表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

8-私の名前

 翌朝、詩織は目覚めた瞬間、自分の中に何かが欠けていることに気づいた。


昨日までの「自分」ではない。

けれどそれは、喪失というより、何かが戻ってきた感覚に近かった。


朝食の席。真澄はいつも通り、ふたり分の皿を丁寧に並べた。

けれど、詩織はその音にすら、微かな違和感を覚えていた。


「……しおり」


真澄の声が届いた時、自分の名前が少しだけ遠く感じられた。


「ねえ、お兄ちゃん。『本当の名前』って、わかる方法ある?」


真澄の手が止まった。

味噌汁の蒸気が揺れ、しばらくして彼は静かに言った。


「……ある。でも、思い出したらもう戻れない。おまえがここにいられなくなるかもしれない」


「それでも知りたい。

 私は私の名前を知らないまま、お兄ちゃんの妹でいるのが……怖いの」


その言葉は、真澄の心を確実に揺らした。

彼は箸を置き、深く目を伏せた。


「だったら――ついてこい。見せる」


    *


連れてこられたのは、市の外れにある古い寺院の墓地だった。

竹林に囲まれ、苔むした石碑がところどころに並んでいる。


真澄はその中の一角、誰も訪れていないような、無縁墓の前で立ち止まった。


「ここに……おまえの“前の名前”が刻まれてる」


詩織は目を凝らした。

碑には、かろうじて読み取れる文字があった。


結城 柚(ゆうきゆう)」――没年:1998年 秋分の日


「……これが、私?」


「……間違いない。おまえは結城柚という名で、あの女に連れていかれた。

でも記録上は、柚は“死んだ”ことになってる。戸籍も、痕跡も、すべて消されてる」


詩織はその名を、口の中で何度も転がした。


柚。

どこか、遠くで風が吹いたような響き。

だけど懐かしい。胸の奥にしまっていた、何かを震わせる音。


「……私、“柚”だったんだ……」


自分の輪郭が変わっていくのを感じる。

同時に、目の端に涙が滲んでいた。理由はわからなかった。


真澄は、黙ってその肩を支えた。


だが――その手の温もりが、柚にはもう、少し違うものに感じられていた。


    *


その夜、詩織――いや、柚は、再び夢を見た。

今度はかつての家。夕暮れの廊下。

かすかに、誰かの歌声が聞こえる。


「ゆう……柚ちゃん。帰っておいで……」


その声に、今は怯えなかった。

ただ、確かに愛されていた記憶が、胸に刺さった。


(あの人は、本当の母じゃない。でも……私は確かに、あの声に育てられた)


    *


翌朝。

柚は鏡の前で、自分に向かってそっと言った。


「私の名前は――柚」


その言葉に、何かが戻ってきた。


扉の向こうから兄の声がした。


「……詩織。起きてるか?」


柚は少し微笑んで、答えた。


「うん。でもね、お兄ちゃん――

 今日から、私の名前は柚だよ」




沈黙があった。長い、重い沈黙。

やがて、その向こうから、絞り出すような声が届いた。


「……わかった」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ