二章 その一
ホテルに戻って一晩を明かしたルミエラは、エントランスから外に出て、腕と背筋をゆっくりと伸ばした。
まだ陽は高すぎず、白い建物の壁をやわらかく照らしている。
水路に落ちる光は眩しすぎず、朝の澄んだ空気の中で静かに揺れる。
ルミエラは名刺を片手に、夜の名残をまだ体に残したまま、町を歩き始めた。
記載されている住所はホテルからはやや遠い。時折聞こえる鳥達の声に耳を傾けながら、ゆっくりと大通りを進む。
この時期の朝は空気が少し冷たいが、柔らかな陽射しを浴びていると寒いとは感じなかった。
この辺りの景色は、まだ彼女の記憶になかった。朝から開いているレストランやカフェがちらほらと並び、どこに入ろうかとルミエラが看板に近寄っていったとき、空気のように澄んだ声が耳に入ってきた。
「貴方達、そこで何をしているの?」
ルミエラは思わずそれが聞こえた方角へ体を向けていた。ここから少し離れた場所、運河の向こう側で、人が集まっているようだった。
ここからではよく見えないが、黒い服を着た集団の前に、ひときわ明るい色が立っていた。
彼等をよく見ようと、ルミエラは静かに運河の近くまで歩み寄った。
「ロザリアお嬢様、ごきげんよう。見ての通り、我々は『観光都市開発』の社員ですよ。会社に入ろうとしていたのです」
男のような低い声が聞こえた。なんとなく、ルミエラはその声に聞き覚えがあるような気がした。
「そう。朝からご苦労なことね」
ロザリアはその集団を睨むように見上げながら、鼻を鳴らした。
「でも貴方達、見かけない顔だけど? 『観光都市開発』はいつの間にこんな大勢を雇ったのかしら」
鋭い視線を集団に向けながら、ロザリアは一人一人の顔を辿った。見覚えのない顔ばかりだった。
「『観光都市開発』は人手不足なんですよ。この町の開発を進めたくても、実行する人間がいないんだとか」
低い声がそう言った。静かに言い分を聞いていたロザリアは、小さく息を吐いて、「……貴方達、つくならもっとマシな嘘をついたらどう?」と肩をすくめる。
「『観光都市開発』が人手不足なんて聞いたことがないし、新しく人を雇う予定もないと言っていたわ。もう一度だけ聞く。貴方達、そこで何をしているの?」
集団の一人が小さく舌打ちをした。ロザリアが携帯電話を取り出そうとしたとき、集団は身を翻して一目散に逃げ去った。
「あっ、ちょっと待ちなさい!」
ロザリアが声を上げるが、集団は建物の隙間へと逃げていき、すぐにその姿が見えなくなった。
何だったのだろうと、ルミエラは一人その場に残されたロザリアに視線を向ける。
住民同士のトラブル、そんな気もした。
先程見た出来事を頭の片隅に追いやって、ルミエラは再度看板に近付き、内容をじっと目で追う。
この店はパンがメインのようだ。隣はパンケーキ。更にその隣はサンドイッチ。
大通りの端で立ち止まり、しばらく頭を捻った後、音を鳴らしたお腹を片手で押さえて、足を進ませる。
ルミエラが手を掛けたのはサンドイッチの店の扉だった。




