嘉藤菜摘というピアニスト
「菜摘ってさ、幾つなんだろう?」
「聞いてないんですか?」
「なんか聞けないんだよ。 見えないオーラみたいなものがあるみたいで」
「キミには、そんな能力があるんですか?」
「ふざけるなよぉ……」
俺は思わずカウンターに突っ伏した。 それほど俺に興味がないとか、これっぽっちの心配もしていないってのは分かっていたが、そんなに軽く受け流すこと無いだろう?
マスターは楽しそうに小さく笑うと、俺の前に一枚のチラシを差し出した。
「これ、何?」
手に取ってみると、そこには薄手の煌びやかなワンピースを着てスポットライトを浴びて立っている一人の女性が映っていた。
「これって、もしかして……」
呟きながら目が止まった文字は【嘉藤菜摘】とあり、その傍らには品のある明朝体で【世界を唸らせた天才ピアニスト】と印字されていた。 もう一度女性の顔を見ると、舞台用のメイクで塗り固められているが、あの菜摘のようだった。
「菜摘、ピアニストだったのか!」
「あなたは、こういう気高い世界からはかけ離れた場所で過ごしてますもんね」
「確かに…………っておい! 俺はそんなにアンダーグラウンドじゃねーよ! でもなんで? これだけ名のある人なら、忙しく世界中を飛び回ってるはずだろ? こんな片田舎の寂れたバーに、毎週のように呑みに来るわけねーよ」
「そうですねぇ……」
マスターは何か含んだ口元を緩ませ、棚のビンを整理しはじめた。
「何か知ってるんだろ?」
「僕は、あなたがもうこの店で演奏してくれなくなるんじゃないかと、それだけが心配なんですよ」
振り向いたマスターは、わざとらしく眉を寄せた。
「そんなこと、どうでもいいんだよ」
「僕にとっては死活問題なんですよ」
「もういいよ!」
俺はマスターの相手に疲れ、パンフレットに目を通した。 日付は二年前になっていた。
俺はチラシに書いてあった事務局に電話をして、直接尋ねることにした。 返ってきた言葉に、俺は愕然とした。
「嘉藤さんは、二年前に離婚をされてから行方不明なんです。 もし彼女を見かけたら、こちらまで連絡をお願いします」
家族の方から警察にも捜索願いは出したが、事件性は無いということですぐに打ち切りになったらしいが、死亡したという情報があるわけでもないし、海外へ行った時に消息を断ったならば、もう打つ手は無い。 彼女は、その後も詰まっていたスケジュールを全部すっぽかして突然居なくなったと、事務所の女性は半ばあきらめた口調でそう説明した。
もし【嘉藤菜摘】があの菜摘なら……俺はどうしたら良いんだろう。 一体俺は、どうするつもりなんだろう。 でも、確かめたい。 俺は真実を知りたい。
俺は、再び店に菜摘が現われるのを待つことにした。
翌日の昼、会社の食堂で若干眠気に襲われていた俺に、光司からのコールが鳴り響いた。 今、本当はヤツと話す気は無かったのだが、バンドの話は、菜摘とは関係のないものだ。 俺は仕事に向き合うつもりで、一瞬だけ気持ちを切り替えた。
「連絡遅いじゃねーか? バンドの打ち合せなら、いつものスタジオだろ? 何時にする? 今日は空いてるぜ」
「そうじゃないんだ……」
光司の声に覇気が無いのが、すぐに分かった。
「何かあったのか?」
俺は少し不安感を覚えながら、光司の言葉を待った。 彼は少し間を置いて重い口を開いた。
「その話、無しにしてくれないか?」
「はあ? 何だって?」
いきなりの事に、拍子抜けしてしまった。
「ちょっと待て。 いきなりそんなこと言われてもな、ましてや、まだ何も始まっちゃいないのにさ、俺も答えに困るんだけど」
「そうだよな。 とりあえず、今晩会えないか?」
「デートの誘いは断らない主義だからな。 何時にどこ?」
その夜俺は、この間ライブの打ち上げをやった居酒屋で光司と会った。 バンドのメンバーも全員そろっていた。
「何だよ皆揃って。 しかも、お通夜みたいに沈み込んでんじゃねーーよ!」
どこか元気のない光司たちを盛り上げようとする俺を前に、彼らはお互いに目を合わせてモジモジしている。 次第に俺は苛立ちを感じた。
「何だよ? 言いたいことがあるなら言えよ! 何のために呼ばれたのか分かんねーだろ? このままだんまりを決めつけるっていうなら、俺は帰るぞ!」
いい加減にしろと声を荒げる俺に、光司がやっと決心したようにうん、と頷き、目の前のビールを飲み干した。 そしてグラスをドンと置くと、吐き出すように言った。
「悪い涼太! 俺たち、デビューが決まったんだ!」
「デ? デ、デビュー…………ってお前ら!」
俺は勢いよく席を立つと、一様に怯えたように肩をすぼめる光司たちの後ろに回り、その肩ごしに抱きついた。
「うわっ! りょ、涼太?」
面食らった様子で目を白黒させる光司たちに、俺はなおも強く抱きつくと
「すげえじゃねーーかよぉーー! デビュー決まったんだろ? なんでそんなに落ち込んでんだよ?」
小さな居酒屋に、俺のすっとんきょうな声が響いた。 他の客たちも振り返ったかもしれないがそんなことはどうでもよかった。
「だってお前、一緒にやろうって言ったとき、あんなに喜んでたじゃないか? それを足蹴にするみたいで、申し訳なくて……」
「それとこれとは次元が違うだろうが! どれだけ待ったんだよ? 今までの努力が実ったんだぜ? もっと喜べよお前たちっ! おらっ!」
バンバンと三人の肩を叩きながら、俺は高笑いをしていた。
「なんだよ! 神妙な空気で呼び出すから、何事かと思ったら、そんなことか! お前ら、俺との口約束をそんなに重く受けとめやがって」
光司たちは、初めのうちは困惑していたようだったが、やがてホッとしたように顔を見合わせた。 その様子を見て、俺は席に戻って光司たちと向かい合うと、
「そりゃあ、一緒にやるって話が流れたのは淋しいけどな。 けど、そんなに悩むことなかったんだぜ! お前ら、ほんっとバカだな!」
「涼太、いいのか、本当に?」
「俺たちのこと、嘘つきとか思ってんだろ?」
「本当のこと、言っていいんだぜ?」
メンバーたちもポツリポツリと口を開き始めた。 だが俺の気持ちは、澄んだ夏空のように晴れやかだった。
「いいか? んなことばっかり気にしてるから、なかなか声が掛からないんだよ! よし、今日は俺のおごりだ! パァーーッとやろうぜ!」
ビールとつまみを追加すると、メンバーたちもやっと安心したように笑顔を取り戻した。
やがていい加減に酔った俺は、居酒屋に響き渡る声で言った。
「皆さーん! こいつら、今度メジャーデビューしますんで、どうぞご贔屓に!」
苦笑いの客や店員に構わず、俺は光司たちを祝福した。




