋め込まれた指輪を護るように右手で覆い隠すシンシア。
言葉を忘れたかのように口から微かな吐息だけが出ている。
アクセルはふと自らの掌を眺めて、次に口を半開きにしているシンシアの体へ視線を向けた。
そっと手をシンシアの肩に伸ばしてみる。
すると、
『触レルナァ』
重々しい言葉がアクセルの体に伸し掛かると同時に電気が指先に流れて、反射的に手を引く。
「な、なんでしたの?」
はっとした様子でシンシアはアクセルを見上げた。
「なんでも。この前の事件でさ、召喚するはずだったシルバードラゴンじゃなくて、あの赤いドラゴンが何故出てきたのかって話」
話題を変えて、アクセルは痺れる掌を力無く振った。
「召喚の途中でイリスさんの指輪が反応してしまい、リザードドラゴンが召喚されましたの。でも、本来はそんなこと有り得ませんし、魔術師でもないイリスさんに召喚できる術なんてありませんわ」
「ふーん、勝手に出てきたってとこか」
獲物を狙う蛇のような視線がアクセルの頭に未だ残っている。
これ以上の質問も思考もやめて、いつものようにのんびりと過ごすアクセル。
午前が終わり、商店通りは閑散としていた。
イリスがいるお店に戻らずアクセルは町の外に向かう。
広大な草原に丘と深い森が視界に映る。
障害物のない自然な地形には強い風が吹き、無造作な髪はさらに乱れてしまう。
「アクセル」
落ち着いた声が背後から聞こえ、アクセルは振り返った。
「またお前かよ、今度は何用で?」
先程会ったばかりの班隊長だと気付けば苦い笑みで対応する。
「外は誰もいないのだから、私を名前で呼んでも損はないと思うがな」
「つまり呼べってことか? アヤノ」
静かに笑みを浮かべるアヤノはアクセルの隣に立つ。
「その首輪、いい加減外せよ。見てるこっちが息苦しくなる」
「断る。これはそう簡単に外していいものじゃない。お前のように自由自在に獣へ変身できたら、こんなもの必要などない」
両腕を胸の前で組むアヤノ。
「そうか? 慣れたら楽なもんだぜ」
何も言わないアヤノに、アクセルは睨まれてしまう。
「物を盗むのも簡単だし、人の通れない道も行ける。あんまり狼を敬遠するなよ、昔は昔だ、戻れる方法もないだろ? うまく付き合うしかないさ」
「忘れろと言うのか、諦めろ言うのか……アクセル。私はお前と違う、この呪いを解くために帝国兵となってフェンリルについて調べてきた。そしてやっと答えが分かってきた」
アクセルは耳を疑う。
「どうやって解くつもりだ?」
一応、アクセルは方法を聞いてみる。
「フェンリルに血を返すことで普通の人間に戻せるらしいが、な」
アヤノは力無く呟き、肩を落とす。
同じようにアクセルも肩を落として息を吐いた。
「フェンリルはとっくに……俺達が殺したじゃねぇか。お前の方こそ忘れてないか?」
「もちろん覚えている、しっかりと脳裏に焼きついて離れてくれない」
二人は記憶を共有しながら、次の言葉を失う。
草原の地で風に吹かれて向かい合う二人は口を紡いで立ち尽くしていた。