ACT・5
ACT・5(地の妖精)
…それから数日の間、リオはほとんど笑みを浮かべず、人々から離れて考え事をすることが多かった。
(…僕は一体、ここへ何をしに来たんだ…?)
生命の木の傍らに立ち、リオは遠い地平を眺める。
水の恵みのおかげで、大地には緑が芽吹き始めていた。
優しい風がその頬を撫で、日本を離れた時より少し伸びた黒髪を揺らす…
「リオ様」
背後の呼び声に、彼は振り返った。
「…何を悩んでおられるのですか…?」
絹糸よりも柔らかな長い金髪を揺らしつつ、歩み寄ってきたのは賢者と呼ばれる青年。
女性かと思うほど柔和な顔に浮かぶのは、春の日溜りの様な温かさを感じさせる笑み。
「…皆が心配しています…。話してもらえませんか? ファルスの里で何があったかを…」
淡緑色の瞳に見つめられ、リオはポツリポツリと話し始めた。
「…ファルスの里は…エレアヌが言っていた通り、廃墟だった…」
菩提樹に似た巨木の根元に腰を下ろして、年齢よりも幼く見える少年は静かに語る。
「…あそこの人々は、何百年も前に魔物の攻撃を受けて命を落とし、不死の霊薬によって蘇らされていたんだ…」
「不死の霊薬?」
エレアヌは形の良い眉を寄せる。
けれどそのまま、彼は続きを促した。
「…彼等は、生きているとも死んでいるともいえる状態だった…。そして…僕は創始の炎の封印を解き、ファルスの民を完全な死へと追いやってしまった…」
ふっと逸らされた黒い瞳から、透明な滴が零れ落ち、乾いた地面に染みを作る。
「…分らない…。あの人達にとって…救いとは何だったんだろう…?」
喉の奥が熱くなるのを感じながら、リオは呟いた。
「…せっかく拾った命を手放し、それで満足なんだろうか…?」
「…不死の霊薬で蘇生された者は、まともな生命活動を営む事は出来ません…」
膝を抱えた少年の肩にそっと手を触れ、温厚な青年は穏やかに諭す。
「食べる事も眠る事も無く、ただ在り続けるだけの虚しい生活から解放されたファルスの民は、きっと満足だったでしょう…」
「消滅を拒否する者もいたんだ!」
泣き顔を見られるのも構わず、リオは顔を上げた。
首を絞めようとしたニクスの歪んだ顔が、脳裏に浮かぶ。
実体のない手は虚しく空を切ったけれど、リオは本当に絞められたような錯覚に陥った。
…そして…、それより前に両肩を貫いた、小刀の様な獣の爪…
「…僕が…あのまま殺されていれば…彼等は滅びずに済んだかもしれない…」
再び視線を逸らし、心を翳らせた少年は膝の間に顔をうずめる。
「馬鹿な事を言わないで下さい!」
途端に、彼は背後から抱き締められた。
肩や背を包む、人のぬくもり…
「…貴方が命を落としたら、どれだけの人間や妖精が悲しむと思っているのですか?」
声を震わせ、エレアヌは言う。
「それに…貴方には…やらねばならない事があるのですよ。今この世を去ったりしたら、私はまた転生者を探しに行かねばならない…」
感情を押し殺した呟きと同時に、抱擁する力が僅かに強まる。
「…貴方は…知らないでしょう…私がどんな思いで貴方の死を見届けたかを…」
「…エレアヌ…?」
背中がジワリと温かくなるのを感じ、リオは顔を上げた。
「…すいません」
ハッと我に返り、エレアヌは自分より狭い背から顔を離す。
そして、足首まで伸びた黄金の髪を翻し、慌てた足取りで歩き去っていった。
(…涙…?)
残されたリオはシャツの背が僅かに湿っている事に気付き、首を傾げる。
「リオ」
その時、頭上から声が降ってきた。
見上げると、風に揺れる緑の葉陰に、一人の少年がいる。
銀糸のような髪が、柔らかく揺れた。
「…いつからそこに?」
「お前が来るより前からさ」
問いに答えて、枝から飛び下りてきたのはシアル。
「俺、よくここで昼寝するんだ。この木の上って何か落ち着くから」
(…そういえば…あの時も…)
リオはふと、エルティシアに来たばかりの頃を思い出した。
剣を投げ付けてきた時も、この銀髪の少年は豊かに茂る葉の間から姿を現した。
おそらくその直前まで、シアルは木の上で昼寝をしていたのだろう。
「…悪いけど、今の話…聞いちまった…」
真っ直ぐに視線を合わせ、紺碧の瞳をもつ少年は、黒い瞳をもつ少年を見つめる。
穏やかに吹く風が、銀髪と黒髪をふわりと揺らした。
「二度と言うなよ、あんな事…」
「…え…?」
シアルの瞳が微かに震えているのに気付き、リオは僅かに首を傾げる。
「『殺されていれば…』なんて、二度と口に出すなよっ!」
喉の奥から声を絞り出す様に、激しやすい少年は叫んだ。
「…シアル…」
リオは呆然と、蒼い瞳を見つめる。
「これを見ろ」
そんな彼に、シアルは片手を突き出した。 開いた掌に金色の光明が発現し、棒状の光となった後、一本の剣に変わる。
…翼ある西洋竜の姿を象った燻し銀の柄、先端にあたる丸まった尾に嵌め込まれた、金紅色の宝石、曇り一つ無い鏡の様な刀身…
リオは、その剣に見覚えがあった。
「…この『夜明けの光の剣』は、聖なる者を護る為に、神が作ったといわれている…」
横向きに持ち変えた剣を突き出したまま、シアルはリオの目を真っ直ぐに見つめる。
「…俺は…リュシアが死んだ後、これを手に入れた…」
激しさを抑えて語る少年の脳裏に、さほど遠くはない過去の記憶が蘇った…
―――「よしなさい、あれは子供の手に負えるものではありません」
制止の声を振り切り、少年は神殿の地下へと続く階段を駆け降りる。
エルティシアで最も古いとされるラーナ神殿には、古代人が残したという書物や道具が幾つも保管されていた。
書物の多くは解読出来ず、道具も使い方が分からぬ物が多い。
…中でも一番不思議な存在は、水晶に似た透明な球に封じられた、一本の長剣…
夜明けの光と呼ばれるその剣は、遥か古代から「眠り」続けているという…
「…古より伝わる聖なる剣よ、我が声に応え賜え!」
彼は自分と剣を遮る水晶球のようなものに両手で触れ、声を張り上げた。
老いた神官から伝え語りに聞いた、それは封印を解く為の言葉…
…けれど、剣は何の変化も見せなかった。
(『剣が身を委ねるのは、強い光を心に宿す者』…。俺じゃ駄目なのか…?)
透明な球体にコツンと額をぶつけ、少年は唇を噛む。
「…夜明けの光よ…」
再び、彼は剣へと呼び掛けた。
「…頼む…。俺に力を貸してくれ…。俺は、この世で一番大切な人を護りたい!」
…直後、眩い金色の光が、球体の中央から一気に溢れ出る。
そして、神々しい輝きを放つ長剣は、まだ一度も武器を手にした事のない少年の両手に、その刀身を委ねた…―――
「…俺は…リュシアの転生者の力になりたくて、これを手に入れた。これは、お前を護る為の剣だ」
まるで、誓いをたてるような強い口調で、聖剣の主となった少年は言った。
「…の割に、その剣で最初に攻撃した相手は僕なんだろ?」
「…それは言わないでくれよ…」
ぼそりと呟くように茶化されて、シアルはガックリと肩を落とす。
それを見て、リオはプッと吹き出した。
「…お前、リュシアより性格悪い」
必死で笑いを堪えようとする彼を、恨めしそうに眺め、シアルは呟く。
それから、リュシアを誰よりも慕う少年は、再び真剣なまなざしでリオを見据える。
「…とにかく、今度結界の外へ行く時は、俺も連れてけよ。魔物が襲ってきたら、みんなぶった切ってやる」
熱血するシアルが、きっぱりと言い切ったその時…
悲痛な「声」が、リオの心に届いた。
『…助け…て…下さい…』
絞り出す様な、途切れがちの「言葉」…
(誰…?)
急にキョロキョロと首を巡らせ始めるリオを見て、シアルが首を傾げる。
『…早く…私が…闇に飲まれる…前に…』
「大地の妖精?」
一つの方向に視線を定めた瞬間、黒い瞳が瑠璃色に変わった。
シアルが息を飲んだ時、リオの姿はその場から消える。
「空間移動…?」
しばし呆気にとられていたシアルは、やがてハッと気付いた。
「あいつ…俺を連れてけって言ったのに!」
怒鳴ると、彼は駆け出す。
姿を消す直前、リオが視線を定めた方角を目指して…
「お前が聖者か?」
地割れのすぐ向こう側に出現したリオに、そこに佇んでいた一人の青年が問う。
「白き民も遂に狂ったか、闇の色をもつ者を聖者と呼ぶとは…」
肩の辺りまで伸びた漆黒の髪、黒い瞳…。
肌だけが、白人のように色素が薄い。
その身に纏うのは、黒いビロードに似た生地に、紫色の糸で刺繍を施した長衣。
…傍らには、細身の身体に若葉色の長衣を纏った青年が横たわっていた。
サラサラした栗色の長い髪が、その背や地面に広がっている。
「大地の妖精!」
駆け寄ろうとしたリオ(リュシア)の行く手を、黒髪の青年が一歩進み出て遮る。
「風と水と火はお前に取られてしまったが、大地は渡さん…」
言いながら、彼は傍らに倒れている青年の手首を無造作に掴んで引き上げた。
そして、玲瓏とした声で呪文を詠唱する。
「闇より出でし精封球よ、我は汝の主として命ず…『封呪』!」
直後、空間に染み出すように現れた漆黒の球体が、若葉色の長衣を纏った青年を覆う。
「リュシア…!」
刹那、意識を取り戻した青年が顔を上げ、掴まれていない方の手をリオへと伸ばした。
「大地の妖精…!」
「こいつは渡さんと言った筈だ」
前世の名で呼ばれ、思わず一歩踏み出した少年を、黒髪の青年が再び遮る。
精封球に捕らえられた大地の妖精は、その背後に隠され見えなくなった。
それから、闇色の瞳をもつ青年は、自分とよく似た色彩をもつ少年に冷ややかな眼差しを向ける。
「お前にはこれをくれてやる…」
その目の端が僅かに吊り上がった途端、背後の岩がパンッと音をたてて砕け、鋭い破片となってリオへと飛んだ。
「うぁっ!」
直撃は免れたものの、両横を掠めていった破片に裂傷を負わされ、リオは声を上げる。
「私は黒き民の長・ディオン=オブシ=アス。大地の妖精を取り返したければ、我が城まで来るがいい…」
衝撃で地面に転がる少年をチラリと眺め、ディオンと名乗る青年は空間に溶け込む様に姿を消した。
同時に、背後の精封球も大地の妖精を捕らえたまま、その場から消え失せる。
後には、鮮血を流しながら起き上がるリオだけが残された。
シアルがリオを見つけた頃には、ディオンと大地の妖精の姿は無かった。
「リオ!」
地割れの向こう側に小さな人影を見て、シアルは声を張り上げる。
こちらと向こうはかなり離れていて、それがリオであるかどうかは確認出来ない。
けれど彼は、構わず叫んだ。
「俺も連れてけって言ったろっ!」
(…シアル…?)
その声に、リオは背後を振り返る。
かつて彼が裂いた大地の向こうに、やっと人間だと判るほど小さな人影が見えた。
何か叫んでいるのだが、遠すぎて聞き取れない。
そこで彼は、先刻使った「空間移動」の力を試みた。
「どうしたんだよ、その怪我!」
いきなり目の前に現れた黒髪の少年を見て、銀髪の少年は目を剥く。
「…岩が割れて…飛んできた…ディオンとかいう奴の『力』で…」
ぼうっとした表情で立つリオは、頬や肩、腕や脇腹、足に至るまで何かに切り裂かれたような傷を負っていた。
衣服は当然ボロボロで、流れ続ける鮮血に染まっている。
「だから一人で行くなって…」
怒鳴りかけたとき、リオの身体がグラリと傾ぎ、シアルは慌ててそれを抱き留めた。
身長差が無い為、両脇に腕を回して支える。
「…変だな…身体に力が入らない…」
「馬鹿やろ、怪我してんのに空間移動なんかするからっ…!」
相手の肩に顎を乗せた格好で、だるそうな呟きを漏らすリオに、シアルが怒鳴る。
そして彼はリオを背負い、ラーナ神殿へと駆け出した。
「…おい、あれシアルじゃないか?」
「誰か怪我をしてるらしいぞ」
「あの髪の色…まさか…リオ様…?」
血まみれの人物を背負い走ってくる、よく知る相手を見て、畑に居た人々がザワつく。
「エレ兄~っ!」
シアルは構わず、彼等の間を駆け抜けた。
「…空間移動は、かなりの体力を消耗する力なんですよ? どうして怪我をした状態で使ったりしたんですか…」
壺から薬草を取り出しながら、エレアヌは溜め息混じりに言った。
長い箱のような木の椅子に座るリオは、自分で身体を支えていられず、横に座ったシアルに上半身を凭せ掛けている。
「…使い方は分ったけど…そこまで思い出せなかった…」
半分寝ているのかと思うほどボソボソした声で言うリオに、温和な青年は再び溜め息をつき、気性の激しい少年は頬を引き吊らせる。
「…僕には…まだ思い出せてないことが沢山ある…。エレアヌ…『黒き民』って…何だ?」
「黒き民?」
唐突な問いにエレアヌは一瞬眉を寄せたが、やがて穏やかな口調で答えを紡ぎ出した。
「…それは、古い書物にその存在が記されている、闇の種族の事でしょう…。彼等は自らの兵士とする為に魔物を生み出し、強い力で自然を支配しようとしたといわれています…」
「支配?」
だるそうにはしているものの、話は聞いているらしく、リオは問い返す。
「精封球は御存じですね?」
確認の意を込めて、緑の賢者は問う。
「さっき会った奴がその単語を使ってたな…」
リオは先刻会った妖精が閉じ込められた、黒い球体を思い出した。
あれが出現する直前、黒き民の長だというディオンは何か呪文を唱えていた。
その言葉の中に『精封球』という単語が含まれていた事を、彼は覚えている。
「ディオンって奴…真っ黒な球に大地の妖精を閉じ込めてた…」
リオが呟いた途端、エレアヌは薬の入った壺を落としてしまった。
糊状に磨り潰してある茶色い薬草が、白亜の床に広がる。
「精封球は妖精を閉じ込めるだけではなく、意のままに操る為の道具でもあります…」
壺を落とした事に気付かぬ様子で、賢者の呼び名をもつ青年は呟く。
「…黒い精封球は最上級の魔力をもつもの…。…それに捕らえられたのなら…大地の妖精は闇に堕ちた…」
血の気のひいた面持ちで、彼は告げた。
上半身を抱くようにしてリオを支えていたシアルの両腕が、ピクリと硬張る。
しかしリオは、低い声で呟いた。
「…それなら、助けに行く…」
「リオ?」
その言葉に、エレアヌもシアルもギョッとした表情をみせる。
「行くったって、何処に行くんだよっ?」
少し前に「出かける時は連れて行け」と主張していた少年は、背後から覗き込むようにしてリオの顔を眺めた。
「ディオンが…黒き民の長が住む城へ…」
「何ですって?」
叫び声を上げたのはエレアヌ。
「黒き民はファルスの地より更に南にある、死の大陸に住んでいるらしいという事以外、詳しい事は分らないのですよ?」
さすがの彼も、怪我をしているリオを結界の外に出す気にはなれない。
「とりあえず、その傷を癒されて…それからお考え下さい」
「…こんなの、すぐ治るよ」
リオは癒しの力を使おうとしたが、いくら念じても傷は癒えない。
(…あれ…?)
小首を傾げるリオを、シアルが怪訝そうに見つめる。
「…空間移動は生命エネルギーをかなり消費します。…しばらく…治癒の力は使えませんよ」
状況を理解し、エレアヌが説明した。
「…ですから、大きな怪我をしている時は控えて下さいね…」
穏やかに諭すその言葉を、リオはもちろんシアルも黙って聞いている。
―――この事の重大さを二人が知るのは、もう少し後であった…―――
「死の大陸に行く時は、俺も一緒だぜ」
手当てを終え部屋に戻った時、肩を貸して歩いて来たシアルは念を押すように言う。
「分ったよ」
簡素な木の寝台に横になったリオは、半分ウトウトしながら答えた。
「約束だからな。絶対」
毛布をかけながら言ったシアルの言葉は、寝息をたて始めたリオには聞こえていない。
「…後で駄目って言ってもついて行くぞ…。聖剣の主として…そして、あの人に救われた者として…俺は…お前を護る…」
無防備な寝顔を見下ろして、騎士さながらの守護精神をもつ少年は、小さく低く呟いた。
…翌日…
リオは昼近くになって目を覚ました。
激しい運動後の様に、身体の節々が痛む。
隣の寝台は既に整えられ、同室で暮らす少年の姿は無い。
昼食の支度をする人々のざわめきを遠くに聞きながら、寝台から床へと滑り降りた時、木戸を軽く叩く音がした。
「そろそろ目を覚まされる頃だと思いましたので、着替えを持ってきました」
返事を待って、入ってきたのはエレアヌ。
そっと差し出されたのは、一揃いの衣服。
「リオ様…」
それを受け取る少年の黒い瞳を真っ直ぐに見つめ、淡緑色の瞳をもつ優美な青年は微かな笑みを浮かべて言う。
「死の大陸へは、私も同行いたします」
その言葉に、リオは目を丸くした。