ACT・2
ACT・2(水の妖精)
『…タスケテ…』
それは、闇の方角から漂ってくる。
『…聖なる青の瞳をもつ…友よ…』
か細い、今にも消えてしまいそうな声…
『助けて…リオ…!』
「誰っ?」
悲痛な呼び掛けに、まどろみの中にいた彼は飛び起きた。
部屋の中に居るのは、リオとシアルの二人だけ。
白夜のため辺りは茜色に染まっているが、まだ眠りの時刻なのだろう、神殿内は静まり返っている。
隣のベッドには、ぐっすり眠るシアル。
その寝顔は、意外なほど無防備で幼い。
(こいつの寝言…かな?)
思ったけれど、それは多分ありえない。
何しろシアルは、リオの名をまだ知らないのだから…
…翌朝、リオは木戸の隙間から流れてくる香草の匂いで目を覚ました。
シアルは先に起きたのか、室内には居ない。
(…意外と几帳面なんだな)
整えられた寝台を見て、リオは思う。
彼は自分の部屋や寝具に無頓着で、母によく叱られる。「自分の物くらい片付けなさい」と、何度怒鳴られたことか…
シアルに母はいない。
養父のリュシアも数ヵ月前に世を去り、それからずっとこの部屋で一人暮らしていたらしい。
世話役のエレアヌが散らかった部屋を見て怒鳴るところなど、あまり想像出来なかった。
(…それとも、エレアヌが片付けたのかな?)
かなり女性的で柔和な青年の顔が、脳裏に浮かぶ。
白き民達に「賢者様」と呼ばれていたエレアヌは本来、誰かの身辺の世話をするような身分ではない筈。
その彼がシアルの面倒をみるようになったのは、リュシアに頼まれたからか、それとも自ら引き受けたのか…
そんなことを考えつつ、リオはベッドから降り、不器用な手つきで寝具を整え始めた。
そんな彼を母が見たら、きっと「どういう風の吹き回し?」と言って、目を丸くするに違いない。
周囲に準じるのは日本人の性、彼はそれに漏れず、整った寝台に倣うことにした。
「あれ? 何か前よりくちゃくちゃになったような…」
しかし、普段しない事をやろうとしても、上手く出来る筈はない。
クリーム色のシーツがピンと張れず悪戦苦闘しているうちに、扉を軽く叩く音がした。
「どうしたのですか?」
返事を待ってから入って来たエレアヌは、木の台とマットの間にシーツを押し込もうと必死になっているリオを見て首を傾げた。
「え? いや、その…」
返事に困り、リオは冷や汗をかきつつ笑ってみせる。
状況を把握したのか、エレアヌは柔らかな笑みを浮かべ、リオの方へ歩み寄ると慣れた手つきでシーツのシワをのばし、マットの下に丁寧に折り込んだ。
「す、すいませんっ」
「構いませんよ」
恥ずかしさに赤面して謝るリオを見て、美貌の青年は穏やかに微笑んで立ち上がる。
それから、ぽつりとこう言った。
「似てますね…」
「え?」
リオはキョトンとして、エレアヌの顔を見上げた。
二人の身長差はかなりあり、並んで立つとリオの目の高さにエレアヌの肩がある。
「…リュシア様も、不器用な方でしたから…」
そう言って、若草色の瞳の青年は、遠い日を想う様な笑みをリオに向ける。
「貴方を見ていると、少年時代のリュシア様が帰ってきたような気がします…」
エレアヌの目には、青銀の髪と瑠璃色の瞳をもつ少年の姿が、リオに重なって見えた。
前世と現世、二つの顔は実際あまり似てはいない。
リュシアの方が彫りが深く、やや切れ長の目であったし、頬から顎にかけての輪郭は、リオの方がふっくらしていた。
それでも、緑の賢者と呼ばれるエレアヌには、双方の本質が同一のものだと判る。
「さあ、そろそろ広間の方へ行きましょう。食事の用意が出来ていますから」
ふと我に返ったように言うと、彼はリオを導いて、食堂の代わりとなっている場所へと歩き出した。
ラーナ神殿では、四~五〇人の白き民と光・地・水・風・火の五人の神官が、岩の様に大きな水晶を置いた祭壇のある大広間で食事をとる。
もともと、祭事がある度に人を集めて宴を開いていたという神殿には、百を超す数の椅子や、十人で一つの長方形のテーブルなどが常備されていたらしい。
料理を作る者は決まっていて、若者や年輩者の中から、性別を問わず選ばれる。
「『老若男女に関わらず、上手い者が料理を作ればよい』というのが、リュシア様の方針でした…」
大理石に似た滑らかな廊下を歩きながら、エレアヌは言う。
「私達は今も、それを守っているのです」
(…案外、エレアヌも上手かったりして…)
常に穏やかな印象を与える、例えるならば白鳥を思わせる優し気な顔を見上げ、リオはそんなことを思う。
寝台を整えた手さばきは、かなり慣れたものであった。文句を言いながらリオの布団を片付ける母以上に。
もしかしたら、ベッドで寝起きする習慣の人々は、みんなベッドメイクが上手なのかもしれないが、リオにはエレアヌが特別手際が良いように思えた。
「こちらです」
開いたままになっている大きな木戸の横で立ち止まり、エレアヌは上品な仕草で片手を上げ、先に入るよう勧めた。
大広間の中から、白き民達の賑やかな話し声が聞こえてくる。
だが、リオが一歩入った途端、人々の声はピタリと止んだ。
(…こういうのって、苦手だな…)
頬が引き吊るのを感じつつ、リオは背後にいるエレアヌに助けを求める様な目を向けた。
「あちらの空いている席へどうぞ」
すぐに理解し、ほっそりした片手が広間の左端にある空席を指し示した。
視線という名の嘴につつかれているような気分で、リオはそちらへ歩いてゆくと、木の椅子に両手をかけて引いた。
(…何も静まり返らなくたっていいのに…)
ガタンという音が、妙に大きく聞こえる。
少し遅れてエレアヌが隣の椅子を引いたのが、せめてもの救いだった。
ほどなく、一人の若い女性が、丸いパンとシチューに似た料理を木の盆に乗せて運んでくる。
しかしその表情は硬く、両手は微かに震えていた。
(…やっぱり僕が怖いのか…)
リオが溜め息をついた途端、少女のようにも見える女性はビクッと身を竦め、盆を落としてしまった。
「…も、申し訳ありません…!」
悲鳴に近い声で言うと、彼女は慌てて食器を拾い始める。
けれど陶磁器に似た椀の破片で指先を切ってしまい、短い悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
見るに見兼ねて、手伝おうとしたエレアヌより一瞬早く、リオは椅子から離れ、少女の隣に膝をついた。
「あ、スッパリ切っちゃってる…早く手当てしておいでよ。これは僕が片付けるから」
怯える少女を気遣い、リオはわざと明るく言って、割れた食器を拾い始めた。
そんな彼を、少女も周囲の人々も唖然として見つめる。
「…あのっ…私、自分で片付けますから…!」
引き吊った声で言って、再び破片を拾おうとする少女の手を、リオは軽く掴んで止めた。
「いいって。手当てが先だよ」
掴んだ手首から、少女の震えが伝わる。
その少し上腕には、衣服の袖に隠れているケロイド状の傷痕が在るのが見えた。
しかしリオは、それに気付かぬふりをした。
「でも、長の転生者がこんなこと…」
「そんなの関係ない」
リオはどうにかして相手を安心させようと、精一杯の笑みを向ける。
「え…?」
大きな目を真ん丸に見開いた少女には、黒髪の少年の顔に一瞬、懐かしい人物の笑顔がダブッて見えた。
「身分なんかどうでもいい。怪我をした人は手当てをしに行く、手の空いてる者は食器を片付ける、そんなの当然だろ?」
人なつっこい笑顔で言うと、リオは少女の腕を離した。
「さあ、行きなよ」
それでも少女が行こうとしないので、穏やかな眼差しで自分と少女とを見ていた淡緑色の瞳をもつ青年の方を振り返る。
「エレアヌ、この人の手当てを…」
「分かりました」
黄金の髪を揺らして立ち上がると、エレアヌは少女の手を引いて大広間から出て行った。
あとに残り、せっせと食器を拾うリオを、白き民達は放心した様に見つめていた。
薬草の詰まった壺が棚に並ぶ部屋で、少女は傷の手当てを受けた。
本来そこは広いのかもしれないが、ズラリと並ぶ棚のせいで、かなり狭くなっている。
エレアヌは粘土を焼いて作った壺から、血止め草の葉を取り出すと、少女の指に巻く様に貼ってやった。
「…ありがとうございます…」
小さな声で少女は言う。
うつむきがちだった彼女は顔を上げ、淡い緑の優しい瞳に視線を合わせた。
「賢者様…」
「何ですか?」
背の高さと低い声を除けば、男性か女性か判らないエレアヌは、暖かな印象を与える微笑みを少女に向ける
「…あの方は…本当に転生者なのですか…?」
「そうですよ」
おずおずと問う彼女に、言いよどむ事なく彼は言う。
「…でも…あの闇色の髪と瞳は…」
震える声で少女は言う。
「…私たちの都を滅ぼした魔物と…同じではないですか…」
彼女の脳裏には、忌まわしい過去の光景が甦る。
…崩れてゆく石造りの建物と、ほとんど紅い肉塊と化した死体。
服の色が判らぬほど血に染まり、悲鳴を上げながら逃げ回る人々。
狂喜して襲いかかる漆黒の怪物達…。
十三年前、数百年に一度大発生するという魔物の襲撃を受けて、白き民が数多く住んでいた都チヒロは壊滅状態となった。
万の単位であった人の数は、一気に数百まで減り、その生き残りも避難する途中で次々に命を落とし、やっとの思いで砂漠を渡り、その果てにあるラーナ神殿にたどり着いたのは、わずか九〇名であった。
しかも、当時は大旱魃の年でもあり、食料不足と疲労とで更に死者が続出し、急激な環境変化のせいで生殖機能は低下、子供が生まれなくなり、人口は激減した。
現在は、高齢の「地」と「光」の神官二人以外に老人は存在せず、子供も都を脱出した時から生き延びてきた者のみである。
少女はその一人、四歳という幼さで奇跡的に生存出来た者で、幼少時の栄養失調のため十七歳になった今も二次成長が無く子供を産めない身体である。
「彼は異世界から来たのです。この世界では黒い色をもつのは魔物だけですが、彼の住む世界では人にも、鳥や獣にも、植物にも、黒色をしたものがいるのですよ」
やんわりとした口調で、エレアヌは諭す様に言う。
「そして彼は、その世界に在る島国、黒い髪と瞳の民族が住む、日本という国に生まれたのです…」
「それではまるで魔の国ではありませんか!」
叫ぶように少女は反論する。
肩までのびた白金色の髪が、パサリと揺れた。
「そんな処から来た者が、本当にリュシア様の生まれ変わりなのですかっ?」
「ええ、間違いなく」
対するエレアヌは、どこまでも穏やかで、その優しい笑みは絶える事がない。
「ミーナ」
ふいに、彼は少女の名を呼んだ。
「貴女はもう判っているのではありませんか?あの少年の本質が…」
言われて、ミーナはふと自分の左腕に視線を落とす。
鋭い破片に触れさせぬよう、掴まれた手首。
そこに触れたリオの手は、温もりと優しさを伝えてきた。
十三年前、彼女を食い殺そうとした魔物の手は、ぞっとするほど冷たかった。
少女の腕に残る焼け爛れた様な傷痕は、魔物の身体が発する、酸のような毒にやられたもの…
「!」
ミーナは急に、勿忘草色の瞳をいっぱいに見開き、左の袖をまくり上げた。
滑らかな白い肌が、その下から現れる。
…そこにあった筈の、醜いケロイドが無い…
魔物の手形が残る傷痕を、ミーナはひどく嫌っていた。
まるで今も腕を掴まれている様で、恐ろしくて目を向ける事が出来なかった。
どんな薬草でも消す事の出来なかった皮膚の爛れを、彼女はずっと隠し続けていた。
…それが、完全に消え去っている…。
「リュシア様は、貴女の傷の事を気にかけておられました」
優しいけれど真剣なまなざしで、エレアヌは少女を見つめる。
「けれど貴女は、誰にもその傷痕を見せず触れさせようとはしなかったので、癒すことをためらわれていたのです…」
リオが少女の手首を掴み、魔物に汚された皮膚に気付いた瞬間、無意識の内に聖なる力を使った事に、エレアヌは気付いていた。
それはほんの一瞬で、周囲の人々は勿論、ミーナすらも分からなかった。
…けれど、賢者の目には見えたのだ。リオの手から放たれた、微かな光が…
「…それを見てもまだ、貴女は彼を魔物だと思いますか?」
エレアヌの問いに、ミーナは答えることが出来ない。
彼女の両眼からきらめく滴が零れ、傷一つ無い白い腕にポトリと落ちた。
一方、食器の破片を集め終えたリオは、床に広がるシチューを拭く物を借りようと顔を上げた。
「あのー、雑巾ありますか?」
問うたものの、人々に動きはない。
わざと明るい声で言った自分が、何だか馬鹿みたいに思えた。
(…探しに行った方が早いかな…?)
立ち上がろうとした時、目の前に灰色の布が差し出された。
「どうぞ」
持って来てくれたのは、青い髪の若者。
その表情は、昨日より幾分和らいでいる。
「ありがとう」
内心ホッとしながらリオは布を受け取り、汚れた床を拭き始めた。
布を二枚持って来ていた若者が、その横に屈む。
少々意外な行動に、リオは目を丸くした。
「私も今、手が空いてますから」
床に目を向けたまま言う声は、抗議していた時よりもずっと穏やかだった。
二人がかりなら作業は早い。
リオと青年とが床をほぼ拭き終わる頃、手当てを済ませた少女とエレアヌが戻って来た。
布を洗おうと外へ出て行く二人と、広間に向かう二人が、廊下ですれ違う。
「…ありがとうございます…!」
途端に、ミーナが深々と頭を下げた。
「別に、そこまで礼を言われるような事じゃないよ」
…片付けを代わったくらいで大袈裟な、と、リオは人差し指で頬を掻いた。
自分の膝が見えるほど、丸められた少女の背は、微かに震えている。
「…本当に…ありがとうございました…」
「そんな、大した事してないんだから。顔を上げてよ」
対応に困ったリオはふと、自分の右手に持ったままの布に気付いた。
「じゃあ、僕はこれを洗いに行くから」
一声かけて、リオは少女から離れ、青い髪の若者と共に歩いてゆく。
…背中に、ミーナとエレアヌの視線を感じながら…
少女の瞳が潤んでいる訳を、彼は知らない。
けれど、閉ざされた心が少し、開き始めたような気がした。
神殿付近には、現在三つの井戸がある。
一つは、調理場にある炊事用のもの。
一つは、神殿前の広場にある手や顔を洗う為のもの。
そして残る一つは、神殿周辺に畑が作られた時に掘られた、比較的新しいもの…
リオと青年はその新しい井戸の所へ来ると、釣瓶を投げ込み、傍らに置いてある桶に水を汲んだ。
少量の砂が混じった水は、地下水の少なさを告げている。
昔は豊富な水脈があったエルティシアだが、今では深く掘った井戸から汲み上げる水のみで凌いでいた。
『助けて!』
布を洗おうと水の中に手を突っ込んだ途端、リオの頭に「声」が響いた。
「?」
何やら驚いたような顔をするリオを見て、釣瓶を手にした青年が訝し気に首を傾げた。
(…これは…あの時の…)
リオは息を飲んだ。
昨夜、眠りの中で聞いた悲痛な声…
『お願い…助けて…!』
再び、「声」が響いた。
「水の妖精?」
呼び掛けたリオの黒い瞳が、瑠璃色に変化する。
驚いて目を見開く青年の前で、リオの髪が青銀色に変わった。
…そして少年の姿は、その場から消えた…
ゆらゆらと揺れる、淡いブルーの空間…
その一部が大きくうねり、リオが現れた。
しばし周囲を見回した彼は、自分が居る位置より遥か下に、光を放つ何かがあるのを見つける。
泳ぐ様に水色の空間を進み、リオはその光の方へと降りていった。
やがてリオの前方に、こんこんと水が湧き出す泉が見えてくる。
…アクアマリン色をした空間の底に在る、直径数メートル程の円…
その中心の、水が湧き出ている部分は、墨を流した様に黒く染まりつつあった。
「嫌ぁっ!」
甲高い悲鳴が、辺りに響いた。
それは、泉の方から聞こえる。
次第に透明度を失ってゆく水面が、ザワザワと波立ち、黒い飛沫を散らした。
「!」
周囲に散るそれを見た途端、リオはギョッとする。
…黒い染みが広がり、美しい色をしていた空間が、暗黒色に変わってゆく…
(これは…?)
そう思った時、飛沫がリオの手にかかった。
「うわっ」
一瞬慌てたけれど、彼の皮膚に変化は無く、逆に手の甲についた黒い水が、透明に変わってゆく…
『貴方は魔物に浸食されない』
ふいに、エレアヌの「声」がリオの頭の中に響いた。
振り返っても、優しい笑みをもつ美青年はいない。
それでも「声」は、低く穏やかに語りかけてくる…
『この世界では、意識するしないに関わらず、貴方は聖なる力を使うことが出来るのです。…何故なら…貴方の魂は、清めの力に満ちているのですから…』
その「声」に導かれるように、リオの身体が青みがかった銀色の光を放ち始める。
あどけなさの残る顔が、大人びた凛々しさをもつ表情を浮かべる。
泉の側に膝をつくと、リオは片手を水の中に突っ込んだ。
…その瞬間、彼が放つ光は閃光となった…。
「ギャアアッ」
おぞましい断末魔の悲鳴が上がり、水面に黒い水が盛り上がる。
それは、ドロドロとしたゼリー状の物体と化してゆく。
アメーバを思わせる魔物は、全身から湯気らしきものを放って蒸発し始めた。
リオの目前で、黒い半液体の魔物の最後の一片が、まるでフライパンに落とされた水滴の様に消え去った。
清らかに澄んだ泉には、透明な水が静かに湧き出し始める。
「ありがとう…」
柔らかく響く声がして、水面に一人の乙女が現れた。
「…水の妖精…」
呟くリオ(リュシア)の目前で、アクアマリン色の髪と瞳をもつ乙女は、西洋の貴婦人の様に優雅に一礼する。
「…お帰りなさい、友よ。貴方が戻ってくる日を、ずっと待っていました…」
少女の様にも、年輩の女性の様にも見える、不思議な微笑み…
「水の妖精、僕の姿をどう思う?」
ふいに、リュシアの意識が沈み、代わってリオの心が浮上した。
漆黒の髪と瞳に変わった姿を見ても、乙女の笑みは変わらない。
「姿は違っても、貴方は貴方。私達妖精族の友であることに変わりはありません」
彼女はふと、不思議そうに首を傾げた。
「…貴方は自ら望んで、あちらの世界に転生したのでしょう?」
意外な言葉に、リオは息を飲む。
黒い色を嫌う筈の白き民、その長が何故、日本人に生まれ変わる事を望んだのか…
「…まだ、そこまで…思い出してはいないのですね…」
ふわりとした微笑みを浮かべ、水の妖精は高く澄んだ声で、一つの予言を告げた。
「『闇に勝つ力は、闇を恐れぬ心。すべての魂を救えるのは、輪廻を信ずる思い』これは、リュシアとしての貴方が世を去る前に、私達に語った言葉です」
そして、彼女はゆっくりと両手を広げる。
「…何故その姿に生まれ変わる必要があったのか…きっとそのうち、思い出せますわ」
薄青色の空間に流れが起こり、リオの身体を上へと押し始めた。
戸惑いながら、リオは上へと流されてゆく。
そんな彼に、乙女はもう一度笑みを向けた。
「そろそろ地上に戻った方がよろしいですわ。貴方を信ずる者が、心配しておりますから…」
その笑顔が、次第に遠くなってゆく。
澄んだ泉が小さくなり、やがて一点の光と化した直後、リオは井戸の側に立っていた。
「転生者様っ!」
背後で叫んだのは、青い髪の若者。
「…その呼び方は何か違う感じするからやめてよ」
リオは赤面して言う。
「僕は古谷リオ。名前で呼んでもらえる?」
「…フル…タ…ニ…?」
言いにくい名字に、青年は声をつまらせた。
「リオでいいよ」
引き吊り笑いをしつつ、リオは言う。
「リオ様…ですか?」
今度は言い易かったのだろう、青年が確認の意味を込めて問うた。
「…『様』は、いらないんだけど…」
まあいいか、と笑ってみせるリオに、青年が更に問いかける。
「一体、何処に行っておられたのですか?」
「…何処って…」
リオは返事に困る。
あの不思議な空間は、一体何だったのか…この世界へ来る時に通過した、あの緑柱石色の空間と似ているけれど、違うもののようにも感じられる。
例えていうなら、緑の空間は樹木の水脈、薄青色の空間は地下水脈といったところか…
…しかし、リオはそれを上手く説明出来ず、言葉につまって井戸の方に目を向けた。
…その時…
二人の目前で、枯れかけていた筈の井戸が、噴水の様に大量の水を吹き出し始めた。
「これは…?!」
頭から水をかぶり、びしょ濡れになった青年が驚く。
同様に水をかぶったリオは、それにも答えられない。
彼はただ呆然と、溢れ続ける地下水を見つめるだけだった。
澄んだ水は大地を濡らし、川の様に流れ、神殿近くの大きな窪地を満たしてゆく…
…やがて、豊かな水を湛える湖が、そこに出現した…
「恵みの泉…」
青年の口から、呟きが漏れる。
…かつてそこには、大量の湧き水によって生まれた広大な湖が在った…。
十三年前の大旱魃以降、水脈が閉じられたかの様に水位が下がり続け、数年もしない間に干上がり、現在はひび割れた窪地と化してしまっていた、ラーナ神殿の水瓶…
…そこに今、再び澄んだ水が満ちている…。
『リオ…』
優しい乙女の「声」が頭の中に響き、リオは湖の方へ駆け出した。
近くまで走って来たリオに、水色の髪と瞳をもつ乙女は笑みかける。
身に纏った薄布のドレスは、滝の様な白。
水上を進み、岸辺に近付いて来た彼女は、また優雅に一礼する。
それから、リオの手をとり、その甲に接吻した。
清流を思わせる、ひんやりとした感触…
「貴方を愛しておりますわ…」
そうした行為に慣れておらず頬を赤らめるリオに、水の乙女は落ち着いた笑みを向ける。
「…妖精族は皆、貴方を愛しています…」
ふいに、その姿が蜃気楼の様に揺らぐと、上半身は美女、下半身はイルカと同じ尾の、人魚に似たものへと変化した。
「…自分の中に在る、真理を信じて下さい…。迷わないで…。魂に刻み込んだ『思い』が、貴方の道標です…」
そう言うと、水の妖精は水中へと身を翻し、きらめく飛沫を散らして姿を消した。
リオは言葉を失って、波紋の広がる水面を見つめる。
(…やはり…この方はリュシア様の聖なる魂を宿しておられるのだ…)
その背中を凝視しながら、サファイア色の髪と瞳の青年は、心の底で確信していた…。