コアラ
親愛なる兄さんへ
春。
とても楽しく充実した、それなのに女性との縁が全くなかった大学生活を終え、私は社会への第一歩を踏み出していた。
就職した広告会社の入社式で恰幅のいい社長の、月並みで眠くなるありがたい言葉を聴き、自分の部署でちょっとした挨拶と仕事の簡単な説明を受けている間に、時間は昼を回っていた。
弁当を作ってくれる恋人も作る時間もなかったので外で食べることにした。
同期の人達はいい人ばかりだったが、知り合ったばかりの人を昼食に誘えるほど社交的でなかったので一人で会社から少し歩いたところにある定食屋で食べた。
15分程で食べ終えて店を出る。
都会のビルとビルの間に申し訳無さそうに咲いている桜がきれいだった。
気候も暖かで少しゆっくりしたくなった。
どこか座る場所でもないかと辺りを見回したとき、桜ばかりの植木の中に一本、鮮やかな緑の葉を茂らせた木を見つけた。
遠目に見るとそれは桜のようでもあったがどうも違う。
近づいてみると、それは桜よりはるかに青々とした葉を付けた背の高い木だった。
桜の中に堂々と立っている風がおかしくて、ケータイで写真を撮った。
ふと時計を見ると昼休みが終わる10分前だった。
私は急いで会社へ戻った。
夏。
汗を拭いながら歩くと自分が社会人であるということを自覚させられる。
仕事にも大分慣れたが女性との出会いはなかった。
地元の夏とは比べ物にならない暑さを放つコンクリートジャングルを3つ上の先輩と歩いていた。
この先輩とは地元が同じで歳も近いということで知り合った。
大学で環境学を専攻してきたはずなのに何故この会社に入ったかという経緯をよく聞かされる。
その日は得意先を回ってどこかで遅めの昼食を取ろうかという話をしていた。
最近忙しくてろくに飯を食べていなかったから、今日はバランスの取れたものを食べてスタミナをつけようという先輩の発案で定食屋に入った。
15分程で食べ終えて店を出る。
クーラーの効いた店から出ると暑苦しい夏の空気が私達を包んだ。
日陰でもないかと辺りを見回すと、春に見かけた背の高い木を見つけた。
木陰で一服していると先輩がその木を見上げた。
どうしたのかと聞くと、この木がここに生えてるのを不思議に思ったらしい。
その日初めて、私はその木の名前を知った。
秋。
暮れていく空。急ぎ足で帰る人達を見送る。
本来ならば私も終電が無くなる前に帰らなければならないのだが、どうも気と足が進まない。
誰も迎えてくれることのない家に帰って一体何が楽しいのか。
理由はそれだけではない。
それは仕事への気だるさであったり、上司との付き合いであったりと色々あるのだが、ともかく私は動きたくなかった。
人気の無くなったビル街にいつの間にかぽつんと置かれたベンチに座り、辺りを見回す。
すると、またもあの木が目に止まった。
周りの木はだんだんと秋らしく紅葉しているのに、その木は青々しいままだった。
なんとなくその木に近づき、見上げる。
空はだんだんと暗くなる。
その闇の中にきらりと光る小さな粒のようなものを見た。
最初に見えたときは星かと思ったが、それにしては大きい。
よく目を凝らすと猫か何からしい。
きっと登って下りられなくなったのだろうか、それならば下ろしてやろうと思って手を伸ばしたが、その生き物は私の手を逃れするすると木を登っていった。
やがて空が夜に染まると、その生き物の姿も見えづらくなった。
ポケットにケータイを入れているのを思い出し、ライトで照らしてみることにした。
あの生き物がいるところに見当をつけ、ライトを当てると、そのグレーの姿がはっきりと見えた。
コアラだ。
ここで普通なら何故ここに、と少しは驚くはずだが、私はその時妙に納得していた。
しばらく見ていたが、ライトの点灯時間が切れ、もう一度付いた時にはその姿は無かった。
冬。
相変わらず女性との縁は無く、身の回りも財布の中身も精神的にも寂しくなった。
仕事は先輩に励まされてどうにか続けているが、面白みに欠ける。
春の初々しかった自分がもう懐かしい。
そして疲れが溜まるとあのベンチに座り、あの木を見上げるのが習慣になっていた。
何に惹かれるのか分からないが、どうしても足が向いてしまうのだ。
その日もベンチに座っていた。
木は相変わらず青々しかった。
突然、自分の周りの景色が消えた。
歩き回る人々。枯れた木々。立ち並ぶビル。定食屋。
その全てが失われ、自分とあの木だけが残った。
気付いた時には茂ったユーカリの木に抱きついていた。
そのままするすると木を登っていく。
木登りなんて子供の頃に一度したくらいだったのに、身体はすいすいと動き、そして一本の太い枝に腰掛けた。
全身から力が抜ける。
ふと見ると、手の甲にグレーの毛が生えている。
おや、と思っている間にそれは腕へと広がり、胸へと広がった。
と同時に、身体が縮み始めた。
腕と足が短くなり、手には鉤爪が生えた。
そして私は、いつか見たコアラへとその身を変えた。
ああ、これが本当の私だ。私なのだ。
そう思っている内に、気が遠くなり、意識は見上げた夜の空へと舞い上がった。