バケツ
また、あの夢だった。
拓海は喉の奥で息を詰まらせながら飛び起きた。
暗闇の中、心臓だけが異様な速さで脈打っている。
全身が汗で濡れていた。
枕も、シーツも。
夢の内容はいつも同じだ。
男が笑う。
優しそうな顔で手招きをする。
そして言う。
「坊主、バケツ持ってるか?」
そこまで思い出したところで、拓海は両手で顔を覆った。
もう四十二歳だ。
妻もいる。
子どももいる。
それなのに。
二十年以上前の、たった数分の出来事が未だに夢に出てくる。
台所へ向かう。
冷蔵庫を開ける。
麦茶を飲む。
その時、流し台の下が目に入った。
青いバケツ。
ただのバケツだ。
ホームセンターで買った千円もしない安物。
だが、拓海は昔から青いバケツしか買えなかった。
理由は自分でも分からない。
あるいは、分かりたくなかった。
拓海は目を閉じた。
あの日も、青いバケツだった。
小学五年生の夏休み。
朝から暑かった。
家にいても退屈で、拓海は近所をぶらぶら歩いていた。
昔からある小さな購買店の裏手。
二軒ほど奥に入った場所に中古の一軒家があった。
そこで男を見かけた。
見たことはある。
どこの誰かは知らない。
近所に住んでいる人。
それだけだった。
男は拓海を見つけると笑顔になった。
「坊主」
膝を曲げて目線を合わせる。
親しげだった。
優しそうにも見えた。
「バケツ持ってるか?」
拓海は意味が分からず首を傾げた。
「家にはあるけど」
男は安心したように笑った。
「ああ、助かる」
「いるの?」
「ちょうどいい入れ物探してたんだけどな。家に無くて困ってるんだ」
今なら少し不自然だと思う。
だが、当時の拓海は子どもだった。
何も疑わなかった。
「取ってこようか?」
「頼めるか」
拓海は家へ走った。
物置から青いバケツを持ち出し、男のところへ戻る。
男は嬉しそうに受け取った。
「ありがとうな」
「何に使うの?」
男は少しだけ考えた。
そして笑った。
「秘密だ」
拓海も笑った。
大人には大人の事情があるのだと思った。
男は玄関へ向かう。
開いた扉の向こう。
家の奥に赤いものが見えた。
丸いものだった。
ボールかな。
そう思った。
それだけだった。
翌朝までは。
パトカーのサイレンで目が覚めた。
近所が騒がしい。
人が集まっている。
野次馬に混ざり、拓海も現場へ向かった。
騒ぎの中心は昨日の家だった。
大人たちがざわざわと話している。
「殺されたんだって」
「奥さんが」
言葉の意味は理解できても、現実感がなかった。
刑事が家から出てくる。
その手には青いバケツがあった。
見覚えのある傷。
見覚えのある持ち手。
拓海の喉がひゅっと鳴った。
昨日貸したバケツだった。
その瞬間だった。
男の声が頭の中で響いた。
――
ちょうどいい入れ物探してたんだけどな。
拓海の背筋を冷たいものが走る。
刑事たちの会話が聞こえた。
「頭部は――」
そこから先は聞こえなかった。
聞こえなかったのか。
聞きたくなかったのか。
分からない。
ただ、その日の夕方。
ニュースで事件の概要を知った。
男は妻を殺害した。
そして遺体を損壊した。
拓海はテレビを見ながら、自分の手を見つめていた。
昨日。
その手でバケツを渡した。
何も知らずに。
ただ親切のつもりで。
事件は終わった。
男は逮捕された。
家は取り壊された。
やがて人々も忘れていった。
だが拓海だけは忘れられなかった。
今でも夢を見る。
男は笑っている。
優しそうな顔で。
怒鳴りもしない。
脅しもしない。
ただ穏やかに言う。
「坊主、バケツ持ってるか?」
その言葉が何より怖い。
拓海は窓の外を見た。
東の空がわずかに白み始めている。
静かな住宅街。
どこにでもある朝だった。
あの日も、きっとそうだった。
流し台の下の青いバケツが目に入る。
拓海は視線を逸らした。
そして、二十数年間ずっと答えの出ない疑問を思い出す。
あの日。
玄関の奥に見えた赤い丸いもの。
あれは本当にボールだったのだろうか。
もし違ったとしても。
もう確かめる術はない。
だが一つだけ確かなことがある。
男は本当に困っていた。
あの日。
ちょうどいい入れ物を探していたのだ。




