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短編集

紫苑咲く庭

作者: 温風


 タブレット画面に目を凝らす。

 艶のある黒髪は紫紺にきらめき、長い睫毛に縁どられた瞳はどこまでも澄んでいる。肌はあえて白一色。まなじりにだけ、ほのかにテラコッタ色をぼかして塗った。わたしは少しのあいだ考え込み、やがて口もとに花を描き添えた。

 人気アニメのキャラクターが、一輪の菊を咥えている。

 お誕生日をお祝いする絵だから、日付が替わる0時ちょうどにイラストサイトにアップするつもりだ。咥える花はコスモスや彼岸花も考えたけれど、清楚な小菊を選んだ。構図を工夫して色を何層も塗って、渾身の熱量で描き上げたファンアート。正直、今年描いた絵の中でいちばんの出来だと思っていた。

 イラストをお絵描きアカウントにアップしてまもなく、スマホがブブッとうなって、アプリからの通知を告げた。期待を胸に画面をスワイプすると、知らないアカウントから『ヘタクソwww』とコメントがきた。見るからに捨てアカっぽかった。

 その後も、『この人の絵、生理的にムリ』『私の推しを描かないでください(激おこマーク)』『キモい』……そんな中傷コメントをいくつも食らって、わたしは絵を描くのをやめた。

 好きだよ、とか、創作やめないで、といって励ましてくれる人もいたけれど、ペンを持つのも画面にむかうのも苦痛になった。嗤われるのもバカにされるのもあなたではない。絵を描いたわたしに向かうのだ。

 見えない誰かの攻撃は、わたしの体と心を、ぐぢゃぐぢゃにかき混ぜた。

「そんなのほっといて、別アカ作ればいいんだよ」と気軽に言う人もいたが、そういう問題ではない。この世には『特定班』という輩がいて、そいつらはネットの向こうから人の足を引っ張ろうと食らいついてくる。見えない人喰いザメのような者たちだ。一度攻撃された絵描きは、消せないスタンプを押されたサンドバッグになる。

 自作のイラストはネットにあげず、わたし一人の手元に置いておけばいい。描くのが好きだから描いてきたんだ。人に見てもらわなくたっていいじゃないか。そうも思った。だけどふたたびペンを握っても、頭の中にはどこまでも余白が広がるだけだった。たった一本の線ですら白い画面の中に引けやしない。絵を描く時に感じていた、胸が高鳴るような快感は失われてしまった。たぶん、永遠に。

 なのに、お向かいの家に寄宿するお婆ちゃんはわたしを呼び止めて言うのだ。

「あんたは嘘つきだねえ」

 何度も何度も。わたしを焚きつけるように。


 学校帰り。この日もお婆ちゃんは庭に出ていた。

 お婆ちゃん、といっても、わたしの祖母ではない。白い着物に車椅子。小さな肩に薄い織物のストールを巻いて、膝の上にじょうろを載せている。

 朝も会ったのに、夕方になってもまた顔を合わせてしまう。まるでわたしの行動に合わせているかのような遭遇で気味がわるい。

「嘘なんてついてません」

「あたしゃ嘘は言わないよ。だけどあんたは自分自身に嘘をついて騙してる。だから嘘つきと呼ぶんだ」

「誹謗中傷ですよ」

「キヒヒヒヒッ!」

 おかしな人。笑い方まで狂ってる。

「嘘つきのお嬢さん。堅苦しく生きてたら、長生きできないよ」

「わたしたちの世代は、長生きしてもいいことないと思います。日本の人口のほとんどは高齢者で、それを背負わなきゃいけない世代の苦労を、国は見て見ぬ振りしてるし」

 わたしの文句にお婆さんはケラケラと楽しそうに笑った。話し相手がいるだけで嬉しいのかもしれない。

「あたしにゃすぐお迎えがくるさ。でもね、世の中のせいにして言い訳ばかり積んでも、さびしい人間になるだけだよ。さびしい人間には悪霊がとりつくんだ。あんたもせいぜい気をつけるんだね」

 むっと顔をしかめたわたしは、くるりとお婆ちゃんに背を向けた。肩を怒らせ、大股歩きで自宅の玄関へ突進する。

「悪霊って、なんじゃそら!」

 背中にまだお婆ちゃんの視線を感じながら、勢いよくドアを閉めた。


 我が家にその噂をもたらしたのは母だった。

「向かいの市村さん、霊能者のお年寄りを引き取ったんだって」

「霊能? どっかの宗教か? きな臭いなあ」

 父は眉をひそめたけれど、ごはんをつつく箸は止めない。そういうところがメタボ体型の原因なのだと、わたしは意地の悪い視線をむけた。

「親戚ってわけでもないらしくて……まさか詐欺じゃないわよねえ。あのお家、少し前に階段をスロープに変えたでしょ? このためだったのよ。ちょっとびっくり!」

 母のいう「ちょっとびっくり」は、桜が咲いたとか、月が綺麗ね、という意味でも使われる口癖で、本当にいつも大したことはない。だが、今日のこの話題ばかりは闇が深いなと思った。「ちょっとびっくり」なんて規模じゃ足りないだろ。お向かいのお宅が霊能者のお年寄りに乗っ取られようとしているのだから。

 拝み屋だか霊能者だかというお年寄りは、お向かいのご主人が仕事に出かけているあいだ、車椅子でふらふらと庭へ出ては、お茶を飲んだり、道ゆく人に声をかけたりしていた。近所の人たちはみんな少し遠巻きにしている。うさんくさい噂が広まっている証拠だ。

 しかしお婆ちゃんも歴戦の猛者。薄気味わるいものを覗き見るような人に対し、キヒヒヒッと悪魔めいた笑いで応戦している。おまけに洋装ではなく白い着物を着ているものだから雰囲気たっぷりだ。真夜中に遭遇したら間違いなくあのお婆ちゃん自身を幽霊だと誤認するだろう。

 お婆ちゃんは一定のルーティーンに則って生活していた。朝と夕方、柄杓で庭に水をまき、なにやら怪しい呪文を唱え、庭の片隅の小さなお社に手を合わせて祈る。わたしは学校の行き帰りにほぼ毎日遭遇してしまうので、一連の行動パターンをごく自然に把握していた。

 小柄でしわくちゃなお婆ちゃんがお社に手を合わせるすがたを、わたしは可哀想なものを見る目で眺めていた。若い頃、学校に行けなかったのかもしれない。だからこんな不気味で無知蒙昧な、迷信でできた世界に生きているのだ。

 お婆ちゃんが寄宿しているお家のご主人・市村のおじさんは、穏やかなナイスミドルだった。良い人だけどこんなお婆ちゃんを囲うなんてどうかしている。宗教だかなんだか知らないけど、市村のおじさんが怪しげなものを信じているという事実が、わたしには許し難い裏切りのように感じられた。


 友人に不気味なお婆ちゃんのことを愚痴ると、「その話もっと詳しく!」と鼻息荒くねだられた。

「いいなー霊能者。一生かかっても出会えない職業ナンバーワンだよ」

「わたしはもう会いたくない」

「あんたって子は。ロマンを感じないのか? あっ、なんか私、創作意欲湧いてきた」

 友人はこの秋から文芸部の部長になった。文化祭で出す部誌の原稿が大詰めらしい。

「……自分の書いた小説を発表するのって、怖くない?」

「なんで?」

「否定的な反応されたらイヤだなーとか、気になんないの?」

「そういうのはないな。ていうか……」と言葉尻を濁した。眉尻を下げ、困り顔をした友人がぽりぽりと頬を掻く。

「高校の文芸部が書く小説なんて、読者はめっちゃ少ないんよ」

 無名の著者のオリジナル作品を読もうという一般の人は少ない。純粋に人からの反応が欲しければ、二次創作を書いてネットで発表するといい。けれど部としては、二次創作を認めてはいない。我が校の文芸部は、一人一人の部員に独自の文学性を追求させる硬派な集まりなのだ。

「もの好きな友達とか、文章を読むのが苦にならない人とかね。読む人は限られてる。イラストやマンガならパッと見て伝わるものがあるだろうけど、小説は付き合うのに時間がかかるからね。そこはもう、しょうがない」

 文芸部の部室には、毎年売れ残った部誌のバックナンバーが入った段ボールが積み重なっている。新刊を出した時に、過去のバックナンバーも押し付けるようにプレゼントしているのだそうだ。

「アンチは怖いけど、反応もらえるならマイナスな感想でも大歓迎しちゃうな」

 だってそれは作品に向き合ってもらえたってことだから。といって、友人は昼食の焼きそばパンを頬張った。もぐもぐと咀嚼しながら、りんごジュースのストローをビニールから取り出し、銀の穴に突き刺す。

「たった一人の読者しかいなくても、その人が私の作品に向き合ってくれたんなら、それが私にとっての成功だしベストセラーなんだよ。一人の読者が時間をかけて寄り添ってくれる。読者と作品とのタイマンが、小説の魅力なんだ」

 彼女の意見はわたしにとって新鮮な水だ。渇いた喉をたっぷりと潤してくれる。

「イラスト描ける人を羨ましくも思うよ。絵の世界はひと目見ただけで、迫力とか感動とか、言葉以上に伝わるものでしょ。でもそれは諸刃の剣でもある。一瞬で消費されて、じっくり味わってくれる人は少なそう。たくさんの人に伝わる表現だからこそ、それで損する部分もあるんじゃないかな」

「なるほどね。絵描きは損か」

「小説家の僻みだよ」と、友人は鼻に皺を寄せて笑った。


 また「嘘つき」と言われた。わたしは憐れみを込めた視線をお婆ちゃんにむける。

「なんで霊能者なんかやってるんですか? うさんくさいって嫌われるのに」

「これはご挨拶だね。神様のおぼしめしだよ。神様があたしを依代として選ばれたんだ」

「神様の言うことならなんでも聞く? 神様が死ねと言ったら、あなたは死ぬ?」

「ああそうさ。それがおぼしめしならね」

「わたしはそんな人生イヤだな」

「いやもなにもない。この人生は、あたしのための命じゃないんだ。誰かのための人生なんだ。あたしは人を助けたくて、神様にお仕えするようになったんだからね」

「だったら、お医者さんか看護師さんになるべきだった。そしたらみんな、あなたのこと褒めたと思う」

「おやおや。あんたは人に褒められたくて人生を決めるのかい。けったいなことだ」

 わたしのことを、右も左も分からない、よちよち歩きのひよこだとでも思っているらしい。ケタケタとお婆ちゃんはわたしを見て笑った。笑えば笑うほど、ますます妖怪じみてゆく。

「これから神様をたたえる祝詞をあげるよ。見物していくなら料金もらおうか? 十分、壱万円だ」

 片眉を上げ、手で札束を数える仕草をする。──詐欺師。わたしは声を出さずにつぶやいた。


「……そんで、いきなりお経、じゃないや、祝詞? が始まるんだもん。やってらんないよ」

『生のご祈祷聞いたん? ありがたみ〜! でもあれだね、今時は霊能者も社畜なんだね。社畜っつうか、神畜?』

「言えてる。神様の言うことならなんでも受け入れるんだって。わたし、あの人見てると虚しくなる」

『信仰は人を強くするからなあ。信じるって、誰にでもできることじゃないし』

「うーん、わたしには不自由に思えるけど」

『本人がやりがい感じてるんならいいんじゃない? うちのばあちゃんなんか今になってじいちゃんに離婚通告してるよ。あんたを信じたのは間違いだった、とかいって』

「痴話喧嘩じゃないの?」

『ちがうちがう、積年の恨みが爆発したの。じいちゃん女関係派手だったからなー。神秘の力をうちの祖母にも分けてほしいわ』

 友人との通話を切ってスマホを充電した。待ち受け画面に表示された日付をながめて、そろそろ文化祭が近いなとため息をつく。特にやりたいことも持ち合わせないわたしは帰宅部だ。誰かの情熱もどこ吹く風。文化祭もサボる口実がない限りは友人の手伝いをして過ごすつもりだった。

 ベッドに寝転ぶと、気がつけば手を動かしている。空中をキャンバスにして指を動かし、なにか無心に線を描こうとする。そのたび、「あーやめやめ」と寝返りを打って、枕に顔を押し付ける。こんなことを、もう二年くらい繰り返していた。自分だって分かっている。絵が描きたい。ペンを持ちたい。お絵描きが好きなんだ。それでも、どうしようもなく怖い。

 その夜、わたしは夢をみた。神絵師になる夢だ。イラストをたくさん描いて、たくさんの人にその絵を見てもらって、わたしの絵が世界中の人たちから「いいね」と言ってもらえる、そんな夢だった。わたしは頭の隅っこで「ここは夢だ」と理解していた。夢の中の成功は目が覚めたら消えてしまう。覚めないでほしい。でも、覚めるなら早く覚めたい。どうせ傷つくのなら、浅い傷のほうがよかった。

 ふいに、からんと鈴の鳴る音がした。神社にあるような鈴の音。背後をふりむくと、見覚えのある影がゆらゆらと揺れている。白装束のお婆ちゃんがわたしを指差していた。

『ほらね。あんたは絵を描きたいんだろ。自分に嘘つくんじゃないよ。自分で自分を苦しめたら、神様も悲しむ』

 お婆ちゃんの指先は土でよごれていた。もう片方の手には花の苗のようなものを抱えている。萎びたような、小さくてか弱い苗だった。ザザア、と強い風が吹いて、がらがらがら、と鈴が激しく鳴った。そこでふっと眠りから覚醒した。

 何百枚もの絵を描いたはずだったが、現実に戻ったわたしの手には当然、何も残っていない。受け入れるのは意外にも時間がかかった。夢だと理解しているのに、胸の中がすうっと冷たくなって息をするのが苦しくて悲しくて、わたしはこの朝、少しだけ布団の中で泣いた。


 窓の外は騒がしく、夜になっても人の気配が尽きない。誰が予想できただろうか。あのお婆ちゃんの予言が当たってしまうとは。

 すべての始まりはたった一言だったという。

「あんたの家は焦げ臭いねえ」

 お婆ちゃんは通りがかりの婦人を呼び止めて、鋭い眼光でそう告げた。胸騒ぎを覚えたそのご婦人は急足で家まで戻った。火は台所を焦がす程度で収まり、どこにも燃え広がりはしなかったという。ありがとうございましたと高級羊羹店の紙袋を下げて礼に赴くと、

「おたくの神様が怒ってるよ。あんたたち、なにか余計なことをしたね?」と怒りのこもった眼差しをむけられた。どうして責められるのか分からず、ご婦人はムカッとしたが、数日前、家人が桜の古木を切ったことを思い出した。

「その木は神様のお家だった。あんたたちは自分で災いを招いたんだ」

 お婆ちゃんは怒りをやわらげて、優しい口調でアドバイスをした。

「一度、お宅に神主さんを呼びなさい。それからもう一度、同じ木を植えるように」

 この出来事が分水嶺になった。

「あそこの霊能者は本物! みんな観てもらいなさいよ!」とご婦人が喧伝し、興味本位の野次馬と信者めいた人たちが市村家の周囲にたむろするようになったのだ。その市村家から、通りを挟んだすぐ向かいに我が家はある。

「ここもうるさくなってしまった。神様も文句をおっしゃっている。すまないね。でもすぐ、あたしは出ていくことになる」

 何日かぶりに顔を合わせたお婆ちゃんは、小さななで肩をいつもよりさらに落としていて、すごく疲れているように見えた。

「もうすぐ、あんたともお別れさ」


 母が肩まわりのストレッチをしながら言う。

「今朝、市村さんが謝りに来たわ。あんな騒ぎになってんだから当然だわよね」

 お父さんはどうでもよさそうな顔で聞き流していた。

 両親とも、霊能者などただの詐欺師だと思っている。わたしもその考えは否定しないけど、両親のように対岸の火事でも見るような態度でいるのは、わたしの中の何かが強く抵抗していた。不思議な力の虜になったわけでもなく、お婆ちゃんに絆されたのでもない。食後は親子揃ってのんべんだらりと過ごすのだが、この夜ばかりは早々と自室に引き上げたくなった。

「わたしもう寝るね」

「あら、めずらしい。おやすみ」


 すこんと眠りに落ちたはずが、繰り返すアラームを全無視して寝坊した。おかげで遅刻寸前、ローファーを履くのももどかしくドアを開け、リュックを片手に家を飛び出した。

 こういう時に限って捕まってしまう。あの人が庭の柵越しに「おおい、おおい」と大声で呼ぶので、取り巻きの人が気を遣ってわたしを呼びにきた。

「大先生があなたを呼んでいらっしゃいます」

 お婆ちゃんはいつの間にやら大先生と呼ばれていた。大先生という称号はわたしには少し悲しく聞こえた。

「遅刻しちゃうんですけど!」と焦るわたしに、お婆ちゃんは「手短にするから」といつになく食い下がる。その必死さに呑まれて、あまり強く出れなかった。基本的にわたしはお年寄りが好きだ。わたしの祖父母が優しい人たちだったから。

「もう少しあんたとは話しておかないとならないんだ。あたしを詐欺師だと思うのも自由だし、おまえさんの勝手だが、ぼうっと暮らす人ほど可哀想なもんはない。いいかい? チャンスがまわってきたら迷わずに飛び込みなさい。受け入れるんだよ。迷ったらお陀仏だ」

「お陀仏って……縁起でもない。おとなが思うより高校生って忙しいんだよ? 受験だってあるし」

「受験ってのがあんたのやりたいことかい? 受験が人生でいちばん大事?」

「やりたいことだけやれる人なんていない。必要だからやるんだ」

「必要なことだけやろうっていうのかい? だったら、生き物は息を吸って吐くだけで十分だろう?」

「何が大事かなんてわからない。受験だって大事だからやってる。せめて大学は行かないと、今の世の中じゃ確実に人生詰むんだよ」

「そりゃおかしいねえ。あんたはまだ女学生で、親元から巣立ってもいないひよっこで、やりたいことなんてやろうともしてないだろう。自分の考えを親に伝えることすらしていない。諦めたり怖がったりして、いつまでひよこでいるんだ? そいつは子供としての怠慢じゃないのかい」

「べつに、やりたいことなんて……」

「怖いんだろう。自分の心にしたがうことが。子供じゃないってんなら、まずは怖がらないことだ。あんたには立派なご先祖さまがついてる。ちびたクレヨンでおじいとおばあの絵を描いてくれたって、あんたを見守ってるよ」

「ちょっと待って、受験の話からいきなりご先祖の話題? 意味わかんない!」

「誤魔化して生きるなってことさ。心が騒いだら素直にしたがうんだ。思いっきり何かに夢中になってるすがたを、ご先祖さまは応援してくれる。あんたの夢を、叶えたいと思っていらっしゃる……!」

 わたしたちの話が加熱していくにつれ、日は翳り、雲の流れが早くなっていった。ぽつっと、冷たい水滴が鼻の頭に落ちる。

「もう行きます」

 まだ何か話そうとするお婆ちゃんを振り切り、わたしは走り出した。雨足が徐々に強まるなか、さっきの会話が脳裏をよぎる。

『ちびたクレヨンでおじいとおばあの絵を描いてくれたって……』

 クレヨンで描いた絵のこと。あれはわたしのおじいちゃん、おばあちゃんとの思い出だ。小さい頃、祖父母がクレヨンや塗り絵鉛筆、スケッチブックを誕生日に送ってくれた。お絵描きが好きになったのはまさしくそれがきっかけだ。幼稚園児だったわたしのセンスが爆発した抽象的な線画を祖父母に送ったら、祖父が画像をプリンタに読み込んで、お揃いのTシャツに仕立ててくれたっけ。

 母方の祖父母はわたしが中学に入る前に相次いで亡くなってしまった。祖父母は、わたしの絵のファン第一号だった。


 その日からしばらく大雨が続いた。二つ立て続けに日本列島を通り抜ける台風の影響で、二週間近くお日さまは出てこなかった。心配した母がわざわざ車を出して高校まで送ってくれる日もあったが、あのお婆ちゃんはどんなにひどい雨の日でも白装束を着て庭に出て、お祈りを欠かさなかった。


 文化祭まで三週間前を切った頃だった。友人が焼きそばパンを食べながら、しくしくと泣き出した。

 困ったことに、「食べる」と「泣く」とを人は同時に行えない。友人は一瞬呼吸困難に陥ったがなんとか喋れるまでに回復したため、わけを訊ねた。

「文芸同人誌の発行がダメになった?」

「実行委員と、トラブった……」

 活動実績が多いとはいえない文芸部が、美術部や他の文化部と比べてずいぶん高い予算を文化祭に注ぎ込むのを問題視されたのだという。文化祭で使う文芸部の予算が突出して高いのは、部誌を刷るためだ。しかし代替わりした実行委員長は「文芸部は受賞歴もない。他の文化部に悪いと思わないのか」と容赦なくダメ出しを突きつけた。いちゃもんである。弱きを叩くことで仕事した気になっているパワハラ委員長だ。

 実りのない議論に明け暮れるうち、製作の助っ人を呼ぶのが難しくなってしまった。表紙を飾るイラストの描き手が確保できなかったのだ。

「このままじゃ部誌がショボくなる。みんなもういいよ、地味でも平気だよっていうけど、だけど私は、先輩にも後輩にも申し訳が立たない。やりきれんよ……文化祭が唯一の見せ場なのに」

 友人は焼きそばパンを抱きしめ、声を絞り出すようにしてしゃくりあげた。

 その時、校庭から強い風が吹きつけた。窓ガラスがバシンと揺さぶられ、窓際に座っていたわたしたちを、膨らんだ白いカーテンが呑み込んだ。どこかで鈴の鳴る音がする。わたしの耳奥にからころと響いてくる。

「……すごい風だったね」

 乱れた髪を直す友人の横顔を眺めながら、無意識のうちに言葉が口をついて出た。

「わたし、中学の頃イラスト描いてたの」

「そうなん?」

「絵師、やってたんだ。辞めちゃったけど」

「初耳だ」

「うん、初めて言った。……同人誌の表紙、描いてみたい。描いてみたいって、思った」

 友人がわたしを見つめたまま、ごくんと喉を鳴らした。

「金曜までに描ける? 入稿まで、あと四日」

「できる。任せて」

 我が校の文化祭には生徒で決めるスローガンがあって、今年は『花も実もあるスクールライフ!』に決まった。文芸部からの注文は、高校生と花のイラストを表紙に採り入れてくれ、というものだ。校舎の屋上から掛けられた垂れ幕にもスローガンが印字されている。「花も実もある」というのは慣用句で、外も中も充実していること。名実兼備、とかそういう意味だ。

 頭のなかで芽吹いた種を育ててみる。空へ駆け上がってゆく生徒が起こす風と、秋の花が舞い上がる風景……。

 怖がるな。わたしはできる。絶対、また描ける。だってずっと描きたかった。また描きたいと願っていたのだから。


 帰宅途中、お向かいの庭を柵越しにちらりと覗いてみた。やっぱりいない。いつも使っていた車椅子も見当たらなかった。もう市村さんのお家にはいないんだろうか。お庭にできた水たまりが鏡のように鈍色の空を映して揺らめいていた。

「不本意ながら、あなたの言うとおりにしてみたんですがー」

 歌うようにつぶやいたけど、報告する相手がいなくて気持ちが空回りそうになる。家に帰ったらまず、机の引き出しからタブレットを出そう。リュックのストラップを握りしめ、わたしは自分を奮い立たせた。


「あら、あんた」

 掃除機を持って部屋に入ってきた母が、わたしを見て驚いたように声を上げた。

「また絵、描き始めたんだ?」

「……文化祭のお手伝い」

「いいわ、すごくいいじゃないの。母さん、あんたの絵、好きだよ」

 わたしの絵が好き?

 今まで褒めたこともないくせに、皮肉屋の母がそんなことをいうなんて。かなりびっくりしたわたしは、だまってペンを動かし続けた。母もだまって掃除機をかけたあと、静かに部屋を出て行った。


 夕飯のかぼちゃコロッケにソースをかけていたら、「そういえば」と母が思い出したように切り出した。

 昼間市村さん家に救急車がきて、霊能者のお婆ちゃんが市民病院へ運ばれた。そのまま入院しているらしい。頭をがつんと殴られた気がした。

「ふつうに元気そうだったのに……」

「ご高齢だし、持病だってあるんでしょう」

 市村さんのお宅にあのお婆ちゃんが帰ってくることはなかった。翌日、市村さんが挨拶にいらして、亡くなったことを教えてくれた。「お世話になりました」と、市村さんはわたしにも頭を下げて帰っていった。おとなたちはみな、霊能者騒動にそっと幕を引いた。


 今朝もいつもの時間に家を出た。家の前の道をわたると、わたしの足は自然と止まる。もはや習慣になっていた。

 柵越しに、誰もいない市村さん家の庭を見つめる。玄関先には見慣れた車椅子が折り畳まれて置かれていた。その近く、玄関の三和土のすぐ傍の花壇に小さな花が咲いていた。可憐な紫苑の花々がそよそよと揺れている。

 紫苑の花言葉は「追憶」「あなたを忘れない」。夢でみた、お婆ちゃんが手を土まみれにして植えた苗は、きっと紫苑だった。

「……大嫌い」

 わたしの声は、この世の誰にも届かない。淡い紫色をした小さな小菊を瞳に焼き付けるように眺めた後、道の先へと一歩、足を踏み出した。

 文化祭の同人誌、空いたスペースには紫苑の花を散らせよう。わたしが描きたいから描くんだ。あのお婆ちゃんのこと言えた義理じゃない。わたしも大概な人間だと思う。理解などしたくもないし、思い出してなどやるものか。だけど。

 わたしはあなたを忘れない。

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