告白
自然に繋いでいた。
柔らかい菜摘の手は、ほんのりと温かかった。 その手を放すと同時に、菜摘は俺を追い抜いて走りだした。
「わあぁ!」
その向こうには、港に面した小さな公園があった。 俺は女の子をナンパすると、たいていここに連れてくる。 そうすると、大半はその夜もオッケーなんだ。 でも今日はそんな気分ではなかった。 ただ単純に、菜摘にこの風景を見せたかったんだ。 目の前に浮かぶ船の、煌びやかに装飾された灯りに目を奪われて静かに見とれている菜摘の背中が、その海に飲み込まれそうにか弱く見えて、俺は思わず立ち止まってさっきの感触を思い出していた。 勢いというか、もはや無意識に抱き締めた菜摘の体は、あの時、少し力を入れれば簡単に折れそうなほど抵抗なくこの腕に収まった。
「すごく素敵な所ね!」
透き通った明るい菜摘の声に、俺の胸が高鳴る。 少し震えている足を前に出して、俺は菜摘の隣に並んだ。
「俺のとっておきの場所なんだ」
「今までに、たくさんの女の子を連れてきたのね?」
菜摘はそうからかうように言いながら、海に面したフェンスに細く白い腕を乗せて、目の前に広がる夜景を見つめた。 その横顔はとても穏やかで、落ち着いている様子だった。 俺は落ち着かない鼓動に戸惑いながら、ゆっくりと話し始めた。
「あの、さ、さっきは、ほんと、成り行きっていうか、勢いっていうか……」
「もういいわよ。 別に怒っていないわ」
菜摘は俺を見て微笑んだ。 本当に気にしていないのか、その微笑みの向こう側が、俺には見えなかった。
「いつもなら、もっといけるのにな……」
俺はあえて口に出した。
「なんか、調子狂うんだ。 なんでだろう?」
菜摘は、不思議そうに俺の呟きを聴いていた。
「第一、キミはなんなんだ? 何故そんなにも威圧感があるんだ? 口調がきついわけでもない。 何を話したわけでもない。 弱みを握られているわけでもない。 なのに何故、キミは俺の勢いを止めてしまうんだ?」
一体俺は何を言ってるんだ? 止まらない俺の呟きにストップをかけたのは、菜摘だった。
「涼太くん、落ち着いて」
その言葉は、静かだがはっきりと俺の心に突き刺さった。
「私、あなたが何を言いたいのか分かるわ。 色々と聞きたいんでしょう? 私のこと」
「……そう」
その時俺はやっと、本当の事を言えた。
「聞きたいことがたくさんある。 菜摘のこと、もっと知りたい」
その時、菜摘の指先が伸びてきて、俺の頬に触れた。 気がつかない間に、涙が零れていた。 何故だか分からない。 俺はわけも分からずに、菜摘が拭き取る涙の行方を追った。 菜摘は、指先に光る俺の涙を見つめながら
「気を遣わなくていいわ」
と呟いた。
「俺、菜摘が背負っているものが見当もつかなくて、だって、世界の人だし、離婚、とか、俺には知らない世界ばかりだし」
まるで子供だった。 どうしたらいいのか分からなかったものが、今一気に吐き出されていく。 嗚咽のように、片言の言葉でしか気持ちを伝えられないのが、無性にもどかしい。
菜摘は俺を見上げて微笑んだ。
「私は、自分のしたいことをしようと思ってる」
「菜摘?」
「ずっと我慢してきたの。 物心付いたときには、すでにピアノを始めてた。 私はいつも、外で同じくらいの歳の子達が走り回って遊んでいるのを、指をくわえて見てた。 年頃になると、勉強よりもピアノ。 そのうちに世界中を飛び回ることになって、自分の自由な時間なんて無かった。 おしゃれや恋や、友達と喋りながらお茶をするとか、私には許されなかったの」
俺は、海を見つめながら話し続ける菜摘の横顔を見ているしかなかった。
「結婚にしてもそう。 今どき親が決めた結婚なんて時代遅れだっていうのに。 親同士が仲が良いってだけで、決められた相手を好きになんてなれるわけないし。 それでもずっと自分の気持ちを押し殺してきたわ。 そういうものだって、教えられてきたから。 でも、周りの人たちからいろんな話を聞くうちに、こんな人生は嫌だって思った」
菜摘は背筋を伸ばして深呼吸した。
「だから、一世一代の反抗! 時間を盗んでもらってきた離婚届けに書くだけ書いて、家を飛び出したの」
「ずいぶん思い切ったことをしたんだな」
「そうでもしなきゃ、言いくるめられるのは分かってたから」
菜摘は少し肩をすくめて、苦笑した。
そうか、時々感じる子供っぽさは、世間を知らない所からにじみ出ているからなんだ。 でも実際は、親のエゴにもまれて押しつぶされそうになりながら必死で生きてきたんだ。 俺は、菜摘の話が一段落したところで息をついた。
「びっくりした?」
「そうだね。 やっぱり、俺の知らない世界ばかりだ」
「それまでの貯金を崩しながら、誰も私のことを知らない街に住んで。 仕事を見つけて普通の女性としてやり直そうとした。 でも、友達は作れなかったわ。 人を信じることが怖かったから。 またあの生活に戻されたらって思うと、誰にも本当のことを言えなかった。 だけどそのうち、やっぱり人恋しくなって……そんな時、あの店を偶然見つけたの」
「そうだったのか」
菜摘は頷いた。 そして俺を見つめた。
「そこであなたが演奏する姿を見て、私は自分のしてきたことを後悔したの」
「えっ? なんで?」
「あなたが、とても楽しそうに演奏するからよ」
「俺が?」
菜摘は一度目を伏せて、また海を見つめた。
「ただひたすらに楽譜を追って弾けば、皆が拍手をしてくれた。 何も楽しいと思わなかった。 あなたのように笑顔で演奏するなんて、考えられなかったわ。 高額なチケットを買って来てくれた人たちに、私はとんでもないことをしてたのね」
「もう、弾かないの?」
「ええ」
菜摘は、とても簡単に返事をした。 まるで、すでに答えはそう決まっているかのように、当たり前の雰囲気さえ感じさせた。 俺は、自分の両手を見つめた。
『楽しそうに……か』
「確かに楽しいよ。 でも最初のうちは、自分のテンションについてこれない客を無理矢理乗らせてたりしたもんな。 おかげでブーイングされたり、帰られたり。 マスターに散々迷惑もかけた。 いろいろ、勉強したよ」
「そう」
菜摘は小さく笑った。
「マスター、涼太くんのことをすごく誉めるのよ」
「マスターが?」
「多分マスターは、あなたには絶対言わないだろうけど、涼太くんの才能は手放したくないんですって。 本当なら、僕だけの前で演奏してもらいたいくらい、なんですって」
菜摘は、言ってはいけないことを言ってしまったと指先で口を押え、肩をすくめた。
「マスターが、ねえ?」
俺は、照れ隠しに髪の毛を掻き上げた。
どうもあのマスターは胡散臭いところがあるくせに、どこか心許せるところもあり、そんな居心地の良さに、もうしばらくあの店でやっかいになっているわけだが、いざそんなことを言われるとなんだかこそばゆい。
菜摘はフェンスから離れた。
「もうお店には戻らないの?」
「あ、あぁ。 ま、今日は仕方ないってマスターも許してくれるだろ」
「そうかしら?」
菜摘はまた笑った。 俺は、どうしても不安になってきていた。
「菜摘は、さ……」
「何?」
顔をのぞくように見上げる菜摘の視線から逃れたくて、目が泳いだ。
「マスターと、は、どこまでいってんの?」
「うん? どこまでって?」
きょとんとした顔でいる菜摘に、俺はその説明にかなりの精神力を費やすことになった。
「だから、さ、マスターと、いつもどんなことを話してるのかなぁ、なんて」
やっぱり、本当に聞きたいことから離れていく。
「いや、あのさ、別に変な意味じゃなくて、たまには外で会ったり、してるのかなぁって」
声が震えるのをこらえながら話す俺を見つめる菜摘の眼差しが、柔らかくなった。
「気になる?」
「いや、えっと……うん」
この際だから、正直になることにした。もう、野となれ、山となれだ!
「俺、菜摘が好きだから」
菜摘は口をつぐんだ。 そしてふっと視線を海に投げたあと静かに言った。
「ごめんね」




