地獄に落ちろ
コメディにしようと思ったら、やっぱりホラーになっていました。一話目で話としては完結しているんですが、二話目で謎だった部分が補完される予定です。いろいろグロいです。ご注意ください。
「一号棟の三階にある、開かずの間って、地獄に続いてるんだって」
そういう噂が、僕の中学にはある。馬鹿げた怪談話だと思う。
確かに一号棟の三階に鍵を掛けたまま放置されている教室があるが、たんに鍵がどこかへいってしまっただけで、十年くらい前は普通に使っていたと、あっさり担任がホームルームで教えてくれた。
というより、どうでもいいんだ怪談話なんて。怪談なんて、夏季限定で盛り上がるだけじゃないか。
十二月の今、僕はとても忙しい。なんたって、受験生なのだから。
名門N高合格。それが今の僕の目標だ。
両親も口には出さないが僕にはとても期待していて、その証拠に僕の受験のためなら投資を惜しまない。一流塾に通わせてくれ、勉強のために必要なものはなんでもそろえてくれる。勉強の邪魔は絶対にしない。
とにかくN高合格が輝かしい未来のための第一歩なんだ。僕の家は一般の中流家庭だから、小学校から私立には通えない。中学も同様だ。だけど天下の偏差値を誇るN高に入りさえすれば、一流大学への道が開かれる。一流大学に入れば、一流企業への道が開かれるというわけさ。なんと単純明快な公式だろう!
そう、単純だからこそここで失敗するわけにはいかないのだ。いまここで遊んだり、下らないことに熱中したりして、あとで後悔しても遅い。僕のクラスにはそれがわからない愚かな連中がたくさんいるが、結局彼らは僕と違って一生兵隊で終わる運命、それだけの人間だということだ。
まったく、学校にいる時間がもったいないなあ。凡人にあわせて勉強しているヒマは僕にはないんだよ。学校が終わったらそのまま塾に直行して、特進コース(少人数制)で四時間みっちり勉強して、家に帰ったら夕飯のあとに塾の復習をして、そのあと予習して……。
「篠崎、HR中は音楽を聞くんじゃないと、何度言ったら分かるんだ」
僕がそんなことを考えていると、帰りのHR中である担任は、突然教室の隅に向かって怒鳴った。ああ、またあの馬鹿だ。
「聞いているのか、篠崎」
「へいへい」
篠崎と呼ばれた生徒は、窓際の一番後ろという不良の定位置に、だらしなく軟体動物のように着席し、けだるそうに答えた。僕はいらいらした。このHRがはやく終わればそれだけはやく塾へ向かえるのに。塾が始まる前に講師に聞きたいことが山ほどあるから、一分一秒でもはやく塾に行きたい。そんな僕の思いをよそに、篠崎は、ネクタイを緩めに結び、足を机の上に投げ出して、椅子を傾けてバランスをとって座っていた。そのまますっ転べと僕は念じた。
結局篠崎に対する先生の小言でHRは通常よりも長引いた。なんということだ、十二分の時間を無駄にしてしまった! 数学の証明問題がこの間に一問は解けるはずだ。篠崎め、僕の勉強時間を奪いやがって!
「おい、睨むなよ」
帰り際、篠崎は僕の行く手を阻むように立ちはだかり、わけのわからない難癖をつけてきた。
「おいガリ勉、なんだってさっきはオレのほう睨んでいやがったんだ? ガンつけてんじゃねえよ」
僕は無言。こんな奴の相手をするのは馬鹿馬鹿しい。
「おい、なんとか言えよ、この陰気野郎が。おいっ聞いてんのか」
こいつは「おい」しか言えないのだろうか。生活態度が乱れてだらしがなく、その上ボキャブラリーが貧困と、程度の低さもここまでくると救いようがないというものだ。
僕はあきれてものも言えないので、篠崎の脇をすり抜けて教室を出ようとした。すると、篠崎は素早く僕に足をかけてきて、僕は顔面を打ちつける格好でべしゃりと転んでしまった。
「あはははは! だっせえ、なにこいつ、カエルみたいにのびてやがる。ガリ勉く~ん、もうちょっと反射神経をなんとかしたほうがいいんじゃないですか~、あったらの話ですけど~」
床にうつぶせている僕には周りの様子は見えなかったが、クラスのみんなの視線が後頭部に嫌というほど突き刺さっているのが感じられた。そして篠崎ブラス篠崎の低レベル仲間一行の嘲笑がふりそそぐ。
「いつまでそうしてんだよ、ガリ勉! 」
「立ち上がり方を忘れたのかな~? 」
「おべんきょばっかしてるからだよ」
ああ、塾に遅れる。ただでさえHRが伸びて時間を無駄にしたというのに、またしても、こいつのせいで。こいつは僕の邪魔をする。どうせろくに将来のことも考えていない馬鹿のくせに。馬鹿のくせに!
僕はよろけながらなんとか立ち上がり、そのまま後ろを見ずに教室を出た。あんな奴らと話す価値などない。僕は塾に行かなければならないのだから。
喉と鼻に違和感があると思ったら、鼻血が大量にでていた。手は血でべとべと、学生服は汚れ、頭はふらついている。ああ、くそっ。なにもかも、あいつのせいだ。
ひどい有様になっているだろうが、もうどうでもいい。塾に行ってから洗おう。塾に遅れるわけにはいかない。
僕は頭を切り替えて、昇降口に向かった。今日塾でやる予定の範囲を頭の中で確認する。今日やる分は昨日きちんと予習してあるから、完璧だ。自然と自信の笑みを浮かべて、意識を目の前に戻す。
そこで思わずぎょっとした。僕は昇降口に向かっていたはずなのに、まったく違う場所にいたからだ。 どうやらここは三階の廊下のようだった。しかも、特別教室が多いということは、一号棟の三階だ。
一号棟? 三階?
僕のクラスは二号棟の二階だ。僕はいつ渡り廊下を渡った? 階段を上がった? 記憶にない。僕はただ、自分のクラスの昇降口に向かって、下に階段を下りて行ったつもりだったのに。
頭がふらふらしていたし、塾のことを考えていたからかな、僕としたことが、つまらないミスをしてしまった。
そう思って、引き返そうとした。そのとき、
開かずの間が、開いてる……。
「開かずの間」と呼ばれている教室は、階段を上がって左側一番奥、非常口手前にある。他の教室のように引き戸ではなくて、ドアノブを回して手前に開けるドアで、それがたった一つの入り口だ。その入り口は、今現在鍵の紛失により閉ざされたままになっているはずだ。しかし、そのドアが、なんと開いているのだ。
僕は無意識に息を止めていたようで、自分を落ち着かせるように、ゆっくりとそれを吐きだした。もう一つ息を吸って、吐く。僕はそのまま開かずの間のほうへ向かった。
塾の時間に間に合わないというのに、なぜこんな行動を自分自身がとったのか、よくわからない。あえて言うならドアが僕を呼んだ、とでも言おうか。行かなきゃならない気がした。
ドアノブの近くに立つと、手前に開かれたドアの隙間から中が見えた。赤かった。赤いものが見える。
(なんだ、この部屋)
そっと顔を近づけて、中を覗く。
僕は息を飲み、固まった。
中は部屋ではなく、屋外だったのだ。しかも全く見たことがない場所。
乾燥してひび割れた大地はあかあかとして、ところどころに岩が突き出している。まさに不毛な地といったところだ。空の色が自然界にはありえないような紫色なのにも驚いたが、一番驚いたのは十メートルほど先の凄惨な光景だった。
人が串刺しにされている!
焼きとりみたいに、何人かの人間が、裸の姿で並んで串に貫かれ、ぶらんぶらんしていた。串の両側を肩に担いでいるのは……鬼だ! 紛れもない、頭や額から角が生えた鬼だ。青鬼が前を、赤鬼が後ろを担ぎ、どこかへぶらんぶらんさせながら連れて行く。
その横ではこれまた何人もの人間が、大鍋で煮込まれていた。釜ゆでというやつだ。釜は湯気が立ち上り、当然ながら中の人間は熱さでもがき苦しんでいる。それを一つ目の鬼が、鍋をかきまわしながら笑って見ているのだ。
その他にも、鉄球に潰されてぺしゃんこにされる人、四方に引き裂かれる人、氷漬けにされる人などで、そのあたりから先は埋め尽くされていた。
僕は胃の中のものを吐かないように精いっぱい努力しながら、この光景を凝視していた。これは、まさに地獄絵図だ。小さいころ、母親に読み聞かせてもらった絵本と同じ、地獄だ。地獄の責め苦は終わらない。串に刺された人も、釜ゆでにされた人も、苦しむけど死ぬ気配はない(というか、普通なら即死だと思う)。潰されても、ぺしゃんこにされても、カチコチに凍らされても、時間が経つと元に戻る。そして、また同じ責め苦を受けるのだ。その繰り返し。
いよいよ気持ち悪さが限界に達して、僕はその場を這うようにして離れた。足が震えて力が入らなかった。膝をつき、そのまま倒れこむ。意識が遠のいてゆく。
目が覚めると、僕は保健室のベッドの上にいた。僕はあのまま倒れたのか。その後誰かが僕をここまで運んでくれたのだろうか。なにも思いだせない。
保健室の先生は留守みたいで、しいんとしている。僕は塾のことをはたと思い出すと、急いで上履きを履いた。そして、立ち上がりかけてぎくりとした。隣のベッドとを仕切るカーテンが半分開いていて、その先にベッドに寝転ぶ篠崎がいたからだ。篠崎は起きていた。寝転びながら何かを読んでいる。それには見覚えがあった。僕が二学期のテストのために時間をかけて、一生懸命つくった、二百ページにも及ぶ、要点早分かりノートファイルだ。
僕が呆然として立ちつくしていると、篠崎がこちらに視線を向けた。
「うわっ、びっくりした。なんだよガリ勉、起きてたのかよ。起きてんならなんか言えよ」
心底驚いたように、胸をさする。そして僕の視線に気づいたのか、
「あ、このファイル? わりい、気になったもんでちょっと拝借」
悪いなどとまるで思っていない口調でそう言った。気になったってなんだ? 育ちが悪い人間は、人の鞄を勝手に見ないという最低限のマナーも知らないのか。
「だけどよお、これって意味あんの? 要点早分かりって、これじゃ要点じゃねえよ。教科書とかネットで検索したほうがはやくね? これ作んのに、一体どんだけ時間かけてんだよ」
ファイルを閉じて、僕に差出しながらこの馬鹿は笑い転げていた。僕は素早くファイルを奪うとベッドの脇に置いてあった鞄を手に保健室を出た。
怒りで自分がどうにかなってしまいそうだった。ファイルを手荒く鞄につめると、僕は早足で昇降口へと向かった。一秒でもはやく、学校を出たかった。
塾にはかなり遅れたが、学校で倒れたことを講師に説明すると、お咎めなしだった。講師は教室で足を掛けられて転んだときの鼻血の跡に驚きつつ、「勉強のしすぎじゃないのか」と心配な顔をしたが、「今が頑張りどころですから」と僕は毅然と答えた。講師は力のこもった目を僕に向けて、そうだ、その意気だ、今の頑張りが未来を左右する、と力強く言った。
さすが特進コースの講師だ。よく分かっている。倒れたぐらいで弱音を吐いてはいられない。それに、倒れた原因は、勉強の疲労じゃない。そう、僕は地獄を見たんだ。本物の地獄を。
開かずの間の怪談話は本当だった。この僕が、この目で見たのだから間違いない。現実的に、とても信じられることではないと思うけれど、僕は見た。串刺しにされたり、釜ゆでにされている人たちを。
思いだしてまた気持ちが悪くなってきた。いけないいけない、授業に集中しなければ。そう思い、僕はさっそく「要点早分かりノートファイル」を開いた。
瞬間、僕の心臓は三秒ほど止まった。
なんと、ページは半分ほど破ったように抜き取られており、残った部分にも「バーカ」「ガリ勉」など稚拙な落書きがしてあったのだ! 僕の頭に僕を「ガリ勉」呼ばわりする篠崎がふとよぎった。あいつだ。あいつがあのとき保健室でやったんだ。僕は篠崎からファイルを取り返して、そのあとファイルを一切開かなかったから、中身に気がつかなかったんだ。
あのゴミめ。ゴミの分際で、僕の未来を邪魔しようというのか。僕はなんとしてでもN高に入らなければならない。じゃなきゃ僕の未来は真っ暗だ。それなのに。
塾を終えて家で勉強していても、僕の怒りは収まらなかった。思えば三年に上がり、篠崎と同じクラスになってから、ろくなことがない。奴は規則を守らないからいつもHR中担任に注意されて、クラスみんな無駄に帰りが遅くなる。ケンカで授業妨害、理科の実験の最中にふざけて火を出す、掃除、係の仕事をさぼる、態度だけは大きくて、威張ちらしている。そう、すべてが僕の癇に障る。
手に力が入っていたようで、シャープペンシルの芯が、ぽきりと折れた。芯を折ってしまうなど、筆圧の弱い僕には珍しいことだ。
あいつをどうにかしないと。
もしかしたら、やつは僕に目を付けたかもしれない。
退屈でマンネリ化した日々を、僕をいじめることで解消する。考えが浅く、幼稚でヒマな人間の思いつきそうなことではないか。毎日が忙しかったり、僕のように物事をよく考えることが出来る人間ならば、そんな馬鹿げた行動は起こさないはずだ。退屈なのは、努力をしないからだよ。怠けものは自分じゃ何の努力もしないくせに、毎日が退屈な不平不満を周りにぶちまけ、害を及ぼす。やつが愚かだろうが幼稚だろうが僕には関係ないが、巻き込まれるのはごめんだし、とばっちりを受けるなんて、うすら寒い思いだ。
篠崎は邪魔だ。というか、べつにいなくなっても誰も困らないだろう。篠崎など、いなくなってしまえばいいんだ。
そのためにはどうすればいい?
次の日の放課後、僕はまた「開かずの間」の前にいた。
今日一日はまるで録画の早送りのようだった。きちんと授業は受けたのだが、なんだか実感がない。まるで今この瞬間を迎えるために今までの時間が一応存在していたかのようだ。もしかしたら、今さら学校で習うことなど、僕には足し算引き算のようなものだから、そう思えるのかもしれない。きっとそうだ。
開かずの間は、僕にようこそ、とでも言っているかのように、真っ赤な口を今日も開けていた。
僕はためらいなく、呼ばれるように、中を覗く。昨日と同じ光景が広がっていた。
まさに地獄。
燃え盛る炎、終わることのない責め苦を受ける人々。
それをあざ笑う残忍な鬼たち。
不思議とドアは熱くもなんともなく、鬼たちはこちらに気づく気配もない。地獄側では切ったり潰したり叫んだりのさまざまな音が渦巻いていて、ドアにぴったり体をよせる僕にもその音は僅かに届いてくる。ただしドアから顔を離してしまうと、一切それらは何も聞こえなくなる。これではドアの外からは何も聞こえないだろう。つまりこのドアはこの世と地獄を完全に遮断しているのだ。このドアを超えて、一歩でも中に入ればこちらには戻ってこられない。なぜだかそう僕は確信する。向こうの鬼や人間がこちらにやって来る気配がまるでないように、こちらとあちらは完全に別の世界なのだ。まあ、拷問されている人間は、こっちに来る気力などないだろうが。
僕は拷問されている人間達に、篠崎の姿を重ねてみた。篠崎が、串刺しにされて、釜ゆでにされて、ひいひい泣き叫ぶ姿を思い浮かべると、胸の中に、じわりと甘い喜びがしみでてくる。
篠崎を地獄に落とせたら……。
「そんなところでなにやってんだよ、ガリ勉」
僕はこれ以上ないというぐらいの速さで振り返った。そこにはなんと当の本人、篠崎が立っていた。下品な笑いを浮かべている。
「なんで、ここに」
僕はやっと口を開く。
「あ、ガリ勉くん、口きけたんだ。おべんきょのしすぎで声の出し方忘れたのかと思ってたぜ。オレは、担任に、進路相談室に呼ばれたんだよ」
進路相談室は、確かに、同じ階の、階段をはさんで向こう側だ。
「来てみたら、ガリ勉くんが覗きみたいなことやってるから、オレも混ぜてもらおうと思ってさ。なあに覗いてんの? 誰か中で着替えてるとか? 」
(僕をお前のような矮小な人間と一緒にするなよ)
僕は心で毒づいた。
「おいおい、まただんまりかよ。ってか、その見下した目をやめてくんない? すっげムカつくんだけど」
(お前が僕をいらいらさせるんだ、ふざけるな)
「クラスで浮いてんのわかんねえの? もっとこうよ、心を開けよ。人生勉強だけじゃないだろ? 」
(こ、こいつ僕に説教する気か、身の程を知れ! お前のようなやつは害虫なんだ。億害あって、一利なしだ! )
「N高ごときに入るのに必死で、可哀想だよ」
(こいつ!! )
僕の中で何かが沸騰して、爆発しそうだった。
「んで? ガリ勉くん、何覗いてたわけ? オレにも見せろよ」
篠崎が僕を押しのけて、ドアの隙間を覗く。そしてあっと声を上げた。
「うわっ。なんだよ、これ。おい、マジかよ! 」
驚きと勢いで篠崎はドアを全開にした。目の前に地獄が広がる。篠崎は無防備な背中をさらしている。今、全力で中に押しこめば、篠崎は戻って来られない。地獄に閉じ込められる。チャンスは今しかない。
どうする?
いや、どうするとか迷ってる場合じゃない!
僕は肩で体当たりをするように、篠崎の背中をどんと押した。篠崎は驚いてつま先で踏ん張ったが、さらにもう一回、僕は篠崎に体当たりした。僕は無我夢中だった。失敗するわけにはいかない。篠崎の足が地獄へ一歩、また一歩入ったところで、僕は急いでドアを閉める。中から篠崎に抵抗されるかと思い、僕はドアをありったけの力で押さえた。だがその必要はなかった。閉めたドアは何の反応も示さず、こちらの世界とあちらの世界をしっかりと隔てていた。数秒後、何もしていないのに鍵をかけるような音が小さく、しかしはっきりした音で耳に響き、僕はドアから体を離した。
やった。
うまくいった。
気付けば僕は凄い汗を全身にかいていた。髪の毛が額にへばりつき、シャツや下着が濡れて気持ち悪い。仕方がない、家に帰って、着替えてから塾に行こう。
今ちょっとぐらい時間をロスしたっていいだろう。なんたって、もう僕を邪魔するものはいなくなったのだから。安心してこれからは受験勉強に打ち込める。N高が旗を振りながら(?)僕にエールを送っているのが見えるようだ。やった、やったぞ! やつを地獄に落としてやったぞ! 僕は満ち足りた気持ちと、これからの明るい未来への期待で胸をいっぱいにして、昇降口へ向かった。
その日塾では模擬テストが五科目行われた。
特進コースだけあって、なかなかやりがいのある問題だ。だけど、平日五時間、休日十二時間(塾の時間含まず)勉強している僕にとっては、楽勝だ。全ての問いを埋め、たっぷり時間をかけて答案を見直した。平均九十点以上は固いだろう。
スキップしたい気持ちを抑えて(さすがに恥ずかしいからね)かわりに、口笛を吹きながら帰宅した。
邪魔ものがいないってのはいいもんだ。今頃、篠崎は、地獄で鬼とよろしくやっているだろうが、もう僕にはどうでもいいことだ。さて、夕食の後は、今日の塾の復習と、明日の授業の予習をもうひと頑張りだ。ふふふ。
僕はその日のノルマを終えると、ふかふかの布団にくるまれて、心まで暖かくして眠った。
次の日篠崎は欠席だった。あたりまえである。僕が地獄に落としたのだから。
奴がいないので、HRはスムーズに進み、一時間目の英語の時間となった。若い女教師が、ハローエブリバディ! とあやうい発音で教室に入ってくる。
はっきり言って僕の方がうまい。僕は今こそ受験の方に専念しているが、幼稚園のころからずっと、英会話学校にも通っている。いまどき、英語くらいは話せないといけない。
そんなことを思っていると次のセンテンスを読むよう指名された。いつもは全員で先生のあとに続いて復唱するだけなのに、今回に限って、珍しいことだ。だけど、まあ、お望みとあらば、お安いご用さ。僕は静かに立ち上がり、姿勢を正し、完璧な発音で読みあげて見せた。
先生より上手くちゃ、ちょっと可哀想かな、いや、この教科書が簡単すぎるのさ。まるで絵本のようだ。僕の完璧なReadingに、クラスのみながあっけにとられている。そうだろう、完全なNativeの発音なんだからな。
僕がすべて読み終えて着席しようとすると、先生は言った。
「あなた、一体なにわけわからないこと言ってるの? 真面目に読みなさい」
続いて、クラス中がどっと笑いに包まれた。
な、なんだ? 何を言っているんだこの女教師は? 自分より僕の方が読むのが上手いからって、ケチをつける気か? それにしても、このクラスの反応は……。
「何だあ、今の、宇宙語か? 」
「マジ笑えるわ」
「火星人のものまねかよ~」
「静かに! こんな簡単なセンテンスも読めないなんて、串刺しの刑です! 」
女教師が僕の方に、狩りのときに使うような、自分の背丈以上ある長い槍のようなものを向け、そのまま突進してきた。
僕は突然の展開に体が動かなかった。僕の体にずぶりと槍が突き刺さり、僕は串刺しになった。
たとえようのない激しい痛みに僕は悲鳴を上げた。口から血がどんどん溢れてくる。息が出来ない。苦しい。
先生が、握った槍の柄を上下させる。僕の体を貫通している槍が同じように上下する。やめてくれ。僕はめちゃくちゃに喚いた。
「こんな簡単な英語が分からないなんて、このままじゃ、どこの高校も受からないわよ」
女教師は串刺し状態で泣き叫ぶ僕のことなどお構いなしに、今度は槍を刺したまま円を描くようにぐるぐる回しながらそう言い放った。「高校に受からない」その部分だけが、激痛の中明瞭に僕の耳に響いた。
なんだって……? うそだ、この僕が、うからない、なん、て。
意識が飛んだ。
気がつくと、僕は校庭のグラウンドを走っていた。
かなり前方に、ジャージ姿のクラスメイト達が同じように走っているのが見える。僕もジャージ姿だ。さっき腹部を貫通していた槍の傷は消えているが、たとえようのない苦痛の記憶が僕の精気を確実に奪っていた。
(ど、どうして僕は今走っているんだ? 体育の持久走? って、これって、僕はビリってことか? まあ、それは、いつものことだけど)
体育はN高の受験に何の関係もない。はっきり言って時間の無駄だ。僕はさっさとリタイヤしようと思って、先生を探した。しかし先生はおらず、かわりに背後からごろごろという鈍い音がして、僕は振り返った。球状の巨石が回転しながらものすごいスピードで僕に迫ってきていた。
「うわあああああああ」
僕はあっという間に巨石に轢かれ、ぺしゃんこになった。うつ伏せに倒れた僕の顔は地面にめり込み、内臓が潰れ、体がばらばらになる。それでもなぜか死なずに、体を痙攣させながら呻いていると、頭上からクラスメイト達の笑い声がした。
「だっせえ」
「あ~あ、もっと体力つけないと、どこも受からないぜ」
「クラス一の落ちこぼれだよ」
落ちこぼれ?
僕は普通科を受験するんだ。なんで体育がそんなに関係あるんだよ。脳みそが筋肉の人間に、落ちこぼれ呼ばわりされる覚えは、ない、ぞ……。そこでまた意識が途絶えた。
今度は給食の時間だった。
僕の目の前にはコッペパンと、春巻きと、酢豚が並んでいる。正直、どれもあまり好きじゃない。とくに酢豚のピーマンと、玉ねぎが、僕は大嫌いだ。
「あーっ、ガリ勉、給食残してる! 」
「ホントだ! いけないんだ」
突然クラスの誰かが叫んだ。ちょっと待て。まだ何も口にしていないじゃないか。
「給食残した奴は釜ゆで決定! 自分が給食になるんだぜ」
「釜ゆで、釜ゆで」
気付けば釜ゆでコールがクラス内で巻き起こっていた。いつの間にか教室の前には大きな鍋が用意されており、たっぷり入った湯が、ぶくぶくと音を立てて沸騰している。
(いつ登場したんだこの鍋!? )
そんな疑問を投げかけている間に、僕はとっととクラスメイト達に抱えられ、沸騰するお湯の中に「せえーの」で放り込まれた。
「ぎゃあああああああ、熱い熱い熱いいい」
僕は熱湯の中から必死に這い上がろうとしたが、ケラケラ笑い合うクラスメイト達に押さえつけられ、逆に沈められた。
「給食残すなんて、落第だよ、お前」
「こんなダメなやつ、はじめて見た」
「負け組」
(ま、負け組……ぼく、が……)
僕の意識は三度飛び、また場面が変わった。
僕が通っている塾だった。熱湯に入った形跡は跡形もなく消えていたが、体を痛めつけられたという事実と、言葉で罵られたショックは大きく、僕の頭はすでに朦朧としていた。
(ああ、なんなんだよこれは。苦しみが絶え間なく襲ってくる。まるで地獄だ)
「さて、昨日やった模擬試験を返すぞ」
講師が壇上で明朗に言った。僕は死人のような足取りで、テストを受け取りに前へ出る。そして、点数を見て、愕然とした。五教科とも零点だったのだ。五つ見事に並んだゼロという数字が、僕の心臓をえぐった。
「うそだろ……」
僕の手から答案用紙がこぼれ落ち、空しく床を滑ってゆく。名前の記入忘れなどではなく、正真正銘の零点だ。生まれて初めてとった。
「れいてーん」
突然講師が大真面目な顔で、怒鳴った。
「れいてんは、八つ裂き、やあーつうーざあーきいい-」
講師がそう言い終わるや否や、一瞬にして僕の体があちこち引き裂かれた。肉が裂け、体中から血が噴き出す。あまりの痛みに僕は声も出せず、ただただ紙きれみたいに裂かれていった。
だんだんぼろぼろになっていく僕の周りで、講師と塾生が、れいてん、の合唱を繰り返していた。
僕は苦痛の渦の中で、声にならない声を絞り出す。
だれか、だれか助けてくれ。
ここは地獄だ。
たすけて、たすけて、たすけて。
しかしここが地獄なら助けはこない。地獄は永遠の苦しみだ。僕は無意識にそれを理解しているのか、心のどこかで絶望していた。目はとっくに色を失い、灰色に濁っていた。死んだ魚だ。
オレは、「開かずの間」と呼ばれている教室の前で、呆然と、立ちつくしていた。今、その教室のドアは閉ざされている。鍵がちゃんとかかって、もとどおりの「開かずの間」だ。
だけどさっき、このドアは開いていたんだ、確かに。ガリ勉の奴が中を覗いてたもんだから、オレも興味本位で覗いた。
このドアの向こうは、地獄だった。
地獄と呼ぶのがふさわしい。ガキの頃読まされた教訓めいた絵本の挿絵そっくりの光景だった。
串刺し、釜ゆで、ぺしゃんこに潰される……そしてそれらは永遠に終わらないのだ。死ぬことはできない、永遠の苦しみ。たしか絵本にはそんな風に書いてあった。
ガリ勉は、地獄へ行ってしまった。
オレが止めるのも聞かず、あいつは、ドアの向こうへ自ら入って言った。顔は無表情で、目はずっと地獄の方を見つめていて、少しもブレない。いつもはひ弱なもやし程度に思って、軽く見ていたが、あのときのガリ勉には戦慄ってやつを覚えた。ガリ勉が中に入ると、ドアが勢いよく勝手に閉まり、カチャリと鍵がかかった。それからはなんの音もしない。
そのとき、進路指導室のドアが開いた。初老の男教師が顔を出す。
「なんだ、篠崎、来ていたのか、こっちは待ちくたびれたぞ。なんだか騒いでいなかったか、お前」
「先生、ここって、開かずの間って呼ばれてるよね? 地獄に続いてるって、ウワサがあって」
「ほう、たしかにあるな。そんな根も葉もない噂が。そこはただ鍵を紛失して開かないだけだがな」
「でも、今ここ開いてたんだぜ? 中は本当に地獄で、ガリ勉が、中に入って、出てこなくなった」
「誰だ? ガリ勉って」
「誰って、うちのクラスの……あれ? 」
誰だっけ?
オレは混乱した。思いだそうとすれば、思いだそうとするほど、頭に靄がかかったようになって、思いだせない。オレはさっき、誰と一緒にいたのだろう? いや、オレ一人だったか? そもそも、オレ、このドアの前で、何してたんだっけ?
何かショッキングなものを見たような気がするが、なんだっけか?
「篠崎、下らない噂にかまってるヒマがあったら、受験するのか進学するのか、進路を決めろ。もう十二月だぞ。そのドアが地獄に続いていたら、なんだっていうんだ? 地獄見学でもするのか」
「わかってるよ、つまんねえ噂だってことは。ま、地獄があんなら気に食わないやつでも誰か、ためしに落としてみるか」
「やめておけ、篠崎。誰かを本気で地獄に落とそうとするような極悪人は、その瞬間に地獄に落ちるだろうよ」
先生の目が一瞬鋭く光った気がして、オレは不覚にもちょっと怯んだ。まあ、オレはそんな卑怯なことはしねえで、イラつく奴には直接文句を言うがな。
「それもわかってる。ジョーダンだよ」
とりあえずオレは、先生の前で肩をすくめて見せた。
次の日クラスでなぜか突然机が一つ余り、ちょっとした騒ぎになったが、みんな受験が近いのですぐに忘れてしまった。