ラーメン屋の夜
夜の街の片隅に、黄色い暖簾が小さく揺れるラーメン屋がありました。
店主は、深い皺が刻まれた大きな手を持つ老人です。彼はいつも、使い込まれた手拭いを頭に巻き、少し気難しそうな顔で寸胴鍋の前に立っていました。
ある冷え込んだ晩、一人の女性が暖簾をくぐりました。
彼女はコートの襟を立て、何かに追いかけられているような、あるいは何かを置き忘れてきたような、ひどく心細い顔をしていました。
「いらっしゃい」
店主の声は、古びたチェロの低音のように響きました。女性はカウンターの端に座り、消え入りそうな声で「中華そば」を注文しました。
店主は黙って麺を茹で始めました。湯気の中で立ち働く彼の背中は、まるで動かない岩山のようでした。
女性は、自分の指先をじっと見つめていました。仕事で失敗したこと、誰にも言えない寂しさ、昨日食べた味のしないパンのこと。そんな澱のような思いが、彼女の心に薄暗く積もっていました。
「はいよ」
置かれたどんぶりからは、透き通った琥珀色のスープが香りました。
女性は箸を割り、ふと動きを止めました。どんぶりの中央に載ったチャーシューが、驚くほど分厚かったのです。それは、昨日彼女がスーパーで見かけたどの肉よりも、ずっと誇らしげな厚みをしていました。
彼女は店主をちらりと見ました。店主は彼女と目を合わさず、少し離れたところで、お世辞にも綺麗とは言えない布巾で淡々とカウンターを拭いています。
「あの、これ……」
彼女が呟くと、店主は拭き掃除の手を止めずに、ぶっきらぼうに言いました。
「今日は肉の切り方が上手くいかなかったんだ。不揃いだが、食え」
女性は、それが優しい嘘であることをすぐに悟りました。
彼女はチャーシューを一口齧りました。じっくりと時間をかけて煮込まれた肉は、口の中でほどけるように柔らかく、温かい脂の甘みが身体の隅々にまで染み渡っていきました。
麺をすすり、スープを飲むたびに、彼女の胸の奥に溜まっていた冷たい澱が、少しずつ、少しずつ溶けていきました。
店主は相変わらず、奥でラジオの小さな音に耳を傾けているだけです。でも、彼が放つ静かな気配が、彼女にとっては何よりの毛布のようでした。
最後の一滴までスープを飲み干したとき、彼女の頬には自然と朱が差していました。
「ごちそうさまでした。……元気、出ました」
彼女が立ち上がると、店主は初めて彼女の方を向き、ほんの一瞬だけ、目尻の皺を深くして笑いました。
「明日は、もっと上手く切れるようにしとくよ」
女性が外へ出ると、夜風はまだ冷たいままでしたが、不思議ともう寒くはありませんでした。
背後で揺れる暖簾の黄色が、街灯の下で明るく輝いて見えました。




