7-真澄の記憶「声泥棒」
秋分の夜は、奇妙なほど静かだった。
風がないのに、木々が揺れ、空気の縁を誰かが撫でているような気配がする。
春日真澄は、その晩、地域の巡回をしていた。
半年前に配属されたばかりの新米刑事で、妙な噂ばかりのこの土地に馴染めずにいた。
だがその夜、通報が入った。
「小さな女の子の声が、空き家の奥から聞こえる」と。
現場は、山際の私道を進んだ先。地図には載っていない一軒の古屋。
上司は「またイタズラだろう」と言ったが、真澄はなぜか気になって、一人で向かった。
古びた門。黒ずんだ壁。
だが、不思議と誰かが住んでいる気配が深く濃く残っていた。
玄関の札には、何も書いておらず、ただの札がそこにあるだけだった。
(……名前がない?)
そこで、気づいた。扉の隙間から、白い布のようなものが見える。
「警察です。誰かいますか?」
返事はない。だが奥から、確かに子どものすすり泣きが聞こえた。
真澄は躊躇なく中に入り、廊下を進んだ。
家の中は静かすぎる。湿気と埃、そしてどこか懐かしい甘い匂い――
まるで、母親の服の匂いに似ていた。
その奥、障子の隙間から、白いワンピースの小さな背中が見えた。
「……君、大丈夫か?」
声をかけると、少女は振り返らなかった。
「おうちは……ここじゃない……のに……」
か細い声だった。年齢は五歳か六歳か。
髪は長く、肌は透けるほど白い。
何かが違う。その場にいるのが、彼女ひとりではないような圧迫感。
「君の名前は?」
少女は、ゆっくりとこちらを振り返った。
そして、まっすぐに真澄を見上げて、こう言った。
「わたし、しおりって呼ばれてるの。
でも、ほんとうの名前は、まだ――もらってないの」
その瞬間、背後で音がした。
「――――!」
白い布をまとった女の姿。
顔は見えない。ベールのようなものに覆われていた。
ただ、口元だけが見えた。
微笑んでいた。
「返してもらうわ。その子は、――私の声」
真澄は、少女の手をとって走った。
足元に影がまとわりつき、目の前の障子が勝手に閉じた。
ただの廃屋のはずだった。
しかし、明らかに建物自体が生きている。
叫びながら、彼は障子を蹴破り、少女を抱えて外へと飛び出した。
息を切らして門を越えたとき、突然、空気が変わった。
風が吹き抜け、蝉が鳴き、どこかの家からテレビの音が漏れていた。
まるで――何事もなかったかのように。
*
後日、少女は身元不明として一時保護された。
本名も、保護者も見つからず、記憶も曖昧だった。
だが真澄は彼女を見捨てられなかった。
数年迷った末に退職し、里親制度を使い、少女を引き取った。
名前は、自分が聞いたとおりに――春日詩織と名づけた。
(あの夜、俺は『声』を盗んだんだ)
自室で詩織の寝顔を見つめながら、真澄は胸の内でつぶやいた。
(だから、あいつは今も、あの家で俺を睨んでる)
――――――『母さまの家』
名を奪われ、娘を失った母の形。
詩織があの家に近づけば、また名を返せと呼びかけてくる――
だから、守るしかない。
誰に何と言われようと。
たとえ、妹に憎まれたとしても。
たとえ、あの女と同じ“狂気”をなぞることになっても――
「詩織だけは、俺が守る」
――――――その決意だけが、真澄を生かしている。