四章 その一
あの夜の騒動から数日が経過したある日、ルミエラはロザリアに連絡を取っていた。
前に一緒に入った、あのレストランを待ち合わせ場所に指定し、ルミエラはホテルを出て早足で向かっていた。
この町の水路には絶対に何かがある。
ルミエラはそう確信していた。だが、具体性はない。
この数日で独自に集めた情報を整理しながら、ルミエラが待ち合わせ場所に到着すると、既にロザリアの姿があった。
「ごめんなさい、待たせましたか?」
ルミエラがロザリアに駆け寄って眉を下げる。ロザリアは「待ってないわ。時間ちょうどだから気にしないで」と無意識に力んでいた手の力を抜きながら答えた。
「何か困ったことでもあったの?」
ロザリアが尋ねると、ルミエラは静かにかぶりを振る。
「一緒に行きたい場所があったんです。……駄目でしたか?」
「全然、駄目なんかじゃないわ!」食い入るようにロザリアは言って、はっとしたように肩をすくめて視線を逸らした。「そ、それで、行きたい場所って?」
「こっちです」
ルミエラが運河の対岸を手で指し、歩き出した。ロザリアも後に続く。
ロザリアの中にはこの町の景色が色鮮やかに影を残していたが、今歩いている辺りは普段あまり近寄らない場所だったため、影の色がどこか薄れている気がした。
記憶にある影とあまり変わらないことに小さく胸をなで下ろしつつ、静かにルミエラの後を追っていたロザリアは、ルミエラが突然立ち止まって「ここです」と建物に入っていってしまったので、その場に立ち尽くしたまま半開きの口で建物を見上げていた。
その建物は、シオンの会社だった。
「ちょっと、どういうこと?」咄嗟にロザリアが口を開くが、既にルミエラの姿はガラス扉の向こうにある。
ロザリアは、震える手を握り締めて、一歩ずつガラス扉に近付き、恐る恐る扉を開けると、忍び込むように建物内へと足を踏み入れた。
「どういうことなの?」
エレベーターの中で、ロザリアがルミエラに小声で話しかける。少し震えが残る声だった。
ルミエラはそっとロザリアの肩に手を置いて、「大丈夫ですよ、そんなに緊張しなくても」と優しく頷いた。
緊張しているのは本当だったが、ロザリアが訊きたいのはそんなことではない。
「そういうことじゃなくて――」
口を開いたとき、チンと音が鳴ってエレベーターが停止した。
五階に着いたのである。
机の向こうの影が「ルミエラさん、お待ちしていました」と立ち上がる。
「こんにちは、シオンさん」
ルミエラが小さく頭を下げて、歩き始める。シオンはそんな彼女の後ろに、慌ててエレベーターから降りた、ルミエラよりも小さい影を見つけて、一瞬だけ言葉を失った。
「ご、ごきげんよう……」
ぎこちない笑顔を浮かべ、ぎくしゃくとロボットのように頭を下げたロザリアに、シオンの視線はルミエラとロザリアの顔を往復した。
「……ごきげんよう」
シオンがロザリアにそう返すと、ロザリアはゆっくりとルミエラの後ろに移動して、隠れるように立ち止まった。
誰も口を開かないまま、時間だけが経過する。
空気が少しずつ重くなっていく。しかし、シオンとロザリアは声を出せなかった。
ロザリアの体が小さく震え出したとき、ルミエラが「お二人って仲が悪いんですか?」と後ろにいるロザリアに視線を向けてからシオンに向き直った。
「仲が悪いというよりは……」ようやく口を開いたシオンが、ルミエラの後ろに目をやる。ロザリアと一瞬だけ視線が交わってすぐに逸らされた。
「今まで、まともに関わったことがないので……距離感を掴みかねている、というのが正しいでしょうか」
ルミエラが振り返ってロザリアを見る。
「わ、私も……その、同じ感じ。シオンのことは……噂でしか聞いたことがないし……」
ルミエラは少し首を傾げてから、小さく頷いて、ロザリアの後ろに回り込んだ。
そして彼女の肩に優しく手を置いた。
隠れる場所がなくなったロザリアは、そっと視線を上げて、すぐに落とした。
服の裾を握り締める手が小さく震える。
ルミエラは何も言わない。
沈黙に後押しされて、ロザリアはゆっくりと顔を上げた。
「シオン……貴方は、この町を、どう、思っているの?」
ぎこちなく口を開いたロザリア。シオンは一瞬だけルミエラを見て、すぐに視線を下に向け、ロザリアと目を合わせる。
「『水路の底の秘宝』、この噂を絶ちたい。この噂のせいで賊が増え、結果……巻き込まれるのは、いつも関係のない人達ですから」
ロザリアは、しばらく何も言わなかった。
微かに震える指先が、握っていた裾をゆっくりと離す。
「……そう、思っていたのね。私はてっきり……」
ほんの少しだけ息を詰めたロザリアを、シオンが静かに見下ろす。ロザリアは「なんでもないわ」と小さくかぶりを振って、今度はしっかりとシオンを見上げた。
「私は、この町の治安の悪化を防ぎたい。昔のように、昼間でも裏通りを歩けるようにしたい。この町に住む住民が、そして観光客が、裏通りに怯えることなく過ごせるように……」
「……なるほど。確かに、俺と彼女……ロザリアさんが目指しているものは同じなのかもしれません」
シオンは静かに頷いた。
「水路がいつからあるのか、どうしてできたのか……。そういった歴史を知れれば、この町を良くしたいというお二人の思いに答えられるかもしれないんです」
ルミエラは一度視線を落とし、それから二人をまっすぐ見据えた。
「そうですね、俺も同じ意見です。ロザリアさんはどうですか?」
シオンの真っ直ぐな視線を受けて、ロザリアはルミエラに一瞬目を向けた後、小さく息を吐いてからシオンを見た。
「……私も、同じよ。確かに、裏通りの賊達をどうにかしたいと思うなら、貴方に話を聞くのが一番早かったかもしれないわ」
「はは、俺も水路についての情報を集めたいなら、この町一番の有力者である貴方に話を聞くべきだったと思っています」
「有力者なのは私じゃなくてお父様なんだけれど……」ロザリアが小声で呟いた。
「確かに貴方の父上は有名な方だ。ですが、俺は貴方も父上に劣らない、立派な方だと思っていますよ。貴方が賊達をどうにかしようと町を駆けずり回っている話はよく耳に入ってきますし」
「なっ……」ロザリアの目が見開かれる。「貴方、私のこと、そんな風に思っていたの?」
「ええ。若くして立派な方だ、と。まさか、このように直接伝える日が来るとは思っていませんでしたが」
「それは……私だってそうよ。こんな風に貴方と直接話す日が来るなんて……。貴方が想像していたよりも、その……普通の人で、驚いているわ」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
シオンとロザリアが打ち解けたように話しているのを、静かに傍観していたルミエラは、話がひと段落着いたときに「では、明日からはここで情報交換しませんか?」と提案した。
「情報交換?」首を傾げたロザリアに、ルミエラは小さく頷いて返した。
「私と、シオンさんと、ロザリアさん。それぞれ得られる情報が違うと思うんです。違う側面から情報を集めたほうが、分かることが多いんじゃないかなって」
「そうですね、俺は賛成です」シオンは大きく頷いた。「俺とロザリアさんとルミエラさん、立場はそれぞれ違いますが、だからこそ色々な情報が集まる」
「私も……それでいいわ」控えめにロザリアが頷いた。「役に立つような情報が得られるかは分からないけれど……色々やってみる。家の書庫も漁ってみようかしら」
「それじゃ、決まりですね。また明日から、よろしくお願いします」
深々と頭を下げたルミエラに、慌ててロザリアが「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。
釣られるように、シオンも頭を下げた。
頭を上げたルミエラは、ロザリアと共に会社を後にし、そのまま二人でレストランに向かってから解散した。
食事が終わる頃には日が沈んでいて、雲一つない空に丸い月が浮かんでいた。
ルミエラは一人、空を見上げて、視線を運河に落とす。
水面に揺れる満月は、輪郭を崩しながら静かな輝きを放っていた。




