3-母信仰
次の日、朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
夢の余韻がどこかに残っている。
なにか、白い手が、頬に触れたような――そんな感触だった。
詩織はベッドの上で小さく伸びをして、枕元に置いたスマートフォンを手に取った。
午前七時。いつもの時間。
だが、通知は一件も来ていない。
何かが「静かすぎる」と感じたのは、気のせいだろうか。
「行ってきます」と声をかけると、兄は台所で味噌汁をすくいながら「気をつけて」とだけ答えた。
彼の顔色は普段通りに見えたが、昨夜の「昔の話は、思い出さなくていい」という言葉が、胸の奥に引っかかっていた。
*
都内某所の大学。民俗学の講義は、木造校舎の一室で行われている。
教室に入ると、古びたスライドと、黒板に丁寧な字を書き込む教授の背中が見えた。
「さて、今日は『声の伝承』について話そう。これは口承文化の一部だが、特に『名前』や『呼びかけ』に焦点を当てて考える」
詩織はノートを取りながら、話に耳を傾けた。
「たとえば『呼ばれると答えてしまう』という話、聞いたことはあるだろう? 夜道で名前を呼ばれたら振り返ってはいけない。あるいは『声真似』をしてくる何かに注意しろと」
何人かの学生が頷いた。
「これは、霊的な存在が『人のふりをして近づいてくる』という思想に基づいている。中でも興味深いのが、『名を贈ることで、その存在と関係が結ばれてしまう』という地域信仰だ」
教授はそう言って、スライドを切り替えた。そこには手書きの札の写真が写っていた。
――どこかで見たような字体。
(……これ、あの家の札に似てる)
胸がざわめいた。教授が続ける。
「この写真は、関東近郊のある地域で見つかった『名寄せ札』というものだ。亡くなった娘の名前を毎年札に書いて、戸口に掛けておく。名を呼び続ければ、魂が戻ってくると信じられていた。ある種の招魂信仰だね」
詩織は、知らず知らずのうちにボールペンを握り締めていた。
(名を……呼び続ける……)
脳裏に、昨夜見た夢がよぎった。
白い手。囁く声。何かが、自分を呼んでいた気がする。
講義が終わると、詩織は急いで教授のもとへ向かった。
「先生、この写真、どこの地域のものですか?」
「ん? ああ、場所は伏せてあるけど、たしか君の住んでる市の外れだったはずだよ。古くは『母信仰』と呼ばれていた一帯だ」
「母信仰……ですか……」
その言葉が、深く静かに、胸の底に沈んでいった。