11-エピローグ
その日、柚は市立図書館の閲覧席にいた。
目の前には、彼女が大学で提出した卒業論文の製本見本が一冊。
タイトルは《名前を呼ぶ信仰と都市の境界性》、
副題にはあの日と同じく――『母さま伝承の記録』――と記されている。
ページの奥、謝辞の欄にはこう書かれていた。
「私に名前をくれたすべての人へ。
特に、兄と呼べる人へ――あなたがくれたしおりの時間は、
わたしの柚の根っこです。ありがとう」
母さまの家があったはずの場所には、今はただの空き地が広がっていた。
草が生い茂り、誰も立ち寄らない。
けれど柚は、月に一度だけそこを訪れ、静かに目を閉じる。
「ありがとう」と言うためでも、「さようなら」と言うためでもない。
ただそこに、“声を持たなかった母”の影があったことを覚えておくためだ。
*
兄・真澄とは、今も同じ家に暮らしている。
ただ以前のような守られる関係ではなく、今は隣に立つ関係になっていた。
ある日、柚がふと思いつきで尋ねた。
「ねえ、もし柚として見つけた私が、全然違う子だったらどうしてた?」
真澄は一瞬だけ黙って、コーヒーを飲んだあと答えた。
「たぶん、それでもしおりって名をつけたと思う。
おまえを、俺の妹にしてやり直したかったからな」
「やり直し、か……」
「でも今は、柚でよかったって思ってる。
過去を背負って立ってるおまえは、もう俺の妹じゃなくて、
俺の誇りだよ」
柚は、苦笑して立ち上がった。
「……重いよ、お兄ちゃん。
でも、ありがと」
*
――――――夜。
柚は自室の棚から、ひとつの箱を取り出した。
中には、小さな髪留めと、白く滲んだ名札。
柚という名前は、記憶と共に戻ってきたものだ。
だがしおりという名前で過ごした時間も、嘘だったわけではない。
――だから柚は、それを記憶の箱に仕舞った。
自分の名前は、一つじゃなくていい。
声も、家族も、母の面影も。どれも全部、自分をつくった欠片だ。
彼女は静かに言った。
「わたしは、柚。
でもしおりがいたから、今ここにいる。
だから、どちらの名前にも――ありがとう」
窓の外には、春の気配が少しだけ混じっていた。
物語の終わりにして、はじまりの風。
――――声を超え、名を得た少女は、静かに未来へと歩き出していく。
終わりです。
最後までお読み頂きまして、有り難うございました(*´▽`*)
相田ゆき




