6-おかあさんの声
その夜、詩織は眠りが浅かった。
枕元に置いたスマホの画面は真っ暗で、時間は確認できない。
ただ、外はまだ夜。
家の中も静かで、兄の気配も感じられない。
(……さっきの家……)
記憶が断片的に蘇る。
畳の部屋。クレヨンの絵。髪留め。そして、あの声――
「――しおり」
その瞬間、耳元で「誰か」が囁いた。
確かに目は覚めていたはずなのに、身体が動かない。
夢の中に、再び「あの部屋」が現れる。
白い畳。静かな空気。
目の前に立っていたのは、あの時と同じ女――「母さま」
顔は見えない。だが、声ははっきりと聞こえる。
「あなたは、私の娘。
名前をつけたのも、愛したのも、私だけ」
声が染み込むように胸に迫る。優しく、甘く、そして冷たい。
「どうして、知らない人に「しおり」なんて呼ばれてるの?
あなたは、もっと綺麗な名前だったのよ」
女の指が伸びてきて、詩織の頬に触れた。
その瞬間、胸の奥がずきんと痛む。
熱い。これは――母性のようなもの? それとも……
「あなたを返して。あの人から。
あの人はあなたの兄なんかじゃないわ。
ただの泥棒。……名前泥棒よ」
耳鳴りがした。
次の瞬間、夢は霧のように崩れた。
*
「――ッ!」
詩織は叫びながら飛び起きた。
額には冷たい汗。息が上がり、喉が焼けるように痛い。
視界の隅に、兄・真澄が立っていた。
寝間着のまま、部屋の扉の前で、心底驚いた顔をしている。
「しおり……おまえ、夢……見たのか?」
詩織は頷くこともできず、ただ震える手で自分の顔を覆った。
「おかあさんって、呼んだ……気がする……」
真澄の目が、一瞬だけ何かを強く抑えるように伏せられた。
「詩織。もう、あの家には近づくな」
「――どうして?」
「理由を知って、おまえが後悔することになるからだ」
「私は、私のことを知りたいの!」
叫ぶような声が出たのは、自分でも驚いた。
兄にこんな風に反抗するなんて、初めてだった。
真澄はしばらく沈黙したあと、重い口を開いた。
「おまえは、七歳の時にあの家にいた。
母さまに育てられていた。……そう呼ばれていた女のもとで」
詩織の胸が波打った。
言葉では理解できなかったが、身体が真実を先に感じ取った。
「本当の母さんなの……?」
「いや。血は繋がっていない。……でも、その女はおまえに「名前」を与えなかった。
ずっと、『声として飼っていた』……「しおり」という名前は、俺がつけたんだ」
静かに、けれど確かに語られた言葉が、詩織の心に突き刺さる。
(私は……誰?)
思い出せない名前。奪われた記憶。偽りの家族。
だけど、優しかった兄の手の温もりも、本物だったはず――
「……返さなきゃいけないの? 私を?」
問いかけに、真澄は首を横に振った。
「返す必要なんてない。
おまえは、俺の妹だ。……奪ったとしても、俺が守る」
その言葉は、優しさと執着のぎりぎりの境界にあった。
けれど詩織は、それに少しだけ救われた気がした。
しかし同時に、胸のどこかで声が囁いていた。
――「本当の名前を思い出せば、帰れるのよ」