堕ちるところまで堕ちて……
覚悟はしていた。
まぁ所詮、海外旅行ひとつもしたことがない中流家庭の遊び人だ。 世界を知っているお嬢様とは生きている次元が違うんだ。 菜摘が「ごめんね」と言った途端、俺は
「やっぱりかぁ~~! だろうなぁとは思ったんだ! まぁ仕方ないな!」
と弾けるように笑ってみせた。 菜摘は申し訳なさそうに何か言いかけたが、俺は気付かないふりをしてそのテンションのまま、言いくるめるようにして彼女を家まで送った。
それでも思いのほかショックを受けた俺は、いつもの店のいつもの席で、いつもの酒を飲んでいた。
いつもと違ったのは、その量くらいだ。 静かに揺れる暖色の灯りの下で、黙々とグラスを空にした。
「もう、そのくらいにしておいたら?」
やっとマスターが声をかけてきた。
誰でもいい。 心配して欲しかった。 俺のいつもと違う空気に、いつもなら放っておくマスターも気にしてくれると、心の隅で期待していた。
「飲まなきゃやってられねぇんだよ」
答えてはみたものの、酒で喉が焼けつき、空気の抜けたカスカスの声だった。 マスターは小さく息を吐くと
「そろそろ時間ですよ」
と言った。
『なんだ、仕事の話か。 容赦もへったくれも無いな』
俺は黙っていた。 こんな酔っぱらいが、弾けるわけないだろ? 弾く気にもなれない。 プロ失格だと言われても、クビだといわれても、仕方ない。 無視をしたままグラスの中の氷を見つめる俺の前に、ウィスキーのボトルが静かに置かれ、マスターはカウンターを出ていった。 ギターを持ってきて無理矢理弾かせる気か? でもアレは昨日のままで、弦が切れているはずだ。
『まぁいいや。 俺には関係ない』
酒臭いであろう息を大きく吐き、手酌でボトルの中のウィスキーをグラスに注いだ。 その時だった。 ギターの音色が響いてきたのは。
「えっ?」
思わず振り向いた俺の目に映ったのは、いつも俺が立っている小さなステージにマスターがいて、俺のギターを演奏している姿だった。 切れているはずの弦が、何事も無かったかのように綺麗に張られている。
マスターの長い指が弦をまさぐり、穏やかで深い音を奏でている。 音は小さな店内に響き渡り、客たちが聞き惚れているのが後ろの方からでも分かった。 マスターは目を瞑ったまま、好きなように演奏しているようだった。 とても楽しそうに、時折頬をゆるませながら、カウンターの向こうに立っている姿からは見たことのないような、神秘的で壮大な雰囲気を醸し出していた。
「マスターの演奏、初めて聞いた……」
思わず呟いていた。 心にズンズンと染み込んでくる音色が、俺の脳髄にまで刺激を与えた。 頬に違和感を感じて指を這わせた。 指先がキラリと光った。
泣いていた。
俺は、マスターには適わない。 そう思い知らされた。 俺はポケットの中の今ある全財産をカウンターに置き、店を出た。
「最低だな」
足元もおぼつかないまま、酔いだか眠気だか分からないぼんやりした頭を揺らし、俺は商店街をふらふらと歩いていた。 まだ人通りがちらほらとある中を、まるで夢遊病者のように。 ふと小路に視線をやると、奥まった暗がりに揺れるものが見えた。
「幽霊かぁ? まさかなぁ」
なんの気なしに、俺の足がそっちへと向かう。 幽霊なら、あっちの世界へ連れていってもらおうかな? どうせこんな最低な自分を引き止める奴なんていないだろ。 ふらふらと小路の入口に差し掛かったところで、俺の足が止まった。
焦点の定まらない俺の目が、一瞬だけはっきりと見開いた。
小路の奥まった暗がりにいたのは、菜摘だった。 それともう一人、男のようだった。
『ようだった』というのは、そいつは髪の毛が肩辺りまであって、まるでつまようじのように細い体つきをしていたからだ。 一見女のようにも見えたが、腰に垂れ下がったチェーン飾りは、あまり女は付けないものだ。
『それに女は、あまり女に迫ったりしない!』
そう思いながら、俺は二人に足早に近づいていた。 そして菜摘を壁ぎわに追い詰めて何か話しているそいつの腕をつかんだ。 案の定、骨と皮しかなさそうな細い二の腕だった。
「うわあっ! なんだよ、てめえは!」
慌てて振り払い、後退りするそいつは、やっぱり男だった。 こけた頬に窪んだ両目。 なのに手入れの行き届いた眉毛とさらさらヘアーに、無性にイラついた。
「ホストか」
「涼太くん?」
震えがちな菜摘の声が耳に届いた。 俺は菜摘を見た。 そして
「なんだ。 菜摘、こういう奴がタイプなんだ? お楽しみのところを邪魔して、悪かったな!」
と恨み節を放った。
「涼太くん……どうしてこんなところに?」
「そんなこと、俺が知るわけないだろ! あんたこそ、なんでこんなところに居るんだよ!」
驚いている菜摘に突っ掛かるように反論する俺。 ただ頭に血が上って、何を言っているのか分からなくなっていた。 するとホストは
「なんだか面倒なことになりそうだから、僕はこれで失礼するよ」
と、そそくさと走り去って行った。
「ふんっ!」
鼻を鳴らして振り返った拍子に、足元が崩れて壁に寄り掛かってしまった。 いきなり大声を出したので、身体中が貧血のように力をなくしていた。 へたりこんだ俺のそばに、菜摘が駆け寄ってきた。
「涼太くん! 大丈夫?」
顔を覗き込む菜摘から視線を外し、黙り込んだ。 何も言葉が出てこないのだ。 ぼんやりした頭の中でも、たった今彼女にひどいことを言った自覚はある。 菜摘が、息を呑んだ様子で俺の左手をつかんだ。
「大変! 怪我をしてる!」
ふらついた時にどこかで切ったのだろう。 手の平に数センチの切り傷があり、血が滴れているのが見えた。
「手当てしなきゃ!」
菜摘は慌てて自分のハンカチを帯状に畳むと、俺の左手に巻き付け始めた。
「やめろよ! いいよ、こんなことしなくても!」
俺は腕に力を入れて振り払おうとしたが、菜摘が必死でしがみついてきた。
「ダメよ! 涼太くんの商売道具でしょう? ばい菌が入って膿んだりしたら大変――」
「もう弾かねえ!」
「えっ?」
菜摘の手が止まり、瞳が見開かれた。
「どうして?」
菜摘の声が震えた。 耐えられなくなって、まっすぐな瞳から目を逸らした。
「もういいんだ」
話すのが億劫だった。 ここで菜摘に話したところで、どうなるわけでもない。
「そういうことだから、放っておいてくれ!」
そう言いながら立ち上がろうとする俺を、菜摘が勢いよく引っ張ったので、再び俺は尻もちをつくように座り込む羽目になった。 痛む尻に顔をしかめて、菜摘に怒った。
「何するんだよ!」
「ダメ!」
菜摘はそれだけ言うと、唇を噛んで俺の左手に改めてハンカチを巻いて応急措置をした。 そしてその手をつかんだまま立ち上がると
「来て!」
と引っ張った。 傷口が圧迫されて頭に刺激が刺さった。
「いてえな!」
俺の悲鳴を無視して、菜摘は俺の重い身体をひきずるように、無理矢理に路地から連れ出した。




