8-私の名前
翌朝、詩織は目覚めた瞬間、自分の中に何かが欠けていることに気づいた。
昨日までの「自分」ではない。
けれどそれは、喪失というより、何かが戻ってきた感覚に近かった。
朝食の席。真澄はいつも通り、ふたり分の皿を丁寧に並べた。
けれど、詩織はその音にすら、微かな違和感を覚えていた。
「……しおり」
真澄の声が届いた時、自分の名前が少しだけ遠く感じられた。
「ねえ、お兄ちゃん。『本当の名前』って、わかる方法ある?」
真澄の手が止まった。
味噌汁の蒸気が揺れ、しばらくして彼は静かに言った。
「……ある。でも、思い出したらもう戻れない。おまえがここにいられなくなるかもしれない」
「それでも知りたい。
私は私の名前を知らないまま、お兄ちゃんの妹でいるのが……怖いの」
その言葉は、真澄の心を確実に揺らした。
彼は箸を置き、深く目を伏せた。
「だったら――ついてこい。見せる」
*
連れてこられたのは、市の外れにある古い寺院の墓地だった。
竹林に囲まれ、苔むした石碑がところどころに並んでいる。
真澄はその中の一角、誰も訪れていないような、無縁墓の前で立ち止まった。
「ここに……おまえの“前の名前”が刻まれてる」
詩織は目を凝らした。
碑には、かろうじて読み取れる文字があった。
「結城 柚」――没年:1998年 秋分の日
「……これが、私?」
「……間違いない。おまえは結城柚という名で、あの女に連れていかれた。
でも記録上は、柚は“死んだ”ことになってる。戸籍も、痕跡も、すべて消されてる」
詩織はその名を、口の中で何度も転がした。
柚。
どこか、遠くで風が吹いたような響き。
だけど懐かしい。胸の奥にしまっていた、何かを震わせる音。
「……私、“柚”だったんだ……」
自分の輪郭が変わっていくのを感じる。
同時に、目の端に涙が滲んでいた。理由はわからなかった。
真澄は、黙ってその肩を支えた。
だが――その手の温もりが、柚にはもう、少し違うものに感じられていた。
*
その夜、詩織――いや、柚は、再び夢を見た。
今度はかつての家。夕暮れの廊下。
かすかに、誰かの歌声が聞こえる。
「ゆう……柚ちゃん。帰っておいで……」
その声に、今は怯えなかった。
ただ、確かに愛されていた記憶が、胸に刺さった。
(あの人は、本当の母じゃない。でも……私は確かに、あの声に育てられた)
*
翌朝。
柚は鏡の前で、自分に向かってそっと言った。
「私の名前は――柚」
その言葉に、何かが戻ってきた。
扉の向こうから兄の声がした。
「……詩織。起きてるか?」
柚は少し微笑んで、答えた。
「うん。でもね、お兄ちゃん――
今日から、私の名前は柚だよ」
沈黙があった。長い、重い沈黙。
やがて、その向こうから、絞り出すような声が届いた。
「……わかった」