四章 その二
ロザリアの家は、リュミエールの一画、表通りの中心に建っている。
遠くからでも目を引くほど大きい屋敷は、白い壁と青い屋根が町の景色に溶け込むように静かに佇んでいた。
廊下には古い木の匂いが残っている。
壁に掛けられた絵も、重い調度も、すべてが長い時間を抱え込んでいるようだった。
足を動かす度に低く軋む廊下を進み、ロザリアは書庫へ向かっていた。
この家は、ずっと昔からここに立っている。
書庫の奥には、まだ知らない過去が眠っているかもしれない。
ロザリアが書庫の奥を漁っていると、古い日記帳のようなものが目に留まった。
埃を被った表紙を開くと、過去の記録が記されていた。
内容を遡って確認すると、今から五十年ほど前、この町に水路の建設が始まったことが書かれていた。
「水路って元々あったものじゃなかったのね……」
小さく呟いた言葉は本棚の奥に吸い込まれていった。
それよりも前に遡ると、いきなり五年ほど年代がとんでいた。
おおよそ一年刻みで記されていた日付が、そこだけ不自然に途切れていた。ロザリアはその空白を指先でなぞる。
ずっと前まで遡っても、やはり一年ほどの刻みで記されている。
その五年分の空白だけが、思考の端に小さな棘のように残った。
何度見返しても、そこで視線が止まるのだ。
「……私はそう思うのよね。だって怪しすぎるじゃない。ここ以外は全部一年くらいの刻みで書かれているのに……」
シオンの会社の五階で、日記帳を広げながらロザリアは眉をひそめた。
ロザリアの隣にはルミエラ、反対側にはシオンがいた。
彼等は一つの大きな机を囲うように椅子に腰かけていた。
「これより前の記録には、少なくとも水路の話なんて一度も出てこない」シオンはゆっくりと日記を遡る。「それなのに、ここから急に……」
「私も、お二人と同じ意見です。空白の五年間で何かがあったのだと思います」
今から五十年前。
三人が産まれる前の出来事。
「お爺様に聞いてみたんだけど、教えてくれなかったの。だからやっぱり五十年前に何かあったのは確実だと思うのよ」
「教えてくれなかったというのは、どういう感じで?」
ルミエラが訊くと、ロザリアは思い返すように顎の下に手を置いた。
「『そんな昔のことは覚えていない』って感じだった。でも、私が『水路に何か秘密があるの?』って聞いたら、『何も知らない』って言われたわ」
「『覚えていない』のに『知らない』……」
シオンが日記帳に目を落とす。
そういえば、『水路の底の秘宝』という噂が流れ始めたのは、確か十年前のことだった。
シオンの脳裏にはある光景が蘇る。
水かさが減った水路。ぼんやりと白紫に光る運河。
目撃した人々は、自分を含め、水路の秘密について深い興味を抱いたものだ。
だが、あの事件の直後、シオンは自分の祖母から言われたのだ。
「絶対に、何があっても、水路をなくしてはいけないよ」――と。
理由は分からなかった。聞いても教えてはくれなかった。
普段は穏やかな祖母が、真剣な顔でそう言ったのがシオンは忘れられなかった。
水が引いたあとの水路を想像した。
石の壁が続くだけ。そのはずなのに、その光景が頭から離れない。
この町の水路も、他の町の水路と変わらない。
そう言い切れるはずなのに、あの日の光だけが、頭の片隅にずっと残っていた。
『水路』という言葉だけが、耳の奥で何度も残響した。
「……水路に秘密が隠されているわけではない……?」
シオンが独り言ちるようにこぼしたその言葉は、ルミエラとロザリアの耳にも入った。
「どういうこと?」ロザリアがすかさず聞き返すと、シオンは十年前の話を始めた。
その出来事はロザリアも心当たりがあった。
自分は直接見たわけでは無いが、しばらくの間話題になり続け、それから『水路の底の秘宝』という噂が流れ始めたのだ。
「そういえば、この町の治安が悪くなったのもあの出来事が起こってからだったかしら。色々な場所から賊が集まってきて、裏通りを歩けなくなって……」
ロザリアの目には憂いが浮かんでいた。平和だった昔を懐かしむように、ふうと小さく息を吐いた。
「シオンさんが言ったことについてですが……」机に視線を落としながらルミエラが口を開いた。「この町に来てから、ずっと気になっていたことがあったんです」
「気になっていたこと?」
シオンが聞き返すと、ルミエラは一度頷いた。
「水路は何の変哲もない。でも『水路の底には秘宝が埋まっている』という噂が流れている。この『水路の底』っていうのは、本当は水路の底のことではないんじゃないかって……」
「水路の底のことでは、ない?」
シオンとロザリアが同時に聞き返し、首を傾げた。
「ええと、まずシオンさんは、十年前に運河が光るところを見たんですよね?」
「はい。確かに見ました」
しっかり頷いたシオン。ルミエラは顎の下に手を当てながら日記帳に視線をやる。
「でも、水路自体は何の変哲もない。私もこれは正しいんじゃないかと思います」
「……つまり、水路自体には変わった仕掛けは無い、ということですか?」
「恐らく……」
控えめにルミエラが頷いた。「なら、あの日白紫に光ってたっていう運河は何だったの?」とロザリアが顔を上げてルミエラを見る。
「もしかして……」シオンが睨むように日記帳を凝視する。「水路の下に、何かが埋まっている……?」
水路の下。
水路の底について考えることはあっても、下について考えたことはなかった。
ロザリアはシオンとルミエラの顔を交互に見る。二人とも神妙な顔で日記帳へ視線を向けていた。
「で、でも、水路の下っていったって、どうやって確認するの?」
「水路に水があるうちは確認できないでしょうね」そこまで口にして、シオンの目線がふと宙に浮いた。
「水があるうち……?」
そう繰り返したロザリアは、一瞬の沈黙の後、はっとシオンに視線が向いた。
「十年前、この町は水不足に陥って水路の水かさが減った、と町の人から聞きました。そのときに、あの光が目撃されたんでしたよね?」
ルミエラがシオンとロザリアに視線を向けると、頷きが返ってきた。
「水がなくなれば、『秘宝』の正体が分かるってことね!?」
勢いよく椅子から立ち上がったロザリアが、窓の外へ顔を向ける。五階のここからでは運河の対岸にある建物がメインで、運河自体はほとんど見えない。
そのとき、外から「うわっ!?」「何これ!?」と悲鳴のような声が聞こえてきた。
「何? どうしたの?」
窓に駆け寄ったロザリアは、下を覗き込んで、目に飛び込んできた光景に釘付けになった。
ルミエラとシオンも後に続いて、同じように下を覗き込んで固まった。
運河の水かさが引いている。
少しずつ少なくなっている。
そして何より――
白紫の光が、水路の底から溢れている。
不気味なのに、綺麗で目が離せない。誰もが目を奪われて言葉を失った。




