第三話
袁茫生があっさりと告げた途端、任熒瑶はダンと格子を叩きつけた。ひびが入ったのではないかという音と衝撃だった——しかし当の任熒瑶は、ぐっと唇を噛み締めて足元を見つめるばかりだ。悔しさと怒りがない混ぜになった両目が溢れそうな酒盃のように、ゆらり、ゆらりと揺れている。
「あんまり噛んでやるな。せっかく綺麗なのに腫れてるぞ」
袁茫生が言うと、任熒瑶はぱっと歯を緩める。任熒瑶は自らを落ち着かせるように息をつくと、「他は何もないのか」とすっかり落ち込んだ声で問うた。
「せっかく下手人までたどり着いたというのに、ここまでなのか……」
独り言のように問いかける姿は、さすがの袁茫生も同情してしまうほどにしおれている。袁茫生は気付けば口を開き、こう告げていた。
「それから、半分だけの玉佩を預かっている。依頼人が対になるもう半分を持っているから、任務が成功した暁には依頼人のところまで持ってくるように言われていた」
途端に任熒瑶の目が輝きを取り戻し、今度はすがりつくように格子に手を置いた。
「だのに依頼人を知らないということは、まだその玉佩を持っているのだな?」
「そういうことだ。だが生憎俺はもう長くはないから、欲しいなら勝手に持ってってくれ。探し出すのは骨だが、根気強く続けりゃどうにかなるだろう……」
任熒瑶は袁茫生の言葉を聞いているのかいないのか、いそいそと後ろの侍従を呼び付けている。その様子を見守りながら喋っていた袁茫生だったが、錠前が開けられて侍従が入ってくるとさすがに驚きを隠せなかった。
冷淡な目をした侍従と視線がかち合う。地味な服装に普通の顔付きの男で、それが余計に両目の冷たさを際立たせている。一瞬どこかで会ったような気がしたものの、それを明らかにする暇はなかった——侍従は何も告げずに袁茫生を仰向けに転がし、衣を脱がせ始めたのだ。
「おい、何するんだ!」
とりあえず声を荒げたが、大した迫力も出せなければ相手に届いている様子もない。侍従は袁茫生の下衣をも剥ぎ取ると、衣の裏や袖の中、帯の縫い目までをも調べ尽くし、組紐がついた半分だけの玉佩を探し当ててしまった。
「聖子」
侍従は任熒瑶に向き直り、言葉少なに玉佩を差し出した。任熒瑶は無言で玉佩を受け取ると、鈍い翡翠色のそれをじっと見つめた。
手のひらに収まる大きさのそれは、ちょうど太極図の半分を模していた。任熒瑶は玉佩を撫でたり握ったりしながらじっと観察していたが、次いで袁茫生の裸の胸に目を向けた。
整った丹鳳眼がすっと細められる。袁茫生は彼が何か言う前に、「この紋様だろう」とため息混じりに言った。
「ひと月前、あんたの親父さんが死ぬ直前にかけた呪いだ」
袁茫生の身体には心窩を中心に、全身に伸びる経脈をなぞるような黒い線が伸びている。暗殺のあとに現れたこの紋様をどうにかするべく、袁茫生は報告の義務も放り出して東奔西走していたのだ。
「玄殺孔だ。教主の血族のみが使える致死の術で、かけられた者の肉体を緩やかに侵し、早くて半月、遅くとも半年以内には死に至らしめる」
「さすが、詳しいな」
良いことを聞いたと、口角を持ち上げると、任熒瑶は何を今更と言わんばかりに鼻を鳴らす。
「私を誰だと思っている。それに玄殺孔を解くことはできないぞ」
わずかばかりの希望はしかし、一瞬で打ち砕かれた。覚悟はしていたものの、こうもあっさり告げられると頭が真っ白になってしまう。何か言い返さなければと思っても、口から言葉が出てこない——任熒瑶は呆然と目を瞬く袁茫生をじっと見下ろしていたが、おもむろに身をかがめて地面に膝をついた。
視界に入った衣は純白だった。白い生地に白い糸で花や鳥の模様が縫い取られている。色白の肌によく馴染む純白の衣、そこに漆黒の髪がよく映える。
「玄殺孔は解けない。人の生が一方通行であるように、遡ることができない術なのだ。だが、食い止めることはできる」
任熒瑶はそう言うと、半欠けの玉佩を袁茫生の前にぶらりと垂らした。
「玄殺孔を相殺する術をお前にかければ、玄殺孔による死は免れる。代わりに、お前はこの玉佩のもう半分を持つ者を探し出せ」
任熒瑶は孔子の隙間に玉佩を放り投げた。カチャン、と軽い音を立てて目の前に落ちた玉佩に、止まりかけているはずの心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。ちっぽけな玉佩が、俄然皇帝の宝物庫の中で一番貴重な宝物のように感じられる——そこにかかっているのが己の生死だと思えば皇帝の宝でも安いほどだ。
しかし、袁茫生は一も二もなく飛びつきたい気持ちをぐっと抑え込んで任熒瑶を見上げた。
「つまり、俺は命を救われる代わりに密偵としてお前に仕えるってことか? そういう取引なんだろう、これは」
「そうだ。お前のような生き汚い男にはうってつけではないか?」
生き汚いと言われては袁茫生は立つ瀬がない。自覚があるだけに反論に詰まる袁茫生の沈黙を合意と受け取ったのか、任熒瑶は侍従に牢から出るよう言った。
入れ替わりに牢に入ってきた任熒瑶を、袁茫生は藁にも縋るような気分で見上げた。
「では、交渉成立だ」
任熒瑶は袁茫生の横にかがみ込み、胸の紋様を指でなぞったり、腕を取って脈を見たりし始めた。術をかけるために袁茫生の状態を見ているのだろうが、やはり思わしくないのか両目がしかめられる。
「……なあ。まだ間に合うんだろ?」
嫌な胸騒ぎを隠すように袁茫生は尋ねたが、どうしても急かすような口調になってしまう。任熒瑶はゆっくり頷くと、立ち上がって両手に印を結んだ。
「無論」
任熒瑶は手短に答えると、深く息を吸って印を組む手を次々と組み替えた。滔々と唱えられる呪文は漢の言葉ではなく、見たことのない印と相まっていかにもな怪しさをかもし出している。六玉妖道の呪術は中原の外から持ち込まれた呪術と中原の武功が合体したものだと言われているが、なるほどそれも頷ける話だった。
袁茫生がそんなことをつらつらと考えている間に、下の地面に青みがかった緑色の陣が現れた。見ると任熒瑶も同じ色にぼんやりと光っている。体を内側から透かすような光は、彼自身の内功によるものだ――任熒瑶は最後にゆっくりと息を吐くと、手を緩やかに動かして内功を収束させた。同時に碧玉の陣も消え、呆気に取られる袁茫生だけが残される。
袁茫生はにわかに体が軽くなったように感じた。ゆっくりと身を起こせば、夜も眠れないほどだった体の痛みがすっかり取れている。礼を言おうと口を開きかけた袁茫生だったが、任熒瑶はさっさと牢を出て侍従を呼びつけていた。
「李赫」
侍従が素早く跪く。袁茫生は侍従の容姿と名前をすぐさま脳裏に書きつけた――昔から人の顔と名前を覚えるのは朝飯前だ。墨世楼に拾われた頃に、生き延びるため、上手く立ち回るために必死で殺手たちの顔と名前を覚えていたのが気付けば癖になっていたのだ。これが暗殺稼業にも役立つもので、特に潜入が伴うときはそこそこ上手く立ち回ってきた自負がある。
「袁茫生の部屋を用意しろ。皆には新しい信者だと言っておけ……くれぐれも伯父上たちに気取られぬよう、心して動け」
「御意」
李赫は即座に頷き、さっさと姿を消した。
任熒瑶は袁茫生の衣を牢に放り込み、衣を着てついてくるよう告げた。