泥酔明けの味噌汁
菜摘の部屋は、香水だか柔軟剤だかのいい匂いがした。
肌ざわりの良いラグマットに座り込んで、ガラスのローテーブルに突っ伏している俺の前に、小さな音を立ててグラスが置かれた。
「とりあえず、お水を」
静かに言って、菜摘は俺の怪我を手当てし始めた。 もう抵抗する気力なんてなかった。 酔いと貧血と良い香りで、頭がずっとぼんやりしていた。 傷口に消毒液を垂らした時に、顔をしかめたくらいだ。
「はい、これでもう大丈夫」
そっと手を離して、菜摘は俺の様子を眺めていたが、やがて微動だにしない俺の肩にブランケットをかけると、席を外した。 次第に体を包んでいく温もりに気持ちが良くなって、俺はいつの間にか眠りについていた。
意識が戻りかけ、ぼんやりした中で、なにやら美味しそうな匂いがした。
『味噌汁……』
家族と住み、味噌汁なんて毎朝のように飲んでいるくせに、どこか懐かしささえ覚える匂いに、ゆっくりと目を開けた。
「あれ、ここは……?」
耳に届いた自分の声は、声と言うよりは、枯れた木の葉が揺れたようなかすれた息だった。 と同時に激しい頭痛に襲われて、思わずうなり声をあげた。 体にかけられていた毛布がずり落ちて、いい匂いがした。 その拍子に、俺は今どこに居るのかを思い出した。
「大丈夫?」
遠くから声がした。 小走りに駆け寄ってきた菜摘は、俺の前に水を差し出した。
「とりあえず飲んで」
素直に受け取った俺は、それを一気に飲み干した。 冷たい感触が、喉を伝って胃に入り、頭の方まで染み渡るようだった。
「はあぁっ!」
大きく息をつく俺に、菜摘は安心したように笑顔をみせた。 俺はさっきよりもはっきりし始めた意識に起こされて、とたんに恥ずかしくなった。
「ご、ごめん! 邪魔した!」
慌てて立ち上がると、再び頭痛に襲われた。 こめかみを押さえながらへたりこむ俺に、菜摘は
「落ち着くまでここにいたらいいから」
と優しく言った。 俺は小さく首を振って
「そういうわけにはいかないだろ。 大丈夫。 帰れるから」
と、膝を立てた。 その腕をつかんだ菜摘は、落ち着いた声で言った。
「じゃあせめて、朝ごはん食べてください」
「え……」
「二日酔いには、お味噌汁が効くって、どこかで聞いたことがあるの」
言いながら、菜摘は手際よくテーブルに朝食の用意を始めた。 さすが元主婦。 動きに無駄が無い。
『エプロン姿も可愛いな……』
と、ソファにもたれたままぼんやりと菜摘を眺めている間に、テーブルの上には、湯気の立ったできたての料理が並んだ。
「さ、どうぞ」
「……いただきます」
俺はもう断ることも出来ず、箸に手を付けた。 そして味噌汁に口を付けた途端、言いようの無い懐かしさが込み上げた。
「うま!」
思わず口にして、はっと顔を上げると、心配そうに見守る菜摘と目が合った。
「美味い!」
もう一度改めて言うと、菜摘はホッとしたように微笑んだ。
「良かった。 口に合わなかったらどうしようかと思ってた」
「これが美味くないわけないよ! すごく美味しい!」
二日酔いの身体に染み渡るような温もりとだしの風味が、俺の心まで溶かしていくようだった。 お嬢様育ちなのに、ちゃんと料理ができるんだな。
「ごちそうさま」
一息ついた俺は、もう一眠り出来そうな気がしたが、改めて立ち上がった。
「もう帰るの?」
菜摘がカウンターキッチンの向こうから顔をのぞかせた。
「迷惑かけてごめん。 傷の手当てとか、飯とか、あと……」
俺は、視線を泳がせながら昨日のことを思い出した。
「ひどいことを言ってしまったと、思ってる」
まだぼんやりしている額を押さえながら、ため息を落とした。
「最低な男だな、ホント……自分でも嫌になるよ」
自虐を込めた苦笑いをして、俺は玄関へと向かった。
もう菜摘とは会えないな。 こんな醜態を晒してしまったんだし、彼女も俺のことを軽蔑しているに違いない。
ドアノブに手を掛けた俺の体が、不意に優しい感触に包まれた。
「菜摘……?」
俺は、驚いて下を見た。 俺の腰に、後ろから菜摘の腕が絡み付いていた。
「ごめんなさい」
背中に、かすかな吐息がかかるのが分かった。
「な、なんで謝るの?」
戸惑いながら、見えない後ろの菜摘へ振り向いた。 菜摘の腕に力がこもった。
「私の、せい?」
菜摘の声が震えている。
『どうして?』
俺は菜摘の腕に触れて拘束を取ると、向かい合って両肩を掴んだ。
「どうして菜摘が謝るんだよ? キミは悪くない。 悪いのは――」
菜摘は激しく首を横に振った。
「黙って……いたの……」
「えっ?」
菜摘は涙の滲んだ瞳で俺を見上げた。
「私……まだ全部話してない。 でもそれは、誰にも言ってないこと。 これは、私が背負った運命だから。 でも……」
「菜摘……?」
俺は菜摘の肩を抱くと、部屋に戻ってソファに座らせた。
「菜摘、聞かせて。 俺、全部聞きたい。 菜摘のこと、知りたい」
「でも……」
「その荷物をさ、俺にも預けて」
菜摘に向かい合った俺は、驚くほど自然な笑顔だった。 一度ふられたとはいえ、やっぱり俺は、菜摘を助けてやりたい。
やがて菜摘の怯えるような瞳に、少しだけ落ち着きが戻ってきた気がした。 そして、次第にじんわりと涙があふれ出すと、崩れ落ちるようにうずくまって嗚咽を洩らし始めた。
「私……本当は逃げ出して来たの。 自分の生き方が、私が望むものではないと思い始めたのと同じ頃、病院の検診で異常が見つかって……」
菜摘は時々しゃくりあげながら、ゆっくりと話し始めた。
「結婚してから一年、なかなか子供が出来なくて、診てもらったの。 そうしたら、私の体は、子供が出来ない体だってことが分かった。 もともとそういう体だったのか、小さい頃に何かあったのか、原因は分からなかった。 でも夫や向こうの家族は、原因なんてどうでもよかった。 ただ、子供が産めないという事実だけを受けとめた」
菜摘の声が静かに流れる。 俺の頭の中に、自分で想像できうる最大限の風景を思い浮かべながら、菜摘の話を聞き続けた。
「私は家族たちの理解も得られないまま、同じ屋根の下に住み続けることは出来なかった。 だから……」
「家を出たっていうわけか?」
俺の言葉に、菜摘は頷いた。
「菜摘の親は、何もしてくれなかったのか? その話、したんだろ?」
菜摘は数秒の沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「『そんな娘に育てた覚えはない。 手塩にかけてきた今までが台無しだ』って」
「なんだって!」
俺は途端に強い吐き気をもよおした。 二日酔いのせいじゃない。 いくらなんでも、親が言う台詞じゃないってことくらい、俺だって分かる。
「もう家に帰ってこなくていいって」
そう静かに言う菜摘の横顔が、あろうことかかすかに微笑んでいた。
「仕方ないわ。 親の期待を裏切ったんだもの」
「だからってそんなの、ありえない! 実の娘だろ? 血がつながってるんだろ? そんなこと、親が言っていいわけないだろうが!」
菜摘は、ちらりと俺を見た。 その瞳に、俺はあらぬ予感を感じた。 感じてはいけない予感だと直感していた。
「まさか?」
菜摘は肩をすくめて小さく笑った。
「孤児だった私を引き取って、ここまで育ててくれたことにはとても感謝してる。 その恩をこんな形で踏み躙られて、そりゃあ気分が良いわけないわ。 他人の子に、何千という大金をつぎ込んだんですもの」
菜摘はふうっと一気に息を吐くと、勢いよく立ち上がった。 そして、俺に振り返ると、深々と頭を垂れた。
「黙っていて、ごめんなさい」
俺は小さな菜摘の頭を見つめながら、ひとつの思いが固まった。 無言で立ち上がると、菜摘の手を取った。
「行こう」
「えっ?」
困惑する菜摘に、微笑んだ。
「抗議する。 いくらなんでも、ありえねえ。 俺には到底許せないよ。 なんで菜摘がこんなに苦しまなくちゃいけないんだよ? おかしいだろ!」
「私はいいの! 本当に、終わったことだから」
「終わってないよ」
俺は菜摘を見つめた。
「終わったことなら、なんで隠す必要があるんだよ? キミはまだ引きずってる。 このままじゃ、死ぬまでずっと心に傷を負ったままだ。 そんなの、キミが良くても俺が嫌だ!」
「涼太くん……」
菜摘は戸惑った顔で俺を見つめていたが、やがてあきれたように微笑んだ。




