第一話
暗い微睡を遮ったのは桶いっぱいの水だった。頭から被せられた驚きに袁芒生はたちどころに覚醒し、空気を求めて激しく咳き込む。
一方、水をかけた不届者は、袁芒生が起きたと見るや素早く後退した。ガチャガチャと錠前の音がして、袁芒生は薄ぼんやりした現実をようやく思い出した。
ここは地下牢の一室だ。湿っぽい地面は筵を一枚敷いただけ、ごつごつと無機質な壁は粘土質の土壁に石ころを押し込んだものだ。これが光を吸い込むせいで外の松明は役に立たず、獄中の袁芒生からは柵の外にいる二人の影しか見えない。
それにしても不自然なほど全てが不明瞭だ。体にも全く力が入らず、縛られていないのに動くことができない。
「名乗れ」
一人が声高に命じた。若い男の声だったが、この一声がなければ男か女か分からないほどに声の主は線が細い。
「お前の気脈は封じた。お前を生かすも殺すも全て私の気分次第だ。命が惜しければ言われたとおりにしろ。名乗れ」
ピンと張った声はあどけなさも残っているが、それに似つかないほど高圧的だ。袁芒生は貴重な体力を使ってため息をつくと、「袁芒生だ」と告げた。
「そういうお前は誰だ? ここは六玉妖道の炫華山だろう。お前は妖道の術師か?」
「口ばかり立つ奴だ。のこのこと忍び込み、我らの術中で死にかけているくせに、まだ立つ瀬があると?」
袁芒生はその言葉には答えず、相手の気配をじっと感じ取ることに集中した。高圧的な態度が目立つが、瞪視が感じられないあたり主者ではないらしい。
この世には男女の他に、「主者」「随者」というもう一つの性別がある。主者は随者を従え、随者は主者に服従することで満たされるのだ。主者は「命」を用いて随者を従え、瞪視を用いて他者を圧倒する、或いは他の主者を牽制する性質を持つ——これがないということは、この男は主者ではない。なのに上から叩きつけるような態度を取るということは、よほど自意識が過剰なのか、皇帝のごとく生まれながらに大勢を従えてきたかのどちらかだ。
とはいえ男に言われたとおり、袁芒生がまずい立ち位置にいることは間違いなかった。江湖でも悪名高い魔教の一派・六玉妖道の本拠地をこっそり訪った挙句見つかって拘束され、牢に入れられて生殺与奪の権まで握られてしまった。相手の一存で命日が決まるというのは悪い冗談にしてもできすぎだ。
だが、この状況にさしたる焦りを抱いていない自分がいるのも確かだった。どうせ拾われて武功を仕込まれ、流されるように生きてきた身だ、そう思ってきた袁芒生にとっては、いつどこでどのように死ぬかはあまり興味のないことだ。もしもこの魔教の牢獄で、次の瞬間呪い殺されるとしても、大した感慨は抱かないだろう。
「聞いているのか。また水をかけられたいか?」
男が冷ややかに告げるのに合わせて、ちゃぷんと音がする。二桶目が準備されていると悟ると、袁芒生は「分かったよ」ともう一度ため息をついた。
「侵入の目的を知りたいんだろ? 簡単な話だ、俺にかけられた呪いを解いてほしい。もうひと月経つがそろそろ身体が限界なんだ。あんたらに経脈を塞がれなくても動けないぐらいには悪化してる。死ぬにしてももっとマシな最期がいい」
「それが身から出たサビだとしてもか?」
男の声がより一層低くなった。頭から冷水を被せられる方がまだ温かいのではないかというほどに冷たい声が全身に突き刺さる。袁芒生はゆっくりと頷いた——こうなった原因は誰よりも自分がよく知っている。
「私は六玉道の聖子・任熒瑶。ひと月前、お前が誰を殺したか——その様子だと、犯した罪を忘れたわけではないようだな」
袁芒生はゆっくり目を瞬いた。やけに高圧的だと思ったら、なるほど魔教のお世継ぎ様だったのだ。
「殺手袁芒生。ひと月前の暗殺について、この私に全て話すがいい。ひとつでも起きたことを捻じ曲げるようなら容赦はしないぞ」
殺手とは殺し屋のことです。
気脈と経脈は同じだと思ってください。
江湖は武芸者の社会のことで、主に門派や組織をまたいだ繋がりを指します。ちなみに門派間のコミュニティをいうときは武林といいます。
以上、ざっくり武侠用語解説でした。
また出てくるごとに挟んでいきたいと思うので、ご参考までにどうぞ。