表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

6-おかあさんの声

その夜、詩織は眠りが浅かった。


枕元に置いたスマホの画面は真っ暗で、時間は確認できない。


ただ、外はまだ夜。

家の中も静かで、兄の気配も感じられない。


(……さっきの家……)


記憶が断片的に蘇る。

畳の部屋。クレヨンの絵。髪留め。そして、あの声――


「――しおり」


その瞬間、耳元で「誰か」が囁いた。

確かに目は覚めていたはずなのに、身体が動かない。


夢の中に、再び「あの部屋」が現れる。


白い畳。静かな空気。

目の前に立っていたのは、あの時と同じ女――「母さま」


顔は見えない。だが、声ははっきりと聞こえる。


「あなたは、私の娘。

 名前をつけたのも、愛したのも、私だけ」


声が染み込むように胸に迫る。優しく、甘く、そして冷たい。


「どうして、知らない人に「しおり」なんて呼ばれてるの?

 あなたは、もっと綺麗な名前だったのよ」


女の指が伸びてきて、詩織の頬に触れた。

その瞬間、胸の奥がずきんと痛む。

熱い。これは――母性のようなもの? それとも……


「あなたを返して。あの人から。

 あの人はあなたの兄なんかじゃないわ。

 ただの泥棒。……名前泥棒よ」


耳鳴りがした。


次の瞬間、夢は霧のように崩れた。



    * 




「――ッ!」


詩織は叫びながら飛び起きた。

額には冷たい汗。息が上がり、喉が焼けるように痛い。


視界の隅に、兄・真澄が立っていた。

寝間着のまま、部屋の扉の前で、心底驚いた顔をしている。


「しおり……おまえ、夢……見たのか?」


詩織は頷くこともできず、ただ震える手で自分の顔を覆った。


「おかあさんって、呼んだ……気がする……」


真澄の目が、一瞬だけ何かを強く抑えるように伏せられた。


「詩織。もう、あの家には近づくな」


「――どうして?」


「理由を知って、おまえが後悔することになるからだ」


「私は、私のことを知りたいの!」


叫ぶような声が出たのは、自分でも驚いた。

兄にこんな風に反抗するなんて、初めてだった。


真澄はしばらく沈黙したあと、重い口を開いた。


「おまえは、七歳の時にあの家にいた。

 母さまに育てられていた。……そう呼ばれていた女のもとで」


詩織の胸が波打った。

言葉では理解できなかったが、身体が真実を先に感じ取った。


「本当の母さんなの……?」


「いや。血は繋がっていない。……でも、その女はおまえに「名前」を与えなかった。

 ずっと、『声として飼っていた』……「しおり」という名前は、俺がつけたんだ」


静かに、けれど確かに語られた言葉が、詩織の心に突き刺さる。


(私は……誰?)


思い出せない名前。奪われた記憶。偽りの家族。

だけど、優しかった兄の手の温もりも、本物だったはず――


「……返さなきゃいけないの? 私を?」


問いかけに、真澄は首を横に振った。


「返す必要なんてない。

 おまえは、俺の妹だ。……奪ったとしても、俺が守る」


その言葉は、優しさと執着のぎりぎりの境界にあった。

けれど詩織は、それに少しだけ救われた気がした。


しかし同時に、胸のどこかで声が囁いていた。


――「本当の名前を思い出せば、帰れるのよ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ