もうギターは握らない
「お母さんって、良いわね!」
帰り道の電車の中、菜摘は呟くように言った。
それまでずっと無言だったし、俺も言葉が一つも浮かんでこないままだったので、二人はしばらく会話もなく家路についていた。 久しぶりに聞くような菜摘の呟きには、どこか安堵が漂っていた。
「お母さんと、何か話した?」
俺があの女性のことを『お母さん』と呼んで良いのか分からなかったが、菜摘は穏やかな表情で頷いた。
「母はいつも父の言いなりで、私は母の小さくなった背中を見て育ってきた。 でも母が私を見る笑顔は、とても安心できた。 この人なら、守ってくれると思っていたの。 でもあの時、家を出ていく私を引き止めることは無かった。 少し期待していたのだけど……」
菜摘は流れる景色をぼんやりと見ながら話した。
「私、待っていたの。 この世界中に誰か一人くらいは、私を本当に心配してくれる人がいると思っていたから」
「菜摘……俺、行って良かったのかな? もしかしたら、話をややこしくしちゃったんじゃないか?」
「大丈夫よ!」
菜摘は不安げな表情を浮かべる俺を見上げると、にっこりと笑った。
「涼太くんのおかげで、私は母の気持ちが聞けた。 そして、父の気持ちも」
「お父さん……の?」
菜摘は嬉しそうに頷くと、胸を押さえた。
「分かったの。 父も母も、苦しんでた。 でもどうしようもなかったんだって。 誰でも、何かに縛られ、苦しめられて生きてる。 私だけじゃなかった」
菜摘は心底嬉しそうだった。
「やっと心が通じあえた」
菜摘は幸せそうに、俺に微笑んだ。
「そうか」
菜摘の笑顔にやっと心が落ち着いた俺は、頬が緩むのを感じた。 菜摘は、俺が父親と話している間、母親と何か話をしたんだろう。
俺のしたことがどんな影響を与えたのかは分からないが、これからのことは、菜摘自身が決めることだ。 俺は、菜摘が幸せならそれで良いと思った。
流れていく景色は、もう走馬灯ではなかった。 新しい道へ続く勢いをつけてくれるようだった。
不意に、俺の手を菜摘が取った。
「何?」
菜摘は、まだ包帯の巻かれている俺の手を見つめながら言った。
「また、あの店でギターを弾いてください」
「菜摘……俺はもう……」
俺の脳裏に、あの夜のことが蘇った。
自分自身に落胆して、店を飛び出したあの夜から、俺はマスターに会っていない。 もちろんギターにも触れていない。 俺は、俺自身を見放してしまった。 元の生活にも戻れるわけはない。 大丈夫だ。 幸い、普通に仕事はしているし、ひとつ趣味を失っただけのことだ。
「もう、ギターは握らない」
「どうして?」
菜摘は心配そうに俺を見上げる。 その視線から逃れるように、俺は外を眺めた。 それきり、俺は何も言わなかった。 菜摘はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、今の俺には何も届かないとあきらめたように口をつぐんだ。
菜摘はそのうち、実家に戻るという。
何度も感謝の言葉をもらったが、嬉しくなかったわけではない。 ただひとつ引っかかっているのは、俺は菜摘にふられているということだ。 そのキズは、正直癒されたわけではない。 菜摘の前では笑いながら、ふざけたことを話して楽しそうにしてみても、それはまるで上辺だけのものだった。 俺はまだ、菜摘のことが好きだ。 好きだったから、恐怖にも立ち向かって、菜摘の家に行って、親に説教できたんだ。
菜摘は、俺が告白したことをもう忘れたのかもしれない。 菜摘にとって俺は、都合の良い男だった。 それだけだったのかもしれない。
我が家は静まり返っていた。
両親は俺を残して、北陸へ温泉旅行に行っている。 珍しいことではないが、今日はこの静まり返る家の中が無性にだだっ広く思えた。
確かに菜摘の家と比べたら、天と地の差だ。 でも今の俺には、煩わしいほどの広い空間だった。 たいして何をするわけでもない。 掃除も、母親が帰ってきたらするだろうし。 俺はなんとなく、これ以上家の中を汚さないように気を付けておけば良い。
見たくもないテレビをつけたまま家の中でゴロゴロしていると、いつの間にか外はだいぶ暗くなっていた。 食欲もなかった。 今日食事をしたかどうかも、記憶にない。 無駄な一日を過ごした。
『このまま寝るか』
そう思っていると、玄関のベルが鳴った。
「こんな時間に……誰だ?」
と言うほど遅い時間でも無いなと自問自答しながら、結局俺は居留守を使うことにした。 幸い、家の中の明かりは点いていない。
ところがベルは、何度も鳴る。 とうとう三回目に、弾けるように立ち上がった。 勧誘なら怒鳴り散らしてやろうと思った。
「誰だよ!」
と吐き出すように言いながら玄関のドアを開けると、そこに菜摘が立っていた。 どうやってここまで来たのかとか、そんなことよりも、目を見張ったその胸には、抱き締められるようにギターが納まっていた。
「えっ、それ……」
それは、いつも店で弾いている俺のギターだった。 菜摘は俺の目を見つめたまま、胸のギターを差し出した。
「涼太くん、お願い!」
強い瞳の力だった。 もう断ることは出来なかった。




