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聖火の下のタップダンス

ブラックパイン領への道程は、ケインの最悪の予想よりも悪かった。


馬車が領地の境界を越えると、空気が変わった。単に寒くなったというだけでなく、重く、粘り気を帯びているように感じられた。窓の外の景色は、初めはまだ豊かな農地だったが、次第に荒れ果てた土地へと変わっていく。枯れた作物の茎が風に揺れ、いくつかの農家の窓は板で封鎖されていた。


「見て」リノが窓に額を押し当てながら小声で言った。「あの家の戸口に……白い粉が撒いてある」


ケインは顔を上げず、膝の上のパネルを見つめていた。環境モニタリングデータが次々と表示される:気温、湿度、大気圧、そして……


「エーテル濃度が周辺地域の平均より17%高い」彼は冷静に報告した。「しかも増加傾向にある。中心部に近づくほど濃くなる」


「それが何を意味するの?」


「わからない。自然の地脈の濃淡かもしれないし」ケインは一瞬言葉を切った。「人為的な集積かもしれない」


伯爵の城は、領地の中心にある小高い丘の上に建っていた。しかしその姿は、荘厳というよりは威圧的だった。黒っぽい石材で築かれた城壁は、何世紀もの風雨にさらされて黒ずみ、ところどころにひび割れが走っている。尖塔の窓のいくつかは塞がれ、まるで盲目の目玉のようだった。


城門が軋む音を立てて開き、車列が中庭へと入っていく。中庭には既に伯爵と側近たちが整列して待っていたが、彼らの顔には歓迎の笑顔ではなく、疲労と緊張の色が濃く浮かび上がっていた。


「聖女閣下!匠の閣下!」伯爵が駆け寄ってきた。彼の目には深いクマができており、手の甲にはストレスによる湿疹らしい赤い斑点があった。「ようこそお越しくださいました。旅の疲れもおありでしょうが、事態が一刻を争うものでございまして……」


「儀式の場所を見せてください」ケインは馬車から降りると、すぐに言った。「それと、『不吉な影』が最初に現れた地点に関する詳細な記録。可能なら、関係者への聞き取りも」


伯爵はうなずき、二人を城の中へと導いた。


城の内部は外観以上に陰鬱だった。高い天井には蜘蛛の巣がぶら下がり、壁に掛けられた歴代城主の肖像画は、顔の部分が暗闇に溶け込んでいて表情が読み取れない。廊下を歩く足音が反響し、どこからか水の滴る音が絶え間なく聞こえてくる。


儀式場として指定されたのは、城の西翼にある旧礼拝堂だった。石造りの広間は天井が高く、色あせたステンドグラスから差し込む光が、塵の舞う空中に傾斜した光の柱を作り出していた。しかしここでも、不自然な要素があった。


「ここです」伯爵は声を潜めて言った。「三週間前、夜勤の衛兵がこの礼拝堂で緑の炎を見たと報告しました。その翌朝、祭壇の前の石畳が……溶けていました。蝋のように」


ケインはその場所へ歩み寄った。確かに、古びた石畳の一部が不自然に歪み、表面がガラス質の光沢を帯びていた。彼は懐から小型のスキャナーを取り出し、石の上にかざした。


パネルにデータが流れる。熱残存反応、微小な魔力残留、そして……


「伯爵閣下」ケインは顔を上げた。「この城には地下牢や、古い貯蔵庫はありますか?」


伯爵の顔が一瞬硬直した。「……なぜお尋ねに?」


「『聖なる結界』を張るには、地脈の流れを正確に把握する必要があります」ケインは嘘を平然と言った。「地下構造が結界の形成に影響を与える可能性があります」


伯爵はためらいを見せたが、すぐにうなずいた。「地下牢はあります。ただし……現在は使用しておりません。数年前から閉鎖されていました」


「見せてください」


「ですが、汚く危険な場所で……」


「必要です」


ケインの口調には議論の余地がなかった。伯爵はため息をつき、ろうそく立てを持った使用人に合図を送った。


地下への階段は、礼拝堂の裏にある隠し扉の奥にあった。鉄の扉が開くと、黴と湿気と、何か腐敗したような甘ったるい匂いが立ち込めてきた。


階段を下りていくと、そこには十数個の独房が並ぶ典型的な地下牢があった。しかしケインの目は、すぐに異常な点を捉えた。


「ここだ」彼は一つの独房の前に立ち止まった。鉄格子は他の部屋よりも太く、扉には複雑な錬金術の紋章が刻まれている。しかも、床には……


「砂?」リノが小声で言った。


確かに、独房の床一面に、灰色の細かい砂が撒かれていた。それは普通の砂ではなく、微かに光を反射している。


ケインはスキャナーをかざした。数値が急上昇する。


「エーテル吸収材だ」彼は囁くように言った。「高純度の星砂。環境から魔力を強制的に抽出し、固定する特性を持つ。とても高価だ」


伯爵の顔が青ざめた。「そんなものは知りません!この牢は何年も開けていません!」


ケインは独房の内部を注意深く観察した。壁には引っかき傷が無数にある。床の砂には、一部が黒く変色し、ガラス質に融着した部分があった。そして空気中には、かすかに硫黄の匂いが漂っている。


彼は伯爵を見た。「ここに何を閉じ込めていたのですか?」


「何も!」伯爵は声を荒げたが、すぐに弱々しくなった。「少なくとも、私が知っている限りでは……」


ケインはもう質問しなかった。彼はスキャナーをしまい、独房から離れた。「了解しました。結界の設計にこの情報を組み込みます」


城の自室に戻る道中、リノが小声で言った。「あれは……」


「後で話す」ケインは彼女を遮り、伯爵の前では何も言わなかった。


部屋に一人になると、ケインはすぐに行動を開始した。彼は窓を閉め、カーテンを引き、持ち込んだ機器の一つから小さな円盤状の装置を取り出し、壁に貼り付けた。円盤が微かに唸り、周囲の音を遮断するバリアを張った。


「これで安全だ」ケインは作業台の前に座り、パネルを開いた。「さて、状況は最悪だ」


「あの独房に何かいたの?」リノが尋ねた。


「いた。そしておそらく、まだどこかにいる」ケインは地下牢のスキャンデータを表示した。「星砂は魔力を吸収するためだけに使われるのではない。弱った魔法生物を『飼育』するためにも使われる。魔力を吸い取られ続けることで、生物は虚弱になり、大人しくなる」


彼は画面を拡大し、砂の変色部分を指さした。「ここで何かが『暴れた』。おそらくは最近だ。そしてこの熱量と腐食痕は……」


「伯爵が言っていた、あの溶けた遺体と同じ?」リノの声が震えた。


「同じ特性だ」ケインはうなずいた。「結論:ブランドン伯爵は、何らかの魔法生物――おそらくは低級の悪魔か、魔力に飢えた異界生物――を捕獲し、地下牢に閉じ込めていた。それが最近脱走し、領地で混乱を引き起こしている」


「でも伯爵は知らないって言ってた!」


「嘘をついているか、本当に知らないか」ケインは冷静に分析した。「彼が言うように数年前から閉鎖されていたのなら、前任者の城主――おそらく彼の父親か祖父――が何かを閉じ込めた可能性がある。伯爵はその存在を知らず、ただ『領地の怪現象』として認識しているだけかもしれない」


リノは椅子に腰を下ろし、顔を手で覆った。「それで結局、私たちは本物の悪魔と対峙しなきゃいけないってこと?」


「そうなる可能性が高い」ケインは別のデータを呼び出した。「だがまだ希望はある。第一に、その生物は長期間星砂に曝されていたはずだ。魔力は枯渇しており、肉体的にも衰弱している。第二に、伯爵が準備してくれた材料の中には、私たちの『聖火』を本物以上に見せるためのものがいくつかある」


彼はリストを表示した。「特にこの『焔水晶の粉末』。日光を蓄積し、急激な発熱を引き起こす特性がある。適切に制御すれば、短時間だが千度を超える炎を発生させられる」


「でもそれは本物の炎じゃないの?」リノは顔を上げた。「私たちの装置は防御できる?」


「できる」ケインの目が鋭くなった。「だがリスクは大幅に上がる。当初の予定では、熱源はすべて私たちの装置から発生させ、安全ゾーンは完全に制御下に置くつもりだった。しかしもし本物の高熱を発生させるなら、バックアップの冷却システムと非常用消火剤を追加しなければならない」


彼は立ち上がり、窓の外を見た。城の庭では、伯爵の使用人たちが儀式の準備を急いでいる。祭壇を設置し、観客席を並べ、松明を立てている。


「一つだけ確かなことがある」ケインは背を向けたまま言った。「伯爵はこの儀式で、何かを見せたがっている。領民の前で『聖女』が『悪魔』を退治する姿を。それは単なる迷信の鎮静以上の意味がある」


「政治的パフォーマンス?」


「その可能性が高い」ケインは振り返り、リノを見つめた。「だからこそ、私たちは失敗できない。もし儀式が失敗すれば、私たちは単なるペテン師として処刑されるだけではない。伯爵の威信が傷つき、彼の怒りを買うことになる。それは死よりも悲惨な結果をもたらすかもしれない」


部屋に重い沈黙が流れた。


遠くから、領民たちが城に集まってくるざわめきが聞こえる。彼らは「聖女」の到来を聞きつけ、救いを求めてやって来ている。


リノは深く息を吸い、立ち上がった。


「わかった」彼女の声には、わずかな震えが残っていたが、確かな決意が込められていた。「いつもの通りやるだけよ。ただの大規模なショーなんだから」


ケインは彼女を一瞥し、わずかにうなずいた。


「準備を始めよう」彼は工具箱を開けた。「まずは結界装置の設置からだ。伯爵には『地脈の調整』と説明する」


「私は?」


「聖衣の最終チェックだ」ケインはいくつかの小瓶を取り出し、机の上に並べた。「そしてこれらを全身に塗布する準備を。説明書通りに、一ミリの隙間も残さずにな」


リノはそれらの小瓶を見つめた。中身は透明なジェルで、微かに金色の粒子が浮かんでいる。


「これがあの『ゲル断熱層』?」


「改良版だ」ケインは真剣な表情で言った。「通常の二倍の熱反射効率を持つが、肌への浸透性も高い。塗布後三十分で完全に定着し、その後十二時間は洗い流せない。かゆみや軽い発疹が出る可能性がある」


「……報酬は追加で」リノはぶつぶつ言った。


「すでに交渉済みだ」


ケインは装置を手に取り、部屋を出ていこうとした。扉の前で、彼は一瞬立ち止まり、振り返った。


「リノ」


「ん?」


「何か異常を感じたら、すぐに合図を送れ」彼の声は低く、真剣だった。「たとえ儀式中でもだ。私が何とかする」


リノは一瞬目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。


「わかった」


ケインはうなずき、廊下へと消えていった。


リノは一人部屋に残され、机の上のジェルの小瓶を見つめた。窓の外からは、領民たちの祈りの声がかすかに聞こえてくる。


彼女はそっと胸に手を当てた。粗末な木彫りの徽章が、肌の温もりでわずかに温まっている。


「大丈夫」彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。「ただのショーだ。いつもの通りだ」


だが彼女の心の奥では、地下牢のあの変色した砂と、伯爵の憔悴した顔が、絶え間なく繰り返し浮かんでは消えていた。


今夜、彼らは嘘の炎で、本物の闇と対峙する。


果たして、光は闇に勝つことができるのだろうか。


それとも、闇がすべてを飲み込んでしまうのだろうか。


リノは深く息を吸い、最初の小瓶の蓋を開けた。


冷たいジェルの匂いが、部屋中に広がっていった。


---


礼拝堂での作業は、犯罪の計画を立てるような緻密さで進められた。


ケインは伯爵に、儀式の成功には「地脈の精確な調整」が必要だと説明し、礼拝堂への立入りを制限させた。伯爵は疑わしげだったが、結局了承した。


「神聖な作業は、世俗の目に触れてはならない」ケインは厳かな口調で言った。「特に結界の形成中は、少しの乱れも許されません」


彼は礼拝堂の四隅に、金属製の柱を設置した。それぞれの柱には複雑な紋章が刻まれており、頂部には水晶が埋め込まれている。伯爵や使用人たちには、「聖なる結界の支柱」と説明されたが、実際は【地脈熱線干渉器】 だった。地下から上昇してくる地熱を検知し、特定のポイントへ集中させる装置だ。


「でも、ここに地熱なんてあるの?」リノが小声で尋ねた。彼女は助手として礼拝堂に入ることを許されていた。


「少ないが、ある」ケインは測定器を見つめながら答えた。「この城は火山性地帯の端に建っている。地下数百メートルにはまだ活動的なマグマ溜まりが残っている。通常は無害なレベルだが、この装置で増幅・集中させれば……」


彼は祭壇の真上を指さした。「あの位置で、摂氏五百度以上の『炎の柱』を作り出せる。もちろん、見かけだけのものだ。実際の熱は周囲に拡散させ、観客には熱風として感じさせる程度に抑える」


次にケインが設置したのは、【指向性断熱場発生器】だった。四つの金属柱から発せられるエネルギービームが交差する点――つまりリノが立つ位置――に、目に見えない断熱シールドを形成する装置だ。


「これが最も重要な部分だ」ケインはリノに説明しながら、発生器の調整を続けた。「シールドの内側は常温を保ち、外側は高温に見せる。観客には、聖女が炎に包まれているように見えるが、実際には安全圏内にいる」


「でも、もし装置が故障したら?」リノは心配そうに尋ねた。


「三層のバックアップシステムを備えている」ケインは冷静に答えた。「第一層が故障すれば自動的に第二層が起動する。全ての層が故障する確率は0.0037%だ」


「それでもゼロじゃないわね」


「この世界で絶対安全なものなどない」ケインは顔を上げずに言った。「私たちがやっていること自体、本来なら安全とは言い難い」


設置作業は午後いっぱい続いた。夕方になると、ケインは最後のチェックを始めた。彼は礼拝堂内をくまなく歩き回り、各装置の接続を確認し、エネルギーレベルを測定し、バックアップシステムのテストを行った。


その間、リノは別の「準備」に取り組んでいた。


城の一室で、彼女は全身に【ゲル型高熱反射コーティング】 を塗布しなければならなかった。説明通り、それは冷たく粘り気のあるジェルで、肌に塗るとすぐに薄い膜を形成する。しかしそのプロセスは、想像以上に厄介だった。


「うわっ、冷たい!」リノは思わず声を上げた。彼女は腰まで下ろした浴槽に立ち、ケインが混ぜ合わせたジェルを体に塗り広げていた。「これ、本当に必要?」


「必要だ」ケインは部屋の隅で装置の最終チェックをしながら、顔も上げずに答えた。「断熱場発生器が万が一故障した場合、これが最後の防護壁になる。摂氏三百度までなら、五秒間は耐えられる」


「五秒?たったの五秒?」


「五秒あれば、非常用消火システムが作動する時間だ」ケインはようやく振り返り、リノの状態を一瞥した。「塗り方にムラがある。左肩甲骨の下が薄い」


「自分では見えないから塗れないわよ!」リノは浴槽の縁に寄りかかり、背中を向けた。「手伝ってよ」


ケインは一瞬ためらったが、すぐに手袋をはめ、ジェルの容器を手に取った。


「動くな」彼は短く言い、リノの背中にジェルを塗り始めた。


彼の手の動きは、驚くほど繊細だった。技術者が精密機器を扱うように、ジェルを均一に広げ、隅々まで行き渡らせた。リノはその冷たさに震えそうになったが、彼の手の温もりがわずかに伝わってくるのを感じた。


「……こんなことまでしてもらう必要があるの?」リノは壁を見つめながら小声で言った。


「効率的だからだ」ケインの声は相変わらず平板だった。「自分で塗ると時間がかかりすぎる上、ムラができれば防護効果が低下する。リスク管理上、私が塗るのが最適解だ」


「でも、私が裸でいるのを見るのは……」


「私は技術者だ」ケインは彼女を遮った。「人体は単なる生体機械であり、今私が見ているのは、保護コーティングを施すべき表面でしかない」


リノは口を結んだ。何か言い返そうとしたが、結局黙った。


数分後、ケインは塗布を終えた。「終わった。三十分待て。完全に定着する」


彼は手袋を外し、再び装置のチェックに戻った。


リノは浴槽から上がり、用意されたローブを羽織った。ジェルが乾くにつれ、肌に微妙な張り付き感が生まれた。まるで全身が薄いラバーで覆われているようだ。


「これ、ずっとつけておくの?」彼女は腕を見ながら尋ねた。


「儀式が終わるまでだ」ケインはパネルを見つめながら答えた。「その後は特殊溶剤で除去する。ただし肌が敏感な部位にはかぶれが出る可能性がある。薬は準備してある」


「あんた、本当に何もかも計算してるのね」


「計算できないリスクは取らない」ケインはようやく顔を上げ、リノを見た。「これが私たちがここまで生き延びてきた理由だ」


窓の外では、日が暮れ始めていた。城の庭には松明が灯り、領民たちのざわめきが次第に大きくなっている。儀式は一時間後に始まる予定だった。


ケインは最後の準備を終え、リノに近づいた。


「耳だ」彼は小さな装置を取り出した。「新型の通信器だ。ノイズキャンセリング機能を強化し、周囲の雑音を遮断する。私の声だけがはっきり聞こえる」


彼はリノの耳にそれを装着した。冷たい金属の感触だった。


「テストする」ケインは数歩離れ、小声で言った。「聞こえるか?」


「聞こえるよ」リノはうなずいた。


「良い」ケインはもう一度装置を調整した。「儀式中、私が指示を出す。動き、表情、タイミング、すべて私がコントロールする。絶対に自分で判断するな。わかったか?」


「わかった」


「もう一つ」ケインは彼女の目をまっすぐ見つめた。「もし何か異常を感じたら――熱さ、痛み、何かがおかしいという直感――すぐに合図を送れ。小さく首を左右に振るだけでいい。私が対応する」


リノは深く息を吸った。「でも、観客の前で……」


「観客より命が大事だ」ケインの声には、珍しく感情がこもっていた。「金のために死ぬな、リノ。それは割に合わない」


彼女は一瞬目を見開き、それからゆっくりとうなずいた。


「約束する」


ケインはうなずき、礼拝堂へ向かう準備を始めた。彼は大きな金属の箱を二つ持ち、重そうに運び出していった。


リノは一人部屋に残され、鏡の前に立った。鏡に映る自分は、普通の少女だった。まだ聖衣も着ておらず、メイクもしていない。ただの、少し緊張した顔をした女の子だ。


彼女は目を閉じた。


貧民街の子どもたちの顔が浮かぶ。マーサ婆さんの孫の咳き込む声が聞こえる。請求書の山が目の前に積み上がる。


そして、太陽金貨の輝き。


彼女は目を開けた。


鏡の中の少女の表情が変わった。緊張は消え、代わりに冷静な決意が浮かんでいる。目には、あの「聖女」の輝きが灯り始めた。


「大丈夫」彼女は自分に言い聞かけた。「うまくいく。いつも通りに」


彼女は聖衣へと向かった。今夜の衣装は、これまで以上に精巧だった。内部には冷却用の微小チューブが張り巡らされ、背中には緊急用の消火剤のタンクが組み込まれている。重さは通常の二倍以上ある。


リノはそれを身に着け始めた。一つ一つの部品を丁寧に装着し、接続を確認し、最終チェックを行った。


その間、耳からはケインの声が時折聞こえてきた。


「ステージ最終チェック完了。エネルギーレベル安定。観客席照明、確認」


彼の声は、いつもの冷静さを保っていた。だがリノは、その底にわずかな緊張を感じ取った。あるいは、それは彼女自身の緊張の反映かもしれないが。


衣装を完全に身に着けると、リノは最後にメイクを始めた。聖女としての顔を作り上げていく。肌を透き通るように白くし、目に神々しい輝きを加え、唇にほのかな薔薇色を添える。


鏡の中の彼女は、次第に「聖女リノ」へと変貌していった。あの万人を魅了し、救いを与える存在へ。


彼女は深呼吸し、胸の前に手を合わせた。


「見せてやる」彼女は小声で呟いた。「たとえそれが嘘でも、本物以上の奇跡を」


部屋の扉がノックされた。


「時間だ」ケインの声が外から聞こえる。


リノは最後に鏡の中の自分を見つめ、深くうなずいた。


彼女は扉を開け、廊下へと出た。


ケインがそこに立っていた。彼はいつもの技師用の服を着ており、手にはコントロールパネルを持っている。その顔は冷静そのものだったが、目は鋭く輝いていた。


「準備はいいか?」彼が尋ねた。


「いつでも」リノは微笑んだ。完璧な聖女の微笑みだ。


ケインはわずかにうなずき、礼拝堂へ向かう道を先導した。


廊下を進むにつれ、領民たちのざわめきが次第に大きくなっていく。祈りの声、ため息、期待に満ちた囁きが混ざり合い、城全体を包み込んでいる。


礼拝堂の入口で、ケインが立ち止まった。


「私の指示に従え」彼はもう一度念を押した。「そして信じろ。私たちの技術は完璧だ」


「信じてるよ」リノは本当にそう思っていた。「あなたのことは、いつも信じてる」


ケインは一瞬、何か言おうとしたが、結局ただうなずくだけだった。


彼は脇の小扉へと消え、バックステージへと向かった。


リノは大きな両開きの扉の前に一人残された。扉の向こうには、数百の領民が待ち構えている。伯爵とその側近たちも、最前列に座っている。


彼女は深く息を吸い、吐いた。


耳から、ケインの声が聞こえてきた。


「3、2、1……入場」


扉がゆっくりと開き始めた。


聖歌が流れ、松明の炎が揺らめく。


リノは微笑みを浮かべ、一歩を踏み出した。


聖女の登場だ。


---



礼拝堂は、リノがこれまで見たどの舞台とも違っていた。


高い天井からは巨大なシャンデリアが下がり、数百本の蝋燭がゆらゆらと揺れている。色あせたステンドグラスは外の闇に溶け込み、代わりに壁に設置された松明が不規則な影を投げかけていた。石造りの空間には、湿気と蝋の匂い、そして数百人の人間の熱気が混ざり合っている。


観客席には、領民たちがぎっしりと詰めかけていた。農民、職人、商人、そして最前列には伯爵とその家族、側近たち。彼らの顔は、期待と恐怖、懐疑と希望が入り混じった複雑な表情を浮かべていた。多くの者は手を合わせて祈り、中には地面にひざまずいている者もいる。


リノが入場すると、ざわめきが一瞬止んだ。


数百の目が一斉に彼女に注がれる。その視線の重みは、王都の広場での何倍も感じられた。ここでは、彼らが本気で「救い」を求めている。これは単なる見世物ではない、命がかかった祈りの場なのだ。


だがリノの微笑みは崩れなかった。彼女はゆっくりと祭壇へと歩みを進め、聖衣の裾が石畳を滑る音だけが静かな礼拝堂に響く。


祭壇の前で彼女は立ち止まり、両手を広げた。


「迷える子羊たちよ」彼女の声は、聖衣に内蔵された増幅器を通じて、礼拝堂の隅々まで響き渡った。「恐れることはない。聖なる炎は、汝らの罪を焼き清め、闇を追い払うであろう」


それは完全に演技だった。彼女が何年も磨き上げてきた、聖女としての台詞と振る舞い。だが今夜、それらはこれまで以上に力を持っているように感じられた。観客たちの息づかいが変わり、祈りがより熱を帯びる。


バックステージで、ケインが最初の指示を出した。


「ステージ1、開始。炎の視覚効果、3秒後に起動」


リノは目を閉じ、祈るようなポーズを取った。


3秒後――


祭壇の周囲に、純白の炎が噴き上がった。


それは実際の炎ではなく、ケインの装置が作り出した光と煙の幻影だ。【地脈熱線干渉器】 が地下の熱を検知し、【熱可視化粉塵】 と組み合わせることで、本物と見紛うほどの炎の柱を作り出している。観客席からは熱風が感じられ、実際に温度が上昇しているように錯覚させる。


「おお……!」


感嘆の声が上がる。何人かの領民がひざまずき、泣き始めた。伯爵も目を見開き、期待に胸を膨らませている。


リノはその炎の中へ、一歩を踏み入れた。


【指向性断熱場発生器】 が作動し、彼女の周囲に目に見えない保護シールドを形成する。外側は高温に見えるが、内側は快適な温度を保っている。彼女の肌には、あのジェルコーティングがさらなる保護層を提供している。


「聖なる舞の開始」ケインの声が耳から聞こえる。「基本パターンA。ゆっくりと、優雅に」


リノは動き始めた。


それは、彼女が何ヶ月も練習してきた「聖火の舞」だ。ゆっくりとした旋回、優雅な腕の動き、時折炎の中から差し伸べられる手のジェスチャー。すべてが計算され尽くし、神聖さと美しさを最大限に表現するように設計されている。


聖歌隊の歌声が高まり、松明の炎が激しく揺らめく。礼拝堂全体が、一種の集団催眠状態に陥っていく。領民たちの顔には恍惚の表情が浮かび、彼らは完全に「聖女」の力に魅了されている。


だがケインのバックステージでは、状況はそれほど穏やかではなかった。


コントロールパネルの前に座るケインは、十数個の画面を同時に監視している。エネルギーレベル、装置の状態、環境データ、そしてリノのバイタルサイン。


最初の数分は順調だった。すべての数値が予想範囲内に収まっている。


だが、儀式が十分ほど経過した頃、最初の異常が現れた。


「おかしい」ケインは眉をひそめた。


画面の一つに、環境エーテル濃度のグラフが表示されている。通常なら安定しているはずの数値が、微かに変動し始めている。上がったり下がったりを繰り返し、まるで何かが呼吸しているかのようだ。


「地脈の不安定か?」彼は独り言を呟き、調整を始めた。


しかし、変動は次第に大きくなっていく。エーテルの流れが、礼拝堂の特定のポイント――地下牢の真上あたり――で乱れ始めている。


ケインの指がパネルの上を速く動く。彼は【地脈熱線干渉器】 の出力を微調整し、外部のエーテル乱流による影響を最小限に抑えようとする。


その時、二つ目の異常が起きた。


【指向性断熱場発生器】 の表示が一瞬赤く点滅した。


「何だ?」ケインの声に緊迫感が走る。


断熱場の周波数が、外部からの何か――おそらくはあのエーテル乱流――によって干渉を受け始めている。シールドの安定性がわずかに低下し、熱の漏れが発生するリスクが高まっている。


ケインは額に汗をかき始めた。彼の両手はパネルの上を駆け巡り、アルゴリズムの再計算を開始する。


「リノ、少し動きを遅くしろ」彼は通信器を通じて指示を出した。「特に右側への移動を控えろ。そちらのシールドが弱い」


炎の中のリノは、ほとんど気づかないほど微かにうなずいた。彼女の動きがわずかに遅くなり、右側への旋回を避け始める。


観客には何も変わったように見えない。彼らにとっては、聖女の舞がより瞑想的になっただけだ。


だがケインの問題はさらに深刻化していく。


エーテル乱流は次第に強まり、礼拝堂全体に広がり始めている。それは単なる自然現象ではない。何かが――おそらくは地下に閉じ込められていたあの「何か」が――目覚め、その力を発散させ始めているのだ。


「くそっ」ケインは稀に見る罵声を吐いた。


断熱場発生器の警告表示が消えない。周波数干渉はますます激しくなり、シールドの一部で実際に熱の漏れが発生し始めている。モニター上では、リノの足元の温度がわずかに上昇している。


ケインは迅速に判断を下した。


「バックアップシステム、起動」彼はスイッチを切り替えた。「冷却装置、最大出力へ」


礼拝堂の床下では、隠された冷却パイプが作動し始める。冷気がリノの立つ位置へと送られ、漏れ出した熱を相殺しようとする。


同時に、ケインは断熱場の周波数を急速に変更し、干渉を回避しようと試みる。彼の指は幻影のように動き、複雑なアルゴリズムをリアルタイムで書き換えていく。


しかし、エーテル乱流は予測不可能なパターンで変化する。まるで生き物のように、ケインの対策を回避し、新たな干渉を生み出していく。


炎の中のリノは、初めて異常を感じ始めた。


最初はかすかな違和感だった。右足の裏が、ほんのりと温かい。ジェルコーティングを通して伝わる、微かな熱さ。


彼女は動きを止めず、微笑みを保ったまま、ケインに小さな合図を送った――首をわずかに左右に振る。


バックステージで、ケインの目が険しくなる。


「わかった。状況を把握している」彼の声は冷静を保っているが、リノにはその緊張を感じ取れた。「今、修正する。もう少し耐えろ」


ケインは最終手段に打って出た。


彼はメインシステムの一部をシャットダウンし、全く新しい周波数パターンで断熱場を再構築し始めた。それは極めて危険な作業だ。一瞬でもシールドが完全に消えれば、リノは本物の炎に包まれることになる。


彼の額から汗が滴り落ち、パネルの上に小さな水たまりを作る。両手は痙攣するほど速く動き、コードを書き、設定を変更し、システムを再起動する。


「3、2、1……再起動!」


一瞬、礼拝堂の炎が揺らめいた。


観客たちは息を呑む。聖女の周囲の炎が、一瞬色を変えたように見えたからだ。純白から青みがかった白へ、そして再び純白へ。


その瞬間、リノは明確な熱さを感じた。


右足の裏が、一瞬だがはっきりと焼けるような痛みを覚えた。まるで熱い石板の上を裸足で歩いたかのようだ。


彼女は思わず眉をひそめそうになったが、寸前でこらえた。代わりに、彼女は目を大きく見開き、天を仰いだ。


「ああ、聖なる炎よ!」彼女の声は、これまで以上に力強く響いた。「我が身を贖いの犠牲として捧げん!」


それは完全なアドリブだった。計画にはない台詞だ。


だがその効果は絶大だった。領民たちは泣き崩れ、伯爵さえも目に涙を浮かべている。彼らには、聖女が自らを犠牲にしようとする崇高な行為に見えた。


バックステージで、ケインはほっと息をついた。


モニター上の数値が安定し始めている。新しい周波数パターンがエーテル干渉に耐え、断熱場は再び完全な保護を提供している。リノの足元の温度も、安全圏内に戻った。


「……よくやった」彼は通信器を通じて小声で言った。「あのアドリブ、効果的だった」


炎の中のリノは、微かにうなずいた。彼女の足の裏はまだヒリヒリしているが、痛みは和らいでいる。


「儀式、最終段階へ移行」ケインが指示を出す。「30秒後、炎を最大出力に。その時、舞のクライマックスを」


リノは深く息を吸った。彼女は両腕を天へと伸ばし、ゆっくりと旋回を始めた。聖衣の裾が炎の中で翻り、光の粒子が彼女の周囲に舞い散る。


観客たちは完全に無言になった。息を殺して、聖女の最後の舞を見守っている。


ケインは最終スイッチに手をかけた。


「5、4、3、2、1……フルパワー!」


礼拝堂全体が光に包まれた。


祭壇の炎がこれまでの倍の高さに噴き上がり、天井まで届かんばかりだ。光と熱(の錯覚)が空間を満たし、ステンドグラスを震わせる。聖歌隊の歌声は最高潮に達し、松明の炎が激しく踊る。


その中心で、リノは最後のポーズを取った。


彼女は片膝を立て、もう一方の足を後ろに伸ばし、両手を胸の前で組み合わせた。目は優しく閉じられ、顔には至福の微笑みが浮かんでいる。


炎が次第に収まり始める。高くそびえ立っていた炎の柱が低くなり、やがて祭壇の周囲の小さな炎へと戻っていく。


最後の炎のひともきが消えると、礼拝堂は深い静寂に包まれた。


そして、拍手が起こった。


それは最初は小さく、やがて嵐のように大きくなっていく。領民たちは立ち上がり、泣きながら拍手し、叫び声を上げる。伯爵も立ち上がり、感動に震えている。


「奇跡だ……まさに奇跡だ!」彼は叫んだ。「聖女閣下!あなたは我が領地を救ってくださいました!」


リノはゆっくりと立ち上がり、観客たちに微笑みかけた。彼女の顔は汗で光っており、聖衣も所々が汗で湿っているが、それはすべて演技の一部に見える。


「闇は去りました」彼女の声は穏やかだが、確信に満ちていた。「この地は、再び清められました」


さらに大きな歓声が上がる。


バックステージで、ケインは椅子に深くもたれかかり、深く息をついた。彼の手は震えており、額は汗でびっしょりだ。


モニターを見ると、エーテル乱流はまだ完全には消えていない。むしろ、何かが――怒り狂い、傷つき、しかしまだ力を持つ何かが――地下でうごめいているように感じられる。


だが少なくとも今、儀式は成功した。観客たちは満足し、伯爵は喜んでいる。


ケインは通信器のスイッチを入れ直した。


「よくやった、リノ」彼の声には、わずかながら称賛の色がにじんでいた。「これで終わりだ。ゆっくり退場しろ」


礼拝堂で、リノは観客たちに最後の祝福を与え、ゆっくりと出口へと歩き始めた。領民たちは道を開け、中には彼女の裾に触れようとする者もいる。


彼女は微笑みを保ち、歩みを止めない。


だが心の中では、一つの疑問が渦巻いていた。


あの熱さは何だったのか?


あの一瞬の焼けるような痛みは、単なる装置の不具合なのか?


それとも……


彼女は振り返らず、礼拝堂を出ていった。


廊下に出ると、彼女はようやく深く息を吐いた。聖女の表情が消え、代わりに疲労と安堵が顔に浮かぶ。


耳からケインの声が聞こえる。


「すぐに部屋に戻れ。ジェルの除去と健康チェックが必要だ」


「わかった」リノは小声で答えた。


彼女は城の廊下を歩きながら、そっと右足をかばうようにした。靴底を通して、まだ微かにヒリヒリとした痛みが残っている。


窓の外では、領民たちが城を後にし、松明の列が村へと続いている。彼らの笑い声と祝いの歌が、夜の闇に響き渡る。


儀式は成功した。


少なくとも、表面上は。


だがリノの心には、小さな不安の種が植え付けられた。あの炎の中での一瞬の痛みが、何かを予感させるようだった。


何かが、まだ終わっていないことを。


彼女は部屋の扉を開け、中へと入った。


ドアが閉まる音が、空洞のように響いた。


---



城の部屋に戻ると、リノはすぐに聖衣を脱ぎ始めた。重い衣装を一つ一つ外していくにつれ、彼女の体からは汗の蒸気が立ち上った。部屋の空気が冷たいため、肌が鳥肌立つのを感じた。


「早くジェルを落とせ」ケインが入ってくると、すぐに指示を出した。彼はいくつかの瓶と道具を持っており、顔は依然として緊張していた。「時間が経つほど、肌への浸透が進む」


リノはうなずき、用意された洗面器の前に座った。ケインが特別な溶剤を混ぜ合わせ、スポンジに浸す。


「背中から始める」彼は言い、リノの背中にスポンジを当てた。


冷たい液体が肌に触れると、ジェルが溶け始める。ねっとりとした膜が剥がれ落ち、通常の肌が現れる。しかし……


「あっ」リノが小さく声を上げた。


背中の一部が、赤く炎症を起こしている。ジェルが不均一に塗られていた部分だ。


「予想通りだ」ケインは冷静に言い、別の瓶から軟膏を取り出した。「軽い化学熱傷だ。一晩で治る」


彼は軟膏を注意深く塗りながら、尋ねた。「儀式中、何か感じたか?特に熱さや痛みは?」


リノは一瞬ためらったが、正直に答えた。「右足の裏が、一瞬焼けるように熱くなった。ほんの一瞬だけど」


ケインの手の動きが止まった。


「いつ頃?」


「炎が一番高くなった時。あの色が変わった直後」


ケインは黙り込んだ。彼はジェルの除去を続けながら、頭の中で計算を巡らせている。


すべての除去が終わると、ケインはリノに清潔なローブを渡し、自分はコントロールパネルを開いた。儀式のデータを再生し始める。


「ここだ」彼は一つの画面を指さした。「この時、断熱場の周波数干渉がピークに達している。外部からのエーテル乱流が、シールドを17%低下させた」


彼は別のデータを表示した。「そしてこれが、あなたの立っていた地点の温度記録。この瞬間、摂氏65度まで上昇している。ジェルコーティングの限界は300度だが、長時間の曝露は想定していない」


リノはその数字を見つめ、背筋が寒くなった。


「65度……それでやけどしなかったの?」


「コーティングが保護した」ケインはうなずいた。「だが、もしあの状態がもう数秒続いていたら、実際の火傷を負っていただろう。ジェルの限界時間は5秒だ。あなたが感じた熱さは、ちょうどその限界に達しつつあった警告だ」


彼は画面を閉じ、振り返ってリノを見た。


「礼拝堂の地下では、何かが起きている。単なる地脈の不安定ではない。何かが――意識を持ち、意思を持つ何かが――私たちの儀式に反応している」


「あの……悪魔?」リノの声が小さくなる。


「可能性が高い」ケインは立ち上がり、窓の外を見た。「エーテルの乱流パターンは、生物の脳波に似ている。興奮、怒り、痛み――そうした感情に対応する波形が検出されている」


彼は深く息を吸った。「問題は、それがなぜ今、活性化したかだ」


「私たちの儀式のせい?」


「そうだろう」ケインはうなずいた。「『聖火』は単なる見せ物ではない。少なくともこの土地では、何らかの実在の力を持っていた。あるいは、持っていると信じられていた」


彼はリノの方へ歩み寄り、真剣な表情で言った。「私たちは、彼らが信じる『聖なる力』を模倣した。そしてその模倣が、本物の『闇』を刺激してしまった可能性がある」


部屋に重い沈黙が流れた。


遠くから、領民たちの祝宴の声が聞こえてくる。彼らは「聖女」の勝利を祝い、酒を酌み交わし、歌を歌っている。


その喧騒が、この部屋の緊張を一層際立たせる。


「どうするの?」リノが小声で尋ねた。


「まず、伯爵と話す」ケインは決断した。「彼は何かを隠している。地下牢の星砂、あの変色した石――彼はもっと知っているはずだ」


「でも、もし彼が本当に何も知らなかったら?」


「それなら、私たちはこの城を離れるべきだ」ケインの声は冷たく、現実的だった。「報酬は諦める。命には代えられない」


リノは唇を噛んだ。三百九十金貨――それは彼女にとって、単なる大金ではない。貧民街の子どもたちの命をつなぐ命綱だ。


「もう少し……調べてみられないの?」彼女は必死に言った。「もしかしたら、何か別の説明があるかもしれない。自然現象の可能性だって……」


「自然現象は、意識を持たない」ケインは彼女を遮った。「あのエーテル乱流には、明らかな意図が感じられる。私たちの装置を妨害し、あなたを傷つけようとする意図が」


彼はリノの前にひざまずき、彼女の目をまっすぐ見つめた。


「リノ、聞け。金はまた稼げる。しかし命は一つだ。もし本当に悪魔のようなものが地下に潜んでいるなら、私たちが対処できる範囲を超えている」


彼の目には、珍しく心配の色が浮かんでいた。それは、単なる共同作業者としての心配以上のものだ。


リノはその目を見つめ、ゆっくりとうなずいた。


「わかった……あなたの言うとおりにする」


ケインはほっとしたように息をつき、立ち上がった。


「今から伯爵を訪ねる。あなたはここで休んでいろ。ドアに鍵をかけ、誰が来ても開けるな」


「でも、もし伯爵が……」


「私が何とかする」ケインの声には確信があった。「少なくとも、脱出の準備はできている。必要なら、今夜中にここを離れられる」


彼は小さな装置をリノに手渡した。「非常用通信機だ。もし何かあれば、このボタンを押せ。私はすぐに戻る」


リノはそれを握りしめ、うなずいた。


ケインは最後に彼女を見つめ、部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、不気味に響く。


リノは一人部屋に残され、窓の外の闇を見つめた。


祝宴の灯りが遠くにちらつき、笑い声が風に乗って聞こえてくる。しかしその明るさの向こうには、深い闇が広がっている。城の地下には、何かが目覚め、うごめいている。


彼女は胸の徽章を握りしめた。


「大丈夫」彼女は自分に言い聞かせた。「ケインが何とかしてくれる。いつも通りに」


しかし心の奥では、小さな声が囁いていた。


もし今回だけが、いつも通りではないとしたら?


もし彼らの嘘が、本物の闇を呼び覚ましてしまったとしたら?


リノは目を閉じた。


遠くで、何かが唸るような音が聞こえたような気がした。


あるいは、それは単に風の音かもしれない。


だが彼女には確信があった。


何かが、城の地下で動き始めている。


そしてそれは、彼らが制御できるものではないかもしれない。


窓の外では、祝宴の灯りが一つ、また一つと消えていった。


夜の闇が、すべてを飲み込もうとしている。


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