欲
都には、鳥たちが都に身を潜める時の為の定宿がある。一見ただの旅籠で普通の泊り客もいるが、彼らが立ち入ることのない一画があるのだ。
不完全燃焼のまま巴の家を出たカラスはねぐらに真っ直ぐに戻る気になれず、街をぶらついているうちにとっぷりと夜は更けていた。
なぜ殺さないのか。
腹立たしいことに、あの小娘は、会うたびにそれを問うてくる。
殺されたいのかと訊けば、そうではないと言う。
やけっぱちになっているのならまだしも、淡々と、至極冷めた態度しか見せやしない。
彼女がどんな反応を見せれば満足できるのか自分でもよく判らなくなってきているが、少なくとも、あれではない。
(くそ)
とにかくあの娘の何もかもが腹立たしく、あてがわれた部屋へ向かいながらカラスは口の中で罵った。
と、その時。
「あら、カラス」
まとわりつくような声で、名を呼ばれる。
チラリとそちらへ眼を走らせると、婀娜っぽい笑みがあった。
翡翠の髪に紫水晶の瞳――カワセミだ。
確か、今朝まではいなかったはずだが、彼女の動向などカラスには関係がないことだ。
視線を戻してそのまま歩き去ろうとしたカラスだったが、そんな素っ気ない態度を気にしたふうもなく、カワセミはまとわりついてくる。彼の肘に手をかけ、足を止めさせた。
「ねえ、ちょっと、聞いたわよ?」
いかにも意味深な口調で彼女はそう水を向けてくるが、カラスは他人が見聞きしたことになど、興味はない。
絡まるカワセミの手から自分の腕を引き抜いて、歩き出した。
が。
「もう! ……まあ、そんな態度でもしょうがないわよね。モズに仕事取られちゃったんでしょ?」
カワセミの台詞に、ピタリと立ち止まった。
「――はぁ?」
振り向いたカラスに、彼女はクスクスと目を細めて笑う。
「ほら、子爵令嬢の仕事。さっき『鳥籠』から下知が届いて、聞くなりモズが飛び出してったわよ」
「何だ、そりゃ」
目付きを険しくした彼に、カワセミは手にした扇で口元を隠して続ける。あら、コワイ、と呟きながら。
「あんたがあんまり遅いから、フクロウがモズに回したんでしょ? 知らなかったの?」
彼女のその台詞に、カラスはギリ、と奥歯を噛み締める。
――勝手な、真似を。
腹の奥に渦巻いた焼け付くような何かが、奔流となってカラスの全身を駆け巡った。今、目の前にフクロウが立っていたら、一瞬のためらいもなくその首をへし折っていただろう。
彼の顔を見たカワセミが、ふと眉をひそめる。
「ちょっと、そんなに怒らなくてもいいじゃない? 十日もぐずぐずしていたあんたが悪いんでしょう? あいつに獲物を掻っ攫われて腹が立つのは解かるけどさ」
宥めるような、カワセミの声。だが、自分のこれは、果たして獲物を横取りされた怒りなのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。別に、何も感じない。
では、いったい何なのだ。
握った拳に更に力を込めてカラスは答えを探したが、尻尾の先すら見えてこない。そもそも、彼が何かを感じることも、そうそうあることではないのだ。
答えが見つからずに苛々としたままのカラスに、カワセミが更に続ける。彼のイラつくさまを楽しんでいるのではないだろうかという笑みを浮かべて。
「でも、あんたがあんなに手間取っていたのに、モズがやれるのかしらねぇ? 何がそんなに手強かったの? 腕利きの護衛でもいた?」
「そんなのはいない」
「へえ、じゃ、何でやらなかったのよ。命乞いでもされて、ほだされた?」
むしろその逆だとも言えず、カラスは押し黙る。そうして、巴の部屋に立つモズの姿を思い浮かべた。
胸のざわつきが、いっそう強くなる。
殺す気になれば、あんな子どもなど一瞬だ。仔猫の首を折るよりも簡単に息の根を止められる。きっと、モズであれば、獲物が気付く間もなく終わらせることができるに違いない。いや、彼はそうしないだろう。あの男は、獲物をいたぶることを愉しむから。
巴が命乞いをしなければ、そうするまで苦痛を与えるはずだ。
――そう、巴は死ぬのだ。ボロ雑巾のように引き裂かれ。
紛れもない、変えようのない事実がカラスの目の前に突き付けられる。
その瞬間、赤い、彼女自身から生まれた血の海に倒れ伏す姿が彼の脳裏に浮かんだ。それは、痛みに近い疼きを、彼の胸にもたらす。
――嫌だ。
殆ど反射のように、そう思った。あの子どもには、まだ、『死にたくない』と言わせていない。あの甘い飴色の目にはふさわしくない、達観した眼差ししか見ていないのだ。
自覚した、欲。
まだ、死なせない――モズになど、くれてやらない。殺さずにいてやったのだから、アレは俺のものなのだ。
自分のものを奪われない為に抗うのは、至極当然のことだろう。
カラスはクルリと身を翻すと、出口へと向かう。
「ちょっと、カラス?」
呼び止めるカワセミの声を背中で弾き返し、カラスは走り出した。