ACT・3
ACT・3(恵みの泉)
―――すべては、大いなる力に満ちている。
奇跡とは、その真理を知る者がそれを解き放っただけに過ぎない…―――
「…み、湖だ…!」
「恵みの泉が蘇ったのか?」
朝食を済ませ、畑仕事に取り掛かるため建物の外へ出て来た人々は、前方に広がる湖と、髪や衣服からポタポタと滴を落としながら歩いて来た二人を見て呆然と立ち止まった。
「私は信じるぞ。この方の内に、聖なる魂があると」
奇跡を間近で見た青年は、人々を見据えて宣言する。
当のリオはといえば、ズブ濡れになった服をどうしようかと思案し、とりあえずシャツの裾を絞ってみた。
(…参ったな…着替えなんか持ってないし…)
思ったその時、彼の頭に「声」が響く。
『…ごめんなさい、貴方の服を台無しにしてしまったわね…』
直後、リオは見えないヴェールの様なものに包まれた。
すると、シャツやジーパンを濡らしていた水が分離し、おはじきの様な粒となって宙に浮かび始める。
「お…おい、見ろ」
人々がザワつき、その視線は一斉にリオへと向けられた。
少し遅れて、隣の青年が纏う麻に似た生地のシャツやスボンからも水が分離し始めた。
「…同じだ…子供の頃にリュシア様と遊んでいて、川に落ちた時と…」
サファイアブルーの瞳に、硝子玉のような水のかけらを映し、彼は独り言の如く呟いた。
若長よりやや年下なだけの青年は、野山を共に駆け回った記憶をもっている。
快活な子供であったリュシアは、川辺の岩から岩へと飛び移り、足を滑らせ落ちたりもした。
けれど水はいつも彼を守り、濡れた衣服はすぐ元通りになった。
…陽光を受けて煌めく水の玉は、幼き日々と同じにしばし彼等の周囲を漂っていたが、やがて地面へ吸い込まれてゆく。
あとには、髪も服もすっかり乾いた二人が残された。
豊富な水を得た事は、白き民たちにとって大きな喜びであった。
人々は湖に駆け寄り、それが幻でないことを確かめるように、手を突っ込んだり顔を洗ってみたりする。
やがて、ひんやりとした水が本物であると知った彼等の喚声が、湖面に響き渡った。
乾いた畑は潤され、萎れかけていた作物が瑞々しさを取り戻し始める。
井戸端では洗濯担当者の数名が、盥に入れた衣類を手際良く揉み洗いしてゆく。
水不足のせいで抑制されていたもの全てが解放され、多くの笑みを生んだ。
神殿にある、二~三十人が同時に入ることが可能な沐浴場には、久しぶりに湯が張られ、身を清める者達の声が谺する。
(…ローマの神殿に参拝者が入る銭湯みたいな物があるっていうけど、これも同じかな…)
大理石に似た滑らかな肌触りの浴槽の縁に両腕をかけ、その上に顎を乗せながら、リオは湯気を眺めていた。
湯殿に居る人々はもう怯えていないけれど、話しかけてくることは無かった。
それでも、一緒に沐浴出来る分だけ、彼等との隔たりは狭まったといえる。
リオは焦らず、持ち前の人なつっこさを鍵に、少しずつ心の扉を開いてゆこうと思っていた。
「火石」と呼ばれる、水に浸かると高熱を発する鉱物で温められた湯は、良質な温泉のように心地好い。
(風呂好きは日本人だけじゃないんだなぁ)
周囲に視線を巡らすと、のんびりと湯に浸かる人や、泡立つ植物の汁を海綿に似た物に染み込ませ、身体を洗う人が見える。
全体的に長身の者が多く、髪や瞳は様々な色彩をもっているけれど、白き民達の身体は地球人と変わらなかった。
目も、鼻も、耳も、手足も、その数は同じ。
形は、人種の差程度にしか違わない。
リオには、エルティシアが「異世界」ではなく、「異国」…思想や経済の違いこそあれ、惑星単位で見れば一つの世界…に思える。
言葉が通じるのは、ここが日本語圏だからではなく、リオの中の「リュシア」が言語を翻訳しているため…
そのせいもあって、彼は異なる世界に来たという実感が今一無い。
「…ここは…一体何処なんだ…?」
浴場の賑わいに隠れて発せられた呟きは、応える者の無いまま白い湯気に飲まれた。
沐浴を終えると、リオは神殿のすぐ横に建つ塔へ登り、細い線のように見える地割れに目を向けた。
(…あの向こう側には、誰も住んでいないのかな…?)
妖精たちの呼び名はすぐ思い出せるのに、彼はこの世界がどういう状況なのか、自分は何をすべきか、はっきりとは分からない。
ふわふわと髪を揺らす風は、のぼせた頬を冷ましてくれる。
「ここにいらしたのですか」
低く穏やかな声がして、足首までのびた髪をもつ青年が、リオに歩み寄ってきた。
…湿った金髪が、しなやかになびく…
「良い風ですね」
空へと向けられた瞳は、木々の若芽と同じ淡い緑。
「エレアヌ」
リオは、日本人には発音しにくいその名を呼んだ。
「はい」
深みのある声が、すぐに応える。
向けられる微笑みは、緑柱石色の空間で会った時から変わらない。
「ここと日本って、どういう関係がある?」
リオは問うた。
違う時空間とか異なる世界とか言われても、ついこの間まで普通の高校生だった彼には、その構造がよく分からない。
「近くに在りながら、通常は行き来できない場所同士…それがエルティシアと日本です…」
ゆっくりとした口調で、エレアヌは語る。
「…例えば、この二つの石…こうして転がった状態では触れ合う事はありませんが、これを近付ければ…」
足元に落ちている小石を二つ拾うと、彼はそれを左右の手に持って近付けてみせた。
カチンと音をたて、石の表面が接触する。
「生命の木は、エルティシアと異世界とを、このように繋げる力を秘めています。勿論、貴方が居た世界以外とも接触は可能です」
「…じゃあ、僕の前世はどうしてあの世界を…日本を選んだ?」
「…それは…」
新たな疑問を投げかけるリオに、エレアヌは珍しく笑みを翳らせた。
…しばしの沈黙の後、彼は淡い緑色の瞳を揺らし、転生者の少年を見つめて言う。
「…ここに…最も近い存在だったからです…」
けれど、それ以上言葉は紡がれず、賢者と呼ばれる青年は細い指先で目頭を押さえ、失礼します、と頭を下げ立ち去ってゆく。
問いたい事はまだあるけれど、塔に残ったリオに答えてくれる者は無い。
エルティシアに来てから二日目、間もなくそれも過ぎようとしている事を、オレンジ色に染まった空が告げていた。
前世で使っていたという部屋に入ると、同居人の姿は無く、整えられたままの二つの寝台と質素な家具だけが彼を待っていた。
白夜とはいえ、室内は薄暗い。
隅にある飾り気の無い四角い机に歩み寄り、リオは燻し銀の燭台に灯を点そうとした。
…が、傍らにある白い二つの塊が火打ち石のような物だと判っても、慣れない者に扱える筈はない。
何度かカチカチやっていると、背後で木戸の開閉する音が聞こえた。
「何してんだ?」
声をかけられて、彼は背後を振り返った。
「シアル?」
そこに居たのは、銀髪の少年。
大きな蒼い瞳は、最初に会った時より鋭さが和らいでいる。
「貸してみな」
シアルはリオから火打ち石を受け取ると、二回ほど打ち合わせて蝋燭に点火した。
そして、膨らんだシャツのポケットから、桃によく似た果実を掴み出し、差し出す。
「食えよ」
「…ありがとう」
一瞬戸惑ったけれど、リオは両手でそれを受け取った。
「美味いぜ。さっき採って来たやつだから」
言うと、シアルはもう一つ取り出し、先に齧ってみせる。
リオは両の掌に乗せた果実に視線を落とし、片手に持ち変えてかぶりついた。
「美味い」
赤みがかった果皮は、スモモに似た酸味。
中の果肉は柔らかで甘く、白桃を思わせる。
「…だろ? それ見つけるの、けっこう苦労したんだ」
満足そうな笑みを浮かべる少年の頬には、浅い切り傷が幾つかあって、うっすらと血が滲んでいた。
見事な銀髪には、細かい枝が絡まっている。
「…もしかして、ずっとこれを?」
汁気の多い果肉で喉を潤しながら、リオはふと、シアルが朝から居なかったことを思い出した。
「…転生者が来たら、食べさせようと思ってたんだ…」
微笑んだのに寂し気な、彫りの深い顔…
「アムルの実…リュシアが好きだった食べ物だから…」
蒼い瞳が深い色に翳り、少年は一瞬、幼い子供のように頼りなく見える。
「…それから、昨日は…剣を向けたりして…ごめん…」
まっすぐに向けられる瞳は、僅かに潤んで揺れていた。
…激しい気性に隠れる、純粋な心…
幼子の様に人を慕う一途さを、リオはこの少年の内に見出していた。
「気にしてないよ」
彼は本心から、そう答える。
お愛想ではなく、相手を気遣う優しさから浮かべられる笑みは、シアルを安堵させた。
枝か何かで切ったらしい傷に片手を近付け、リオはそれが癒えるよう願った。
自分の中に眠る「力」が、いつどんな時に発せられるのか、彼にはまだ判らない。
ミーナの腕のケロイドを消した時、それよりも新しい指先の傷はそのままだった。
今のところ意識して使った事は一度も無く、前世の心が浮上した時、自然に奇跡は為されていた。
…けれど今、リオは初めて自ら望んで「力」を使おうとしている…。
水の妖精を救った時とは違う柔らかな光が掌から染み出し、少年の頬を包み始めた。
…すると、急速に傷が癒えてゆく…
シアルは最初目を丸くしたものの、それはすぐに無邪気な笑みへと変わった。
(…間違いない…。今ここに居るのは、俺を拾ってくれたあの人なんだ…)
十三年前、魔物に食い散らかされた両親の骸の下で、傷と飢えとで泣くことすら出来ぬほど衰弱していた彼を、ふいに包んだ温もり。
抱き上げられたのだと分ったのは、全身の傷がすっかり癒えた後…。
懸念する人々に構わず、二歳になるかならぬかの子供を、引き取ると言い切った少年。
…白き民の中でもエルティシア大陸東方に住む少数民族の子として生まれ、その叡智と不思議な力ゆえ、魔物の襲撃を逃れた人々がこの地に集まった時に弱冠十二歳にして長と定められた、瑠璃色の瞳をもつ聖者…。
数ヵ月前、ラーナ神殿とその周辺に強固な結界を残し、輪廻の旅に出た青年…
彼は新たな生を受け、ここに戻って来た。
シアルはやっと、言うことが出来る。
…待ち望んでいた者を迎える、ただ一つの言葉を…
「…おかえり、リュシア…」
胸が熱くなるのを感じつつ、彼は微笑う。
蒼い瞳から、温かい滴が溢れた。
―――…転生とは、生命の輪の中で起こる新たな自分への旅立ち。
けれどそれを拒む者は、その悠久の流れを閉ざされ彷徨う…―――
…ラーナの聖域から遥かに南、守護結界の外を、一羽の鷹が舞っていた。
鷹といってもその大きさは地球に生息するものとはケタ違いで、翼の右端から左端まで六メートルを優に超している。
風が清められ、天空が青さを取り戻した時から、鷹は何かを探す様に飛び続けている。
高く、遠く、滑空する金茶色の巨鳥…
…食べることも、飲むことも、眠ることも、すべてが本能から消去され…
ただ、飛ぶことだけに意識を集束し…
…そして数十日後、遂に見つけた。
妖精たちを清める光が、発する場所を。
…聖なる力の根源を…
「どこへ撒けばいい?」
二つの手桶いっぱいに水を汲み、彼はポタポタと滴を落としながら歩いている。
「こっちに下さ~いっ」
右側に居た女性達が、笑顔で答えた。
エルティシアに来てから約1ヵ月、黒い髪と瞳をもつ少年は、すっかり白き民たちと打ち解けていた。
心の扉を開けたのは、本人の気さくな性格と、次々に起きた奇跡に他ならない。
恵みの泉が蘇ったのを皮切りに、神殿周辺の大地は肥え、作物はすくすくと成長し始め、今まで種を蒔いても育たなかったものでさえ、形の良い芽を出し、瑞々しい葉をつけ、花が咲けば必ず結実した。
栄養不足で弱っていた者は日に日に体力を取り戻し、傷を負っても光を放つ手に癒されるので、あまり使われなくなった薬草が並ぶ棚を背に、医者代わりをしていたエレアヌは肩をすくめ、「仕事が減りますね」と笑った。
警戒心を抱く者に、無防備で無邪気な子供と同じ人なつっこい笑顔で話しかける少年…
人々の中から、怯えの影は消えた。
手桶の水を浴びて揺れる様々な形の作物に囲まれて、童顔の少年と植物以上に鮮やかな色彩をもつ民達は、声を上げて笑い合った。
「リオ!」
幼子の様な声に呼ばれ、彼は空を見上げる。
他の者もつられて顔を上げた。
透き通った羽根をもつ妖精たちが、何やら慌ててスッ飛んでくる。
「どうした?」
リオが問うと、彼等は小さく細い腕を上げ、南の方を指差した。
「あれを見て」
そこには、辛うじて鳥に見える、小さな影が浮かんでいる。
「へえ…こっちの世界にもやっぱり鳥がいるのか」
「そうじゃなくて~っ」
呑気に呟くリオの髪を、風の妖精の一人が引っ張った。
「あの鳥、変なんだ」
「僕たちの声が聞こえないんだよ」
妖精の中でも特に小さな二人が、それぞれ左右の肩に乗って告げる。
「…空を飛ぶ生き物はみんな、風と語れる筈なのに…」
髪の端を持ったまま、少女の様な姿をした妖精は不安気に上空を見つめる。
鳥の形をした影は、次第に大きく…つまり、こちらに近付いてくる。
小さいながらも老若男女そろった妖精達に寄り添われ、リオは接近してくるものの正体を見極めようと凝視し続けた。
距離が縮まるに従って、それは相当大きな鳥である事が判る。
やがて、金茶色の鷹に似た巨鳥が見え始めた。
グライダーの如く滑空する、勇壮な姿。
大人が両腕を広げても届かない、その倍はあると思われる長い翼。
真珠色の爪は、小刀の様な大きさと鋭さをもっている。
猛禽類特有の曲がった嘴は、人間の身体などたやすく食いちぎる事が出来るだろう。
危険を感じた人々は、悲鳴を上げて神殿の方へと駆け出した。
「危ない!」
「早く逃げてください!」
何人かが、その場を動かぬリオに気付いて叫ぶ。
…けれど黒髪の少年は、巨大な鷹に両手を差し延べた。
「おいで」
凛とした声が、辺りに響く。
直後、彼の姿は金茶色の翼に包まれた。
人々の間に悲鳴が上がる。
気の弱い者は失神し、何人かが両手で顔を覆った。
身体を震わせ、或いは硬直させ、すべてを見つめ続けた者達は、次の瞬間一斉に驚きと感嘆の入り混じった声を漏らす。
巨鳥の身体が金茶色の粒子と化し、煌めきながら人型に集まってゆく…
…差し延べられたままの腕の間で、雲母のような粒子は渦巻き、一人の人間となった。
状況を直視出来なかった者が両手から顔を離し、ざわめきによって失神者も気が付いた時、鷹の姿は既に無い。
代わりに、金茶色の髪と瞳をもち、薄汚れた茶色の長衣を纏った少年が、筋肉の乏しい両腕でリオの肩にしがみついていた。
その背を撫でる少年の漆黒の瞳は穏やかで、慈愛に満ちている。
「…大丈夫…ですか…?」
遠巻きにしていた人々は、恐る恐る二人の方へと歩み寄って問う。
「お怪我はありませんか…?」
「大丈夫、敵意は無いみたいだ」
彼等の方を向き、リオは微かな笑みでそう答えた。
その首に両腕を絡めたまま、痩せた少年は微かに肩を震わせている。
「驚いた…鳥が人間になっちゃったよ」
「それとも、人間が鳥に化けてたのかな」
周囲を飛び回りながら、風の妖精達が口々に言った。
「…冷たい…」
唐突に、リオはぽつりと呟いた。
「…どうしてこいつの身体は…こんなに冷えきってるんだ…?」
首に触れる細い腕は、体温を全く感じさせない。
先刻まで氷水に浸されていたかのような、生気を失った冷たさ…
…空は地上より気温が低いからか、それとももともと低体温なのか…
その時、痩せた少年が何か言葉を発した。
けれど、音としてしか聞き取れぬ、掠れた声が漏れただけで、何を言ったのか判らない。
「…今、何て…?」
聞き返そうとした時、骨張った腕から急に力が抜けた。
リオに凭れ掛かる様な状態で、少年はズルズルと頽れてゆく。
低過ぎる体温から嫌な予感がしてその手首に触れた途端、リオは息を飲んだ。
(脈が無い…!)
それはすなわち「死」に近い事を意味している。
「…お、おいっ」
彼は慌てて、冷たい身体を揺する。
けれど閉じた瞳は、開かれなかった…
脈はおろか、呼吸すらしていない少年は、薬草庫の隣にある空き部屋へ運ばれた。
医術に心得のあるエレアヌでも、傷や病を治す力を持つリオでも、蘇生させる事が出来ないでいた。
(…会ったばかりで、いきなり死ぬなよ)
質素な寝台に動かぬ身体を横たえさせ、リオはぼんやりとその顔を見つめる。
彼は今まで、人の死というものを体験した事が無い。
祖父母はまだ健在で、両親も病気といえば風邪ぐらい。
唯一、曾祖父が肺炎で亡くなったけれど、当時リオは二歳かそこらで、記憶は薄い。
覚えているのは白木の棺が霊柩車に運ばれるところぐらいである。
…けれど、自分と似た年頃か年下に思える少年の死は、彼の心に暗い影を落とした。
ぐにゃりと力なく凭れ掛かってきた、細い身体…
…刹那、発せられた声は、何を告げようとしたのか…?
「…鳥に変身する人間なんて、初めて見たよ。ここって、そんなのも居るのか…」
溜め息混じりに、リオは言う。
「…それとも、人間に化ける鳥…かな?」
金茶色の鷹と、華奢な少年…どちらが本当の姿なのか…
「…こいつ…一体何…?」
ぶつかると思った途端、鷹が粉々になってしまったのには、正直彼も面食らった。
金茶色の細かな粒が人間と化してゆくさまを見て、誰よりも動揺したのは、それが間近で起こったリオ。
「…多分、ファルスの森の者でしょう。あの地には、半人半獣が居るという噂がありますから…」
隣に立つエレアヌは、そんなことを教えてくれた。
「その森、何処にある?」
頬が少し痩けた金茶色の髪の少年から、柔和な微笑みを浮かべる黄金の髪の青年へと、リオはその黒い瞳を向ける。
「ここからずっと遠く…結界と地割れを越え、更に南へ行ったところにあります」
淡い緑の瞳が、穏やかに見つめ返してくる。
「…風の妖精に運ばれれば数分ですが、鳥の翼なら一ヵ月くらいはかかる遠い地方ですよ」
「…まさか、そこからずっと…?」
まともな食事をとっていたとは思えない、痩せた身体…
「…この様子だと、おそらく…」
エレアヌが、哀れむ様な目を遺体に向ける。
「…そういえば、こいつ…シアルよりずっと軽かった…」
リオも視線を少年の亡骸へと戻した。
たやすく抱える事が出来た、細い肢体。
死因が飢えかどうかは不明だが、相当衰弱していた事は、フラフラとした飛び方を見た時に判った。
猛禽類にしては鋭さのない瞳が、僅かに白濁しているのを目にした瞬間、「墜落する」と思った。
だから咄嗟に手を差し延べ、それを受け止めようとした。
…下手をすれば、ナイフのような爪に切り裂かれるか、巨鳥の下敷きになっていたかもしれない…。
後から考えれば、かなり危険なその行為を、彼は躊躇いもなくやってのけていた。
「…お願いですから無茶はしないで下さい。本当に貴方はリュシア様そっくりですね…」
保護者のようなまなざしを向け、エレアヌは低く深みのある声で言う。
春の木洩れ日に似た、優しく淡い緑の瞳…
「そんなに似てるかな?」
リオが目を向けると、中性的な顔立ちの青年は、聖母の様に柔らかな笑みで応えた。
「…でも…」
再び少年の方を見つめると、リオは普段より1オクターブ低い声で呟く。
「…僕は…こいつを助けられなかった…」
そっと手をかざしても、光は発せられない。
癒しの力は生きている者に対してしか使えないのだと、このとき彼は悟った。
…もっと早く「力」を発動させていれば、回復してやれたかもしれない
悔やみながら冷たい頬に触れた時…
ふいに死者の手が動き、リオの手首を掴んだ。
「うわっ!!!」
ホラー映画のような体験に、彼は狼狽する。
さすがに逃げ腰になってしまうが、体温の無い手は離してくれない。
「リオ様!」
声を上げたものの、エレアヌすら対処に途惑う。
やがて、少年が起き上がり、何か言いた気に口を開いた。
「…セ…イ…ジャ…」
やっと漏れた呟きに、二人は身を硬くする。
焦点の定まらぬ少年の白濁した瞳が、透明な色彩を取り戻し始めた。
琥珀色に変わった円らな瞳に、漆黒の髪をもつ少年と、その傍らにいる黄金の髪をもつ青年が映る。
「…ドウカ…キテ…クダサイ…」
手首を掴んだまま、たどたどしい口調で、死んでいた筈の少年は言う。
その瞳は沈む直前の陽光のように、どこか儚い金色…
「『来て』…って、一体どこへ?」
リオは問うた。
「…ファルス…ノ…サト…」
「ファルスの里?」
エレアヌも問う。
「あそこは確か廃墟ではありませんか?」
高い知性を秘めた緑の瞳が、謎多き少年を見据える。
「…ソウ…」
少年の瞳が、賢者と呼ばれる青年へと向けられた。
「…ダケド…イマモ…」
言葉を上手く紡ぎ出せず、少年は口籠る。
それから、リオへと視線を移した。
懇願の意を込めた、蜂蜜色の瞳…
リオの手首を掴む力が、僅かに強まる。
「…聖者よ…」
比較的はっきりとした言語で、少年は呼び掛けた。
「どうか…ファルスの民…を…助けて…」
絞り出すような声に、リオの心は揺れた。
深層意識に在る「リュシア」が、ゆっくりと浮上してくる…
彼は傍らのエレアヌに目を向けた。
…その瞳が、聖なる青へと変化する…
「ファルスの里に何があるのか、今は俺にも分からない」
リオより強い意思をもつ「彼」は、低いがよく通る声で告げる。
「…だけど、助けを求める者がそこに居て、俺にそれが可能だというなら…行ってみようと思う」
まっすぐに見据える、瑠璃色の瞳…
「…真理は、貴方の中にあるのです。私は、貴方がなさる事を止めはしません…」
穏やかな若草色の瞳でそれを見つめ返し、温和な青年は静かに応えた。
それを確認すると、「リュシア」は座っている少年の方を向く。
「案内してもらえるか?」
低く深みのある声に問われ、少年は頷いた。
そして掴んでいた手を離し、床へ降りようとする。
ふらつく身体を気遣い、リオは少年を抱き上げた。
「いってらっしゃいませ」
部屋から出て行く二人の少年を見送り、女性的な容貌をもつ金髪の青年は、優雅に一礼した。