10-名を返しに、名を持って行く
雨は止んでいた。
秋分の夜は静かに始まり、月は厚い雲の向こうにその存在を滲ませていた。
柚は傘を閉じ、ゆっくりとあの道を進んでいた。
兄・真澄は数歩後ろを歩いている。何も言わないが、足音のリズムだけが静かに寄り添っていた。
やがて、母さまの家が見えた。
夜に浮かび上がるその白壁は、まるで何かの骨のようだった。
玄関の札には、もう文字は書かれていなかった。
代わりに、誰かを待つように、真っ白な紙が風に揺れていた。
「……おまえを呼んでる」
真澄が言った。
柚は頷き、一人で門をくぐった。
鍵は、かかっていなかった。
*
中は変わっていなかった。
畳の部屋。壁の絵。小さな箪笥。
そして、奥の襖の向こう――あの夜、声をかけられた場所。
柚は深く息を吸い、襖を開けた。
部屋の中央に、白い布をまとった女が座っていた。
顔はベールで覆われていたが、口元だけは見える。
そして、微笑んでいた。
「……おかえり、柚ちゃん」
声は柔らかく、優しかった。
それが、柚を戸惑わせた。
「わたしの名前を……覚えてるの?」
「忘れるわけないわ。あなたは、私の声。
私が、ひとりぼっちで震えていたときに、最初に名をつけた存在だった」
「でも、あなたは名をくれなかった」
「そうよ。だって、あなたは私の中にいたのだから。
名前は、外の世界のためのもの。あなたは、内にいるべきだった」
柚は一歩踏み出す。
「……あなたは、わたしを娘として愛したんじゃない。
所有物として閉じ込めていただけ」
女は、ゆっくりと立ち上がる。
ベールがわずかに揺れ、その奥から目が――無数の目が――のぞいた。
柚はその目に驚き、たじろいだ。
「だって……愛していたものが、出ていくのは怖いじゃない」
「だから名前をくれなかった? だから、記憶を奪った?」
「だって、名前を持てば、あなたは『私のもの』じゃなくなる。
――怖かったのよ、柚ちゃん」
柚は手の中の髪留めを取り出した。
あの部屋で拾った、小さな記憶の欠片。
「でも、わたしは名前を持った。
柚として、ここに戻ってきた。
もう、あなたの声じゃない。わたしは、わたしの言葉で生きる」
女の顔から、ベールが剥がれた。
その顔は――異形だった。それは愛の顔ではなかった。
「愛されなかった誰か」が、自分の形を求めて創り上げた、母の仮面だった。
無数の目が、悲しそうに涙を浮かべる。
部屋が震える。障子がひとりでに開き、空間が崩れていく。
「じゃあ、行ってしまうの? わたしを置いて?」
「さようなら、母さま。
あなたの声は、もうわたしの中にいない」
*
気づけば、柚は兄の腕の中にいた。
雨の上がった庭に立ち尽くし、静かに涙を流していた。
「……おまえ……戻ってきたんだな」
真澄の声は、涙で濡れていた。
柚は頷いた。
「声じゃなく、名前で帰ってきたよ」
*
その夜、母さまの家は音もなく崩れた。
火事でも地震でもなかった。ただ、空気のように、塵のように――消えていった。
翌朝そこには、更地が残されていた。
誰も、そこに家があったことを覚えていなかった。
――――――けれど柚の胸には、確かに一つの名と、一つの声が残っていた。




