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9-行くのは私

 雨が降っていた。


静かな、秋の長雨。空は低く、灰色に沈んでいる。


柚は、自室の机に広げたノートの上に手を置いた。

大学の卒業論文――タイトルには、こう書かれていた。


《名前を呼ぶ信仰と都市の境界性》


そのサブタイトルに、彼女は新たにこう加えた。


――母さま伝承の記録


兄・真澄にはまだ伝えていない。

けれど、今日の夜、伝えるつもりだった。


彼に隠し事はしたくなかった。

ただ、これはもう“許可を求める話”ではなかった。


    *


 夕食の時間。

兄は、普段通りに食卓を整えていた。

味噌汁から立ちのぼる湯気も、焼き魚の香ばしさも、いつも通りだった。


けれど柚は、箸を置いて言った。


「わたし、行くね」


真澄は、手を止めた。

目を伏せたまま、柚を見ない。


「……どこへ」


「母さまの家」


「やめろ」


強い語気だった。珍しく、感情がにじんでいた。


「やめない。これは、わたしの問題だよ。

 しおりとして逃げていた時間は、もう終わった」


「柚のままでいたら、戻ってこられない。……あの女は、おまえの中に棲んでる」


柚は立ち上がった。

その目は、兄のそれと同じくらい真っ直ぐだった。


「……だったら、確かめなきゃ。

 私がどこから来て、どこへ行くのか――。

 名前を取り戻した今なら、きっと、帰れる」


真澄は立ち上がり、食卓越しに柚を見つめた。


「……わかった。でも、俺も行く。おまえ一人にはしない」


「……ありがとう。お兄ちゃん」


その言葉には、かつての“妹”の声音と、いま「柚」として立つ少女の決意が入り混じっていた。


    *


 外はまだ雨。

けれど、雨音は静かに心を整える音にもなる。


秋分の夜まで、あと数時間。


柚は、かつて自分の名前を失った家へと、今度は自らの意志で向かおうとしていた。

 


それは、「声を返す」のではなく――名を超えるために。

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