転生した異世界に『デート』も『告白』も存在しなかったので、氷の王太子に教えて差し上げたら、耳まで真っ赤にして私を溺愛し始めてしまいました
暗いオフィスのデスクで、山積みの書類を前に意識を失った。
それが、残った最後の記憶だった。
次に目を開けたとき、視界に入ってきたのは、見事な彫刻が施された天蓋付きのベッドと、暖かく燃える大理石の暖炉だった。
呆然とする杏の前に現れた見知らぬ侍女たちは、彼女が起き上がったのを見て、震える声でこう尋ねた。
「……お嬢様? お名前が、お分かりになりますか」
「……杏、です」
かすれた声でそう答えると、侍女たちは息を呑み、涙を流して互いに抱き合った。
「アン様……! アン様が、お言葉を発されたわ!」
「アン」という音が、この国の言語ではそのまま、彼女たちの仕える侯爵令嬢「アン・ファーレン」の名前に聞こえたのだった。
それが、杏がこの世界でアンとして生きるようになった始まりだった。
後に、この国の宮廷魔術師によって、アンの身に起きたことが正式に解明された。
この世界には「魂の彷徨い(別名:ソウルドリフト)」と呼ばれる極めて稀な現象が存在する。
元のアン・ファーレンは、魔力を持たない無能の令嬢として家門で冷遇され、心を激しく摩耗させた結果、魂が肉体を離れて抜け殻となってしまっていたらしい。
その空っぽになった「器」に、異世界で命を落とした杏の魂が引き寄せられ、定着したのだという。
魔術師がアンの胸元に手をかざすと、彼女の魂は温かい「琥珀色」の光を放っていた。
かつてのアンの魂は冷たい銀色だったらしい。
魂の色が変わったという客観的な事実が、アンが「別の魂を持つ存在」になったことを何よりも明確に証明していた。
元のアンの肉体に杏の魂が宿ったことで、不思議な変化も起きていた。
魔力ゼロだったはずのアンの身体に、琥珀の魂が持つ微弱な魔力が定着し始めたのだ。
アンの父親であるファーレン侯爵は、「魔力なし」の欠陥が解消されたこと、そして娘が抜け殻から奇跡的に回復したことを喜び、アンが「別の世界の記憶と習慣」を持ち出すことを「ドリフトの副産物」として寛大に公認した。
しかし、この件で最も当惑していたのは、アンの政略婚約者である隣国テオドール公国の第一王子、ライナス・ヴェルツだった。
宮廷の美しい回廊で、ライナスはアンと対面していた。
彼は感情を完全に排した氷のような表情で、アンを見下ろした。
「……アン様。あなたの身に起きた『ソウルドリフト』の件、宮廷魔術師からの報告で聞き及びました。身体はアン様のものですが、中身は別の方なのだと。以前のアン様は、私と目すら合わせようとしなかった…」
「はい, ライナス殿下。そちらの解釈で大まか合っています。前のアン様の記憶の断片は頭の中に残っていますが、私は元のアン・ファーレンとは全く違う人間なのです…」
アンは緊張しながらも、真っ直ぐにライナスを見つめた。
ライナスは驚くほど端整な顔立ちをしていたが、そのサファイアのような瞳には、冷徹な光だけが宿っていた。
ライナスは色々な事を思考しているのだろう、何も話さずにアンをじっと見つめていた。
聞くと、元のアンとの関係はお互いに深く干渉しない「氷のように冷たい政略婚約」だったという。
アンは、これからどう生きていくべきかを考えていた。
前世では仕事に追われ、恋愛らしい恋愛もできないまま命を落とした。
せっかく新しい人生を得たのだから、一度でいいから、前世の物語で憧れていたような「温かい恋愛」をしてみたい。
そう思ったアンは、意を決してライナスに告げた。
「ライナス殿下。もしよろしければ、今日の午後、一緒に城下を歩いてみませんか。……『デート』をしたいのです」
「……でーと、ですか?」
ライナスが、怪訝そうに眉をひそめた。
「私の故郷の言葉です。好きな人と二人きりで外出し、特に目的もなく、ただ一緒に過ごす時間を楽しむことを指します。あと…ライナスさんやこの世界のこと、元のアンさんのこと…もっと知りたいです」
「二人きりで? 貴族が護衛も同伴者も置かずに、目的のない外出をするなど、この国の礼儀に反します。それに……『好きな人』とはどういう意味ですか」
「ええと…そのままですが、好意を持っている相手、という意味です」
アンが微笑むと、ライナスは完全に固まった。
この世界の貴族社会において、婚約とは家同士の契約であり、個人的な好意を前提とするものではない。
ましてや、直接「好意」という言葉を向けられた経験など、ライナスには一度もなかった。
「……理解できません。しかし、あなたがどうしてもと言うのであれば…一度だけなら同行しましょう」
ライナスは戸惑いを隠すように、冷淡な口調でそう言った。
しかし、その耳の端が、わずかに赤くなっているのをアンは見逃さなかった。
その日の午後、二人はお忍びで城下の賑やかな市場を歩いた。
アンにとっては、西洋風の美しい街並みを見るだけで新鮮だったが、ライナスにとってもまた、すべてが初めての経験だった。
「ライナス様、見てください。この果物、とても美味しそうですよ」
アンが自然な動作でライナスの袖を引く。
ライナスはその度に身体を硬くしたが、決してアンの手を振り払おうとはしなかった。
いつも厳重な護衛に囲まれて歩く街並みが、アンの隣にいるだけで、全く異なる鮮やかな景色に見える。
市場のベンチに座ったとき、アンは手作りのサンドイッチと焼き菓子を包んだバスケットを開いた。
「これは……何ですか」
「お弁当です。お出かけの時には、こうして手作りの料理を持っていくのが私の故郷の定番なんです。ライナス様、はい、どうぞ」
アンがサンドイッチを差し出すと、ライナスは信じられないものを見るかのように目を見開いた。
「貴族が自ら食物を調理するなど……あり得ない。それに、毒見も通していないものを口にするわけには……」
「私が自分で毒見しましたから大丈夫です。大切な人に、私が作ったものを食べてほしかったんです」
アンが真っ直ぐな瞳で微笑むと、ライナスは長い沈黙の後、おずおずと手を伸ばした。
そして一口、サンドイッチを口に運んだ。
「……どうですか?」
「……おいしい。とても温かい」
ライナスはそう言って、一気にサンドイッチを食べ進めた。
「誰かが私のために、自ら手を動かして食事を用意してくれたのは、生まれて初めてです。……ありがとう、アン」
不器用ながらも、彼が初めてアンの名を呼んだ瞬間だった。
そのサファイアの瞳に宿る温和な光に、アンの心は激しく揺さぶられた。
その日から、アンはライナスへのアプローチを少しずつ重ねていった。
前世の恋愛小説で読んだような、小さなコミュニケーションだ。
毎朝、アンはライナスの執務室に届ける書類の端に、小さな手書きのメモを添えるようにした。
『今日も良いお天気ですね。ライナス様にとって良い一日になりますように』
『昨日のデートで買っていただいた髪飾り、とても気に入っています』
最初は「これは何の意図があるのだ」と実務的に深読みしていたライナスだったが、次第に毎朝そのメモを探すようになり、ある日、たった一行の返事を寄越してきた。
『——今日も体調には気を付けるように。ライナス』
その不器用な返事を見て、アンの胸は温かい光で満たされた。
さらに、ライナスの誕生日が近いことを知ったアンは、自ら厨房に入って「バースデーケーキ」を手作りした。
小麦粉と砂糖と卵を練り、拙いながらも一生懸命に作った不格好なケーキを、ライナスの執務室に持ち込んだ。
「ライナス様、お誕生日おめでとうございます」
「これは……甘い菓子ですか。なぜ、このようなものを私に?」
ライナスは、机の上に置かれた不格好なケーキを不思議そうに見つめた。
「私の故郷では、誕生日に大切な人のためにケーキを作り、お祝いする習慣があるんです。ライナス様と一緒に食べたくて、作ってきました」
「使用人が作るものではなく、あなた自身が……?」
ライナスは驚いたように目を見開いた。
この世界では、貴族自らが調理を行うなどあり得ないことだった。
だが、目の前のケーキは、アンが自分のために手を汚し、時間をかけて作ってくれたものなのだ。
「……いただきます」
ライナスはフォークを取り、ケーキを口に運んだ。
お世辞にも一流の菓子職人の味には及ばない。
だが、これまでに食べたどんな豪華な宮廷料理よりも、その味はライナスの胸に深く染み渡った。
「美味しいです、アン。…ありがとう」
ライナスが、初めてアンに向かって小さく微笑んだ。
その笑顔は、氷が溶けるように優しく、美しかった。
アンの鼓動が、トクンと跳ね上がった。
ある夜、バラが咲き誇る王宮の庭園で、二人は二人きりで歩いていた。
月明かりが二人を照らす中、アンはずっと胸に秘めていた疑問を口にした。
「ライナス様、一つお聞きしてもいいですか」
「何でしょう、アン」
「この世界では……誰かを心から愛しいと思ったとき、どうやってその気持ちを伝えるのですか」
ライナスは歩みを止め、少し困惑したように答えた。
「家同士が交渉し、正式な書面をもって愛の誓いを交わします。感情を直接伝えるなど、軽薄で品のない行為とみなされるのが常識です」
「では、ライナス様個人としては、誰かに気持ちを伝えたことはないのですか」
「……ない。必要がなかったし、伝えるべき相手もいなかったからだ」
アンは深く息を吸い込み、彼の真っ直ぐなサファイアの瞳を見つめた。
「私の故郷では、どれだけ不器用でも、直接言葉で伝えるのが最も誠実なことなんです。だから、私は伝えます」
アンは一歩踏み出し、ライナスの冷たい手を両手で包み込んだ。
「ライナス様、あなたのことが好きです。一緒にいると嬉しくて、あなたの声を聞くだけで安心します。これからも、ずっとあなたの隣にいたいです」
ライナスは完全に声を失い、目を見開いたまま立ち尽くした。
この国の誰も口にしたことのない「告白」という光が、アンの口から発せられ、彼の閉ざされた心を粉々に砕いた瞬間だった。
二人の距離が近づくにつれ、それを快く思わない存在が動き始めた。
王太子妃の座を狙っていた公爵令嬢エリナ・ソーンと, その取り巻きたちだ。
エリナは、アンが「ソウルドリフト」によって別の人格になったことを利用し、彼女を排除するための計画を立てていた。
多くの貴族たちが集まる華やかな夜会の壇上で、エリナは冷酷な笑みを浮かべてアンを指差した。
「皆様、お聞きください! そこにいるアン・ファーレン様は、中身が全く異なる『異界の魂』なのです! 彼女は前のアン様の肉体を乗っ取った怪物であり、この国の礼儀を汚し、王太子殿下を誑かしています!」
会場の貴族たちから、どよめきと囁き声が漏れる。
「魂の彷徨い」は魔術的な現象として知られてはいたが、実際にそれを目の当たりにした人々は恐怖を抱いた。
「怪物の魂が宿っているのではないか」「あの卑しい行動はそのためか」
エリナは勝ち誇ったように胸を張った。
「アン様は、二人きりで外出するなどの不品行を働き、あろうことか身分の低い料理を作る真似をし、品格のない言葉で殿下を惑わせている! このような異界の者を、王妃として認めるわけにはまいりません!」
アンは壇下で、一人でその糾弾を受けていた。
弁明しようにも、自分が別の世界の人間であることは事実だった。
周囲の冷ややかな視線が、アンの肩に重くのしかかる。
その時、大広間の扉が開き、力強い足音が響き渡った。
現れたのは、親衛隊を従えたライナスだった。
彼は壇上のエリナを冷徹なサファイアの瞳で射すくめ、迷いのない足取りでアンの隣に立った。
そして、躊躇うことなくアンの震える肩を抱き寄せた。
「エリナ嬢。あなたの言葉には、いくつかの誤解と無知が含まれている」
ライナスの低い声が、広間全体を静まり返らせた。
「まず、アンが『魂の彷徨い』によってこの身体に宿ったことは、我が国の宮廷魔術師によって正式に診断され、国王陛下にも公認されている。彼女は怪物などではない。前のアン様が失った器を救った、尊い魂だ」
「し、しかし殿下! 彼女の行動は、この国の高貴な貴族の礼儀に反しています! 二人きりで歩き、卑しい手料理を作り、直接的な言葉を投げかけるなど……!」
エリナが抗弁するが、ライナスは冷ややかに首を振った。
「礼儀とは、何のためにある? 心を通わせることを恐れ、形式だけの書状で婚姻を交わし、互いに無関心でいることが『高貴』だと言うのか。もしそうなら、その礼法は空虚な飾りでしかない」
ライナスは、アンの手を優しく、しかし誰にも離させないほど力強く握りしめた。
「私はアンから、初めて一人の人間として向き合ってもらった。彼女がもたらしたものは、この国に存在しなかっただけの『本物の誠実さ』だ。彼女が作った菓子は、私の心を救い、彼女が書いた文字は、私に毎日生きる喜びを与えてくれた」
ライナスはアンに向き直り、そのサファイアの瞳に深い熱を宿して見つめた。
「アン。私は、あなたのことが好きだ。この国のいかなる礼儀よりも、私はあなたと過ごす『デート』を望み、あなたからの言葉を求めている」
大広間が、静まり返った。
「好きです」という、直接的な好意の言葉。
この国の誰も口にしたことのない、しかし最も純粋で強力な告白が、ライナスの口から発せられたのだ。
エリナは言葉を失い、顔を青ざめさせて後退った。
彼女が「不品行」と蔑んだすべての行動が、王太子ライナスにとっては、何よりも愛おしい宝物だったのだということを、会場の誰もが理解した。
「……エリナ嬢。偽りの噂を流し、婚約者を侮辱した罪は重い。今後、あなたを私の周囲への出入り禁止処分とする。また、ソーン公爵家には厳重な抗議を行う」
ライナスの宣告に、エリナは力なくへたり込み、周囲の令嬢たちからも見捨てられるようにして大広間を去っていった。
事件から数日後。
テオドール公国の美しい湖のほとりで、二人は並んで座っていた。
水面が太陽の光を浴びてキラキラと輝き、心地よい風がアンの髪を揺らしている。
「……ライナス様、本当に良かったのですか? あんな大勢の前で、あんなことをおっしゃって」
アンが少し照れくさそうに尋ねると、ライナスはアンの手をきゅっと握りしめた。
「当然だ。私は自分の本心を言ったまでだ。……あなたの故郷の言葉で言う、『告白』というものをしてみたのだが……合格だろうか」
ライナスが、少しだけ不安そうにアンの顔を覗き込む。
その過保護なほど真剣な眼差しに、アンの胸は愛しさでいっぱいになった。
「はい、満点です」
アンが満面の笑みを浮かべると、ライナスは安堵したように息を吐き、彼女の細い腰を引き寄せた。
彼の温かい胸に包まされながら、アンは思った。
前世で憧れていた、お互いの気持ちを言葉で伝え合う、温かい関係。
この異世界で、ソウルドリフトという奇跡を経て、ようやく私はそれを手に入れることができたのだと。
「アン。次の『デート』は、どこへ行こうか。あなたの故郷の面白い習慣を、もっと私に教えてほしい」
ライナスが耳元で甘く囁く。
「ええ、たくさんありますよ。例えば、手を繋いで歩くこととか……」
「それは今すぐにでもできるな」
ライナスは微笑み、アンの指の間に自分の指を絡ませた。
繋がれた手の温もりを感じながら、二人は輝く湖水を見つめ続けた。
【完】




