旧都の人気者
「ごめんなさい」
一夜明けた旧都の大通りにある茶屋の席で、お燐はヤマメを前にして頭を下げていた。
それを前にしたヤマメはと言うと、頬を人差し指でかきながら困った苦笑いを浮かべていた。
――事の顛末はこうだった。
昨晩はお互いに無言の中食事を取り、それから風呂に入ったあと、二人は顔も見合わせず眠りについた。
しかし、ヤマメと同室で眠ったお燐ではあったが、ヤマメに気を許したわけではなかった。
だから起きて早々家から出かけようとしているヤマメと共に旧都の街を歩き始めたのだったが、とある茶屋によったところでお燐はその口を開いた。
「なんで、あたいはあんたの家にいたの?」と。
そして問いかけられたヤマメは自分で知っている範囲で嘘偽りも無くその経緯をお燐に説明した。その結果がその謝罪だったのだ。
ヤマメはお燐を助けただけだったのだ。
気絶したまま湖の上に浮かんでいたとなれば、いつ溺れていても不思議ではない。その上、お燐は猫の妖怪だ。例えその身に妖力を有し、化け猫となったとしても、猫としての本質は変わらない。故に、お燐は人一倍水と言うものが苦手だった。だからそこを助けて貰ったヤマメに対しては、感謝はすれど怨みを持つのはお門違いにも程があった。
もちろん、敵地の住人であるヤマメが嘘を言っていないとも限らなかったが、お燐は疑う事もしなかった。
なぜなら、ヤマメは超が着くほどのお人好しである事は間違いがなかったからだ。
だからお燐は頭を下げずにはいられなかった。
この人が……この妖怪が、命の恩人であることに間違いはなかったから。
「あはは……、そんな改まって頭を下げてもらっても恥ずかしいだけ……かな?」
しかし当のヤマメとしては、人の込み合う旧都の茶屋の席で頭を下げている連れを前に、どうしても恥ずかしさを隠せないでいた。
だからお燐が頭を下げる姿を見て苦笑いしか浮かんでこなかったのだ。
そんなお燐は目に涙を浮かべながら言葉を続けようとした。
「いや、でも……」
「あ、うん。いいから、あなたを助けたのは私の勝手だし、さっきも言ったようにそんな風に改まって謝られても恥ずかしだけだから」
「でも、それじゃ申し訳が立たない!」
ヤマメがどれだけお燐の気をそらそうと努力したとしても、一向に引く所を見せないお燐にいい加減苦笑いから呆れに変わりそうになる。こういう所も流石は地霊殿の住人と言ったところか……と、ヤマメは少なからず感じていた。
なんというか、頑固と言うのか……。
そんなお燐の必死な様子を見て、ヤマメは腕を抱え、しばらく考えた後、何かを思いついたように口を開き始める。
「あ、じゃあね。お燐」
「何?」
「私に恩を感じているというのなら、一つだけ私の願いを聞いてくれるってことでいいかな?」
「あ、はい!」
元気に返事をしたお燐が笑顔になるのを見届けてからヤマメは座っていた席を立つ。
「あ、どこに行くの?」
「ん? 私のお願いを聞いてもらえる楽しい場所」
何が起きているのかわからずに呆然としたお燐を置いて、ヤマメはそのまま茶屋を出る。そしてお燐はそんなヤマメの背中が見えなくなってから我に返り、その背中を追う。
茶屋を出たお燐を待っていたのは、とうろうが彩る旧都の街並みだった。
そこでは多種多様な妖怪たちがその街並みに広がる各店で賑わいを見せていた。
普段ペットたちが騒ぐ地霊殿のフロアとはまた違った雰囲気にお燐は新鮮味を覚えていたのだが、お燐はまだ素直に楽しめるはずもなく、ヤマメの背中を探し、その後を逃げるように追いかけていた。
だが、そんなヤマメの背中もあまり居心地のいい場所ではなかった。
なぜなら……、
「ヤマメちゃん、家の飯食べて行ってよ」
「あはは、ごめんなさい。今日はちょっと用事があるから!」
「ヤマメちゃーん、いい茶葉手に入ったよー」
「ありがとう! 今度買いに行くね!」
ヤマメの後ろに付き旧都の町を歩いていくと、店を一つ通り過ぎるたびにヤマメに声を掛ける人が現れるのだ。あまり旧都の妖怪たちの事をよく思っていないお燐にとっては、それはあまり喜ばしい状況ではなかった。
しかし、それと同時にヤマメと言う妖怪の事も少しずつ理解できるようになってきた。
――黒谷ヤマメは旧都の人気者だ。
それはお燐が地霊殿にいた頃からよく耳にしていた噂だった。
こうして道行くだけで声を掛けられているヤマメはその噂に違わぬ、人を惹きつける物があるのは確かだった。だからこそ、お燐は疑問を抱かずにいられなかった。
旧都に住まう妖怪――それは同時に嫌われ者の称号を受けてしまった妖怪であるという事だった。
ヤマメは人気者であると同時に嫌われ者……。それがお燐の抱いた疑問の正体、矛盾だったのだ。
お燐はまだヤマメとは出会ってまだ一日しかたっていなかったが、彼女が本当に優しくて明るい存在であることは十分に認識していた。それは地上の人間や妖怪たちを含めてもきわめて稀と言わざるがを得ない程と言っても過言ではない。
だが、それでもヤマメは人に疎まれ、嫌われ、この地底に逃げてこなくてはいけない絶対的な理由があったのだ。
それが、彼女が抱えた妖怪としての能力――病気を操る程度の能力だった
これまでの歴史が語っているように、人が大量に死ぬ理由は飢饉による餓死。戦争による略奪と虐殺。そしてもう一つが疫病である。
そしてこの黒谷ヤマメと言う存在はその疫病を司ると呼ばれていた。
これほどに友好的な性格なヤマメがあまり強引に能力を行使するとは考えにくいが、それはやはり人間たちの恐怖から嫌われてしまったのだろう。
妖怪とは、もとより人間の恐怖から生まれる存在だ。
もし疫病が流行ったとして、そこに土蜘蛛のヤマメがいたとしたのならば、ヤマメを恨まずにはいられなかったのだろう。だからこそ、ヤマメは嫌われ者になってしまっていた。
それは何とも悲しい話だろうか。
濡れ衣による嫌われ者と言う称号。
それは、逆恨みをされたという事に他ならない。
きっと悲しかったはずだ。苦しかったはずだ。
だけどヤマメは、悲しい顔をすることも弱音を吐くこともなく笑っていた。
それを見て、お燐はやはり複雑な気分になってしまう。
ヤマメは敵だ。旧都の鬼の側近であるはずのヤマメは、地霊殿の主――さとりにとっては敵であるはずだった。だけど、ヤマメと言う存在が優しいという事を知ってしまった。強いと知ってしまった。だからどうしてもお燐の中では敵であるという気持ちと、優しいヤマメを親しく思う気持ちが渦巻き、やるせない心ができてしまっていたのだ。
だからお燐はヤマメの服を背中から掴んでいた。
その背中が愛おしくて、敵であるはずなのにどうしても手放したくなかったのだ。
そしてヤマメはお燐が自分の服を掴んでうつむいているのに気が付いていた。だから優しく笑いながら語りかける。
「どうしたの?」
「……別に」
「あはは、へんなお燐」
お燐が頬を朱に染め俯いたのを見て、ヤマメは再び笑顔で前を向いて歩き出す。
そんな姿を目にして、お燐は一人愚痴る。
「卑怯者……」
その一言はいったいどこへ向けて発せられた言葉だろうか。
お燐の発したその言葉はどこへたどり着くこともなく宙を空回り、虚空へと消えていく。
それからしばらく無言のまま二人は歩いていると、ヤマメはふいに立ち止まった。
異変を感じたお燐は不思議そうにヤマメが立ち止まった目の前にある店を仰ぎ見る。
そこは旧都の日本家屋の中でも一際目立つ一軒の酒屋だった。
それは旧都によくあるような大衆が集まる飲み屋とは違い、一言でいえば民宿のようなところと言えばいいのだろうか。一つ一つの部屋が区切られた。言わば高級な店と言ってもいいだろう。
しかし、こんな酒屋を前にしてヤマメはいったい何をするというのだろうか。
もとより自由奔放な性格が大半な妖怪たちにとって退屈は天敵だ。そのうえ、天の閉ざされた旧都にはどうしても楽しめる枠が狭められてしまう。そのため、ほとんどの妖怪たちは酒を飲むことを楽しみに生きている。よって、気が付けばこの旧都の大通りの中で酒屋の数は確実に地上よりも多い。しかしその中でもやはり目の前にある酒屋は特別だったのだ。
故に、お燐の中にはそんな疑問が湧いたのだ。
酒を交わすというのならば、その辺にある酒屋でも十分事足りる。
なのに、なぜここと言うのだろうか。
ここを使う者なんて、物好きな旧都の妖怪の中でも……。
そこまで考えてお燐は一つの結論に至る。
つまり、ヤマメが言う願い事と言うのは……。
「や、ヤマメ……?」
その答えが嘘であってほしいと思い、お燐は不安そうに問いかける。そしてヤマメはそんな不安で肩をすくめているお燐に対し、
「今から、勇儀達とお酒を飲むから。付き合ってね」
優しくとどめを刺すのだった。




