一章 その一
「だから、水路の埋め立てなんて絶対に反対だって!」
表通りの喧騒の中、一際目立つ声が上がった。
そこには、皴ひとつないスーツを着た男と、そんな男の行く手を阻むように立ちはだかった、Tシャツやゆるいズボンを履いた地元住民達がいた。
「これは『観光都市開発』として決まったことです」
拳を握り締め、怒気を波のように立ち上げて取り囲む住民達とは対照的に、淡々とそう告げた男の顔は、澄み切った湖のように動かなかった。
通りを歩く人々や、テラスから顔を覗かせる人々は、なんだなんだと視線を向ける。
人目もはばからず、「誰がいつ決めたって!?」とまくし立てながら、住民は男に掴みかかるように距離を詰めた。
「あの……、どうされたんですか?」
そのとき、背後から声がした。
「あぁ!?」
勢いよく振り返った住民は、その場に静かに立っていた女を見て、言葉を失った。
あれだけうるさかった喧騒が、一気に静まり返った。
建物の間を風が通り抜ける音だけが聞こえる。
「……あの?」
困惑したように女が首を傾げると、住民は「いや、何、お嬢さんには関係のない話だ」と髪を撫でつけながら言って、意味もなく咳ばらいをした。
「水路の埋め立てがどうとか聞こえたんですが……」
女が続けて尋ねた。
「ああ、そういえばそうだった。とにかく、俺達は反対だからな。余所者が勝手なことをするんじゃない。まあ、君に言っても仕方がないのかもしれないがね」
先程まで掴みかかりそうだった住民は、気まずそうに男に向き直った。
男は女に静かに会釈した。
「我々はこの町を良くしようと考えているのです。目指す場所は貴方方と同じ。どうかご理解いただけますよう」
言い残して、住民達の隙間から男は早足に立ち去った。
男の背中に視線を向けていた住民達は、「すみません」と声を掛けてきた女に視線を向けて、すぐに逸らした。
そうして「ええと、どうしたんだい?」と先程よりも幾分か落ち着いた声で聞き直した。
「私、初めてこの町に来たんです。とても素敵なところだなあって思って……、それで、この町にはあちこちに水路があるじゃないですか。だから、この町と水路の繋がり……そういうのが気になっちゃって、でもこの町は観光客が多いから、誰に聞けばいいんだろうって悩んでいたんです。そうしたら貴方達の声が聞こえてきたので、地元の方なのかなって」
日を浴びて煌びやかに輝く町中の建物や運河を見ながら女は言った。反射して眩しいくらいの輝きを放つこの町は、まさしく『光の都』だった。
この町、リュミエールには観光客が多い。皆、『光の都』という言葉に惹かれてやって来る。
人々は皆、『美しい街並み』や『運河』にレンズを向けるばかりで、その先を考えようとはしなかった。
だから、住民達は思わず顔を見合わせてしまった。
「もしかして、違っていましたか?」
女が肩を軽くすくめ、眉をわずかに下げる。
「いや、違わない。俺達は昔っからこの辺に住んでる」住民は慌てて返答した。「ここが観光地になるずっと前からな」
「この町は、昔は観光地ではなかったんですか?」
住民は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せる。
「ああ、昔はこじんまりとした綺麗な町だったよ。皆地元が大好きだった」
そう言った住民の目は、遠い過去の街並みを思い返すように、どこか遠くを見つめていた。
「その……いつからこの町は観光地になったんですか?」
女が首を小さく傾げ、頭の片隅で、失われた町の静けさを想像した。住民は「あの噂が流れ始めてからだな」と頷いた。
「あの噂?」
女が聞き返す。住民の一人が肘で隣にいた男を小突き、鋭い視線を向けたが、男はそのまま口を開いた。
「『この町の水路の底には秘宝が埋まっている』っつう、根拠も何もない噂だ」
「秘宝……」初めて耳にした。そんな噂があるなんて。女は運河に視線を向けた。風を受けてゆらゆら揺れる水面は鏡のように光を反射している。
この運河の底に、秘宝が?
光の都リュミエールの秘宝。白く輝く美しい宝石だろうか。はたまた石細工かもしれない。黄金のティアラかも……。底にあるという秘宝に思いを馳せていると、住民は「お嬢さんは観光でこの町に来たんだっけか?」と女に視線を向けた。
「はい」女が頷いた。髪が小さく揺れる。
「だったら、裏通りには近づかないほうがいい。あそこは賊の溜まり場だからな」
「賊……ですか?」
女や住民達が話している表通りからは、裏通りは視界に入らない。
立ち並ぶ白い建物の間には細い路地が通っていて、そこを奥へ進んでいくと裏通りへと出る。
通りといっても、大きな道が通っているわけではない。
細い道がいくつも交じり、迷路のようになっているそこは、建物の影になって日の光はほとんど当たらない。
昼間でも薄暗く、冷たい空気が漂っており、表通りとは対照的な場所だった。
「あそこは昼間でも暗い。おまけに人が多いここからは見えない。賊がうろつくには絶好の場所なのさ」
住民は建物に目を向けながら言った。あれらの建物の奥には、あんな空間が広がっているなど、想像できやしないだろう。
「特に嬢ちゃんみたいなのは絶好のカモになるだろうさ」
隣にいた住民が女の顔を見た。女は小さく首を傾げている。『賊』や『カモ』という言葉の意味が、まだ現実と結びついていないらしい。
「ええと……わかりました。裏通りには近づかないようにします。ありがとうございます」
女が軽く頭を下げてから顔を上げると、住民達は「いいってことよ。俺達の町、楽しんでくれよな」「良い思い出作って帰れよ」と笑顔を浮かべた。
優しく吹き流れる風が彼女達の間を抜ける。再度小さく頭を下げてから、女は住民達の元を後にし、大通りをゆっくりと歩きながら言われた言葉を思い出す。
水路の底の秘宝。
賊。
人々の笑い声が耳を掠める、光の象徴のようなこの町に、そんな湿った噂が流れているなど誰が想像できようか。
女はふと足を止め、ガラス張りの店内を覗き込む。
白を基調とした街並みに似付かわしい、パステルカラーな服が立ち並ぶ店。
ディスプレイとして飾られた服の前には、それを覗き込んでいる自分の顔が見える。
運河の水面が反射した光がきらきらと輝いている。
気になることは色々あるが、まずは目の前にあることから片付けよう。
女はガラスに近付けていた顔を離して、横を向いて手を伸ばした。
そうして白い木製の扉に手を掛けると、迷いなく扉の奥へと足を踏み入れた。




