表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傷色ノクターン  作者: 天猫紅楼
13/16

泥酔明けの味噌汁

 菜摘の部屋は、香水だか柔軟剤だかのいい匂いがした。

 肌ざわりの良いラグマットに座り込んで、ガラスのローテーブルに突っ伏している俺の前に、小さな音を立ててグラスが置かれた。

「とりあえず、お水を」

 静かに言って、菜摘は俺の怪我を手当てし始めた。 もう抵抗する気力なんてなかった。 酔いと貧血と良い香りで、頭がずっとぼんやりしていた。 傷口に消毒液を垂らした時に、顔をしかめたくらいだ。

「はい、これでもう大丈夫」

 そっと手を離して、菜摘は俺の様子を眺めていたが、やがて微動だにしない俺の肩にブランケットをかけると、席を外した。 次第に体を包んでいく温もりに気持ちが良くなって、俺はいつの間にか眠りについていた。

 

 

 意識が戻りかけ、ぼんやりした中で、なにやら美味しそうな匂いがした。

『味噌汁……』

 家族と住み、味噌汁なんて毎朝のように飲んでいるくせに、どこか懐かしささえ覚える匂いに、ゆっくりと目を開けた。

「あれ、ここは……?」

 耳に届いた自分の声は、声と言うよりは、枯れた木の葉が揺れたようなかすれた息だった。 と同時に激しい頭痛に襲われて、思わずうなり声をあげた。 体にかけられていた毛布がずり落ちて、いい匂いがした。 その拍子に、俺は今どこに居るのかを思い出した。

「大丈夫?」

 遠くから声がした。 小走りに駆け寄ってきた菜摘は、俺の前に水を差し出した。

「とりあえず飲んで」

 素直に受け取った俺は、それを一気に飲み干した。 冷たい感触が、喉を伝って胃に入り、頭の方まで染み渡るようだった。

「はあぁっ!」

 大きく息をつく俺に、菜摘は安心したように笑顔をみせた。 俺はさっきよりもはっきりし始めた意識に起こされて、とたんに恥ずかしくなった。

「ご、ごめん! 邪魔した!」

 慌てて立ち上がると、再び頭痛に襲われた。 こめかみを押さえながらへたりこむ俺に、菜摘は

「落ち着くまでここにいたらいいから」

 と優しく言った。 俺は小さく首を振って

「そういうわけにはいかないだろ。 大丈夫。 帰れるから」

と、膝を立てた。 その腕をつかんだ菜摘は、落ち着いた声で言った。

「じゃあせめて、朝ごはん食べてください」

「え……」

「二日酔いには、お味噌汁が効くって、どこかで聞いたことがあるの」

 言いながら、菜摘は手際よくテーブルに朝食の用意を始めた。 さすが元主婦。 動きに無駄が無い。

『エプロン姿も可愛いな……』

と、ソファにもたれたままぼんやりと菜摘を眺めている間に、テーブルの上には、湯気の立ったできたての料理が並んだ。

「さ、どうぞ」

「……いただきます」

 俺はもう断ることも出来ず、箸に手を付けた。 そして味噌汁に口を付けた途端、言いようの無い懐かしさが込み上げた。

「うま!」

 思わず口にして、はっと顔を上げると、心配そうに見守る菜摘と目が合った。

「美味い!」

 もう一度改めて言うと、菜摘はホッとしたように微笑んだ。

「良かった。 口に合わなかったらどうしようかと思ってた」

「これが美味くないわけないよ! すごく美味しい!」

 二日酔いの身体に染み渡るような温もりとだしの風味が、俺の心まで溶かしていくようだった。 お嬢様育ちなのに、ちゃんと料理ができるんだな。

 

 

「ごちそうさま」

 一息ついた俺は、もう一眠り出来そうな気がしたが、改めて立ち上がった。

「もう帰るの?」

 菜摘がカウンターキッチンの向こうから顔をのぞかせた。

「迷惑かけてごめん。 傷の手当てとか、飯とか、あと……」

 俺は、視線を泳がせながら昨日のことを思い出した。

「ひどいことを言ってしまったと、思ってる」

 まだぼんやりしている額を押さえながら、ため息を落とした。

「最低な男だな、ホント……自分でも嫌になるよ」

 自虐を込めた苦笑いをして、俺は玄関へと向かった。

 もう菜摘とは会えないな。 こんな醜態を晒してしまったんだし、彼女も俺のことを軽蔑しているに違いない。

 ドアノブに手を掛けた俺の体が、不意に優しい感触に包まれた。

「菜摘……?」

 俺は、驚いて下を見た。 俺の腰に、後ろから菜摘の腕が絡み付いていた。

「ごめんなさい」

 背中に、かすかな吐息がかかるのが分かった。

「な、なんで謝るの?」

 戸惑いながら、見えない後ろの菜摘へ振り向いた。 菜摘の腕に力がこもった。

「私の、せい?」

 菜摘の声が震えている。

『どうして?』

 俺は菜摘の腕に触れて拘束を取ると、向かい合って両肩を掴んだ。

「どうして菜摘が謝るんだよ? キミは悪くない。 悪いのは――」

 菜摘は激しく首を横に振った。

「黙って……いたの……」

「えっ?」

 菜摘は涙の滲んだ瞳で俺を見上げた。

「私……まだ全部話してない。 でもそれは、誰にも言ってないこと。 これは、私が背負った運命だから。 でも……」

「菜摘……?」

 俺は菜摘の肩を抱くと、部屋に戻ってソファに座らせた。

「菜摘、聞かせて。 俺、全部聞きたい。 菜摘のこと、知りたい」

「でも……」

「その荷物をさ、俺にも預けて」

 菜摘に向かい合った俺は、驚くほど自然な笑顔だった。 一度ふられたとはいえ、やっぱり俺は、菜摘を助けてやりたい。

 やがて菜摘の怯えるような瞳に、少しだけ落ち着きが戻ってきた気がした。 そして、次第にじんわりと涙があふれ出すと、崩れ落ちるようにうずくまって嗚咽を洩らし始めた。

 

 

「私……本当は逃げ出して来たの。 自分の生き方が、私が望むものではないと思い始めたのと同じ頃、病院の検診で異常が見つかって……」

 菜摘は時々しゃくりあげながら、ゆっくりと話し始めた。

「結婚してから一年、なかなか子供が出来なくて、診てもらったの。 そうしたら、私の体は、子供が出来ない体だってことが分かった。 もともとそういう体だったのか、小さい頃に何かあったのか、原因は分からなかった。 でも夫や向こうの家族は、原因なんてどうでもよかった。 ただ、子供が産めないという事実だけを受けとめた」

 菜摘の声が静かに流れる。 俺の頭の中に、自分で想像できうる最大限の風景を思い浮かべながら、菜摘の話を聞き続けた。

「私は家族たちの理解も得られないまま、同じ屋根の下に住み続けることは出来なかった。 だから……」

「家を出たっていうわけか?」

 俺の言葉に、菜摘は頷いた。

「菜摘の親は、何もしてくれなかったのか? その話、したんだろ?」

 菜摘は数秒の沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。

「『そんな娘に育てた覚えはない。 手塩にかけてきた今までが台無しだ』って」

「なんだって!」

 俺は途端に強い吐き気をもよおした。 二日酔いのせいじゃない。 いくらなんでも、親が言う台詞じゃないってことくらい、俺だって分かる。

「もう家に帰ってこなくていいって」

 そう静かに言う菜摘の横顔が、あろうことかかすかに微笑んでいた。

「仕方ないわ。 親の期待を裏切ったんだもの」

「だからってそんなの、ありえない! 実の娘だろ? 血がつながってるんだろ? そんなこと、親が言っていいわけないだろうが!」

 菜摘は、ちらりと俺を見た。 その瞳に、俺はあらぬ予感を感じた。 感じてはいけない予感だと直感していた。

「まさか?」

 菜摘は肩をすくめて小さく笑った。

「孤児だった私を引き取って、ここまで育ててくれたことにはとても感謝してる。 その恩をこんな形で踏み躙られて、そりゃあ気分が良いわけないわ。 他人の子に、何千という大金をつぎ込んだんですもの」

 菜摘はふうっと一気に息を吐くと、勢いよく立ち上がった。 そして、俺に振り返ると、深々と頭を垂れた。

「黙っていて、ごめんなさい」

 俺は小さな菜摘の頭を見つめながら、ひとつの思いが固まった。 無言で立ち上がると、菜摘の手を取った。

「行こう」

「えっ?」

 困惑する菜摘に、微笑んだ。

「抗議する。 いくらなんでも、ありえねえ。 俺には到底許せないよ。 なんで菜摘がこんなに苦しまなくちゃいけないんだよ? おかしいだろ!」

「私はいいの! 本当に、終わったことだから」

「終わってないよ」

 俺は菜摘を見つめた。

「終わったことなら、なんで隠す必要があるんだよ? キミはまだ引きずってる。 このままじゃ、死ぬまでずっと心に傷を負ったままだ。 そんなの、キミが良くても俺が嫌だ!」

「涼太くん……」

 菜摘は戸惑った顔で俺を見つめていたが、やがてあきれたように微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ