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バケツ

掲載日:2026/06/12


また、あの夢だった。


拓海は喉の奥で息を詰まらせながら飛び起きた。


暗闇の中、心臓だけが異様な速さで脈打っている。


全身が汗で濡れていた。


枕も、シーツも。


夢の内容はいつも同じだ。


男が笑う。

優しそうな顔で手招きをする。

そして言う。


「坊主、バケツ持ってるか?」


そこまで思い出したところで、拓海は両手で顔を覆った。


もう四十二歳だ。

妻もいる。

子どももいる。

それなのに。


二十年以上前の、たった数分の出来事が未だに夢に出てくる。


台所へ向かう。

冷蔵庫を開ける。

麦茶を飲む。


その時、流し台の下が目に入った。

青いバケツ。

ただのバケツだ。


ホームセンターで買った千円もしない安物。


だが、拓海は昔から青いバケツしか買えなかった。


理由は自分でも分からない。

あるいは、分かりたくなかった。


拓海は目を閉じた。


あの日も、青いバケツだった。

小学五年生の夏休み。

朝から暑かった。


家にいても退屈で、拓海は近所をぶらぶら歩いていた。


昔からある小さな購買店の裏手。

二軒ほど奥に入った場所に中古の一軒家があった。


そこで男を見かけた。

見たことはある。

どこの誰かは知らない。

近所に住んでいる人。

それだけだった。


男は拓海を見つけると笑顔になった。


「坊主」

膝を曲げて目線を合わせる。


親しげだった。

優しそうにも見えた。


「バケツ持ってるか?」

拓海は意味が分からず首を傾げた。


「家にはあるけど」

男は安心したように笑った。


「ああ、助かる」


「いるの?」


「ちょうどいい入れ物探してたんだけどな。家に無くて困ってるんだ」

今なら少し不自然だと思う。


だが、当時の拓海は子どもだった。

何も疑わなかった。


「取ってこようか?」


「頼めるか」

拓海は家へ走った。


物置から青いバケツを持ち出し、男のところへ戻る。


男は嬉しそうに受け取った。


「ありがとうな」


「何に使うの?」

男は少しだけ考えた。


そして笑った。

「秘密だ」

拓海も笑った。


大人には大人の事情があるのだと思った。


男は玄関へ向かう。


開いた扉の向こう。


家の奥に赤いものが見えた。

丸いものだった。

ボールかな。


そう思った。

それだけだった。


翌朝までは。


パトカーのサイレンで目が覚めた。

近所が騒がしい。

人が集まっている。


野次馬に混ざり、拓海も現場へ向かった。


騒ぎの中心は昨日の家だった。

大人たちがざわざわと話している。


「殺されたんだって」


「奥さんが」

言葉の意味は理解できても、現実感がなかった。


刑事が家から出てくる。

その手には青いバケツがあった。


見覚えのある傷。

見覚えのある持ち手。


拓海の喉がひゅっと鳴った。

昨日貸したバケツだった。


その瞬間だった。

男の声が頭の中で響いた。


――

ちょうどいい入れ物探してたんだけどな。



拓海の背筋を冷たいものが走る。

刑事たちの会話が聞こえた。


「頭部は――」


そこから先は聞こえなかった。

聞こえなかったのか。

聞きたくなかったのか。

分からない。


ただ、その日の夕方。

ニュースで事件の概要を知った。


男は妻を殺害した。

そして遺体を損壊した。


拓海はテレビを見ながら、自分の手を見つめていた。


昨日。

その手でバケツを渡した。

何も知らずに。

ただ親切のつもりで。

事件は終わった。

男は逮捕された。

家は取り壊された。

やがて人々も忘れていった。


だが拓海だけは忘れられなかった。


今でも夢を見る。

男は笑っている。

優しそうな顔で。

怒鳴りもしない。

脅しもしない。

ただ穏やかに言う。


「坊主、バケツ持ってるか?」

その言葉が何より怖い。


拓海は窓の外を見た。

東の空がわずかに白み始めている。

静かな住宅街。

どこにでもある朝だった。


あの日も、きっとそうだった。

流し台の下の青いバケツが目に入る。

拓海は視線を逸らした。


そして、二十数年間ずっと答えの出ない疑問を思い出す。


あの日。

玄関の奥に見えた赤い丸いもの。

あれは本当にボールだったのだろうか。


もし違ったとしても。

もう確かめる術はない。

だが一つだけ確かなことがある。


男は本当に困っていた。

あの日。


ちょうどいい入れ物を探していたのだ。



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