諦念
ふとした拍子に感じる、人の気配。
それは、祖父と共に失われてしまったはずだった。そして、二度と手に入ることはないはずだった。
ともすれば視界の隅にチラチラと入り込む紅い髪に、巴はつい気を取られてしまう。
本当に、彼はいったい何をしにここに来るのだろう。
つくづくと、そう思う。
その気配をもたらしているのは、しょっちゅう姿を現すのに素っ気なくて、まるで懐いているのかいないのか判断しかねる野良猫のような人だ。
カラスと名乗ったその人が毎日のように姿を見せるようになったのは、十日ほど前のこと。三日前に来なかったことがあって、それきりになるのかと思ったら、また、現れた。
カラスは自分を殺しにきた人だと、彼自身がそう言った。けれども、最初に姿を現してからもう十日は過ぎたというのに、全然行動に移さず、意図の読めない行動をしたり、奇妙なことを訊いてきたりする。
今も、そうだ。
どうして目的を果たさないのかという至極当然な巴の問いに対して返してきたのは、「そんなに死にたいのか」という問い。
巴は唇を噛む。
(問いに問いを返すのは、ズルい)
挙句に、彼女の疑問には答えずに、また出て行ってしまった。まるで、巴の頭がおかしいような眼差しで見下ろしてから。
「絶対、あの人の方がおかしいんだから」
巴は、誰もいない部屋でボソリとこぼした。
本当に、良く解からない人だ。その解からなさに、時々、イライラする。
それなのに、彼が姿を見せるのを待っている気持ちもまた、この心の片隅にあるのだ。
祖父が亡くなって、巴は独りになった。屋敷の中に使用人はいるけれど、皆、忙しく立ち働いている。用もないのに彼女に声を掛けたり傍にいたりする暇がある者など、いない。
そんな時、彼が現れた。
何もせず、ただ巴の傍にいる、人。ただ同じ部屋に座っているだけで、温もりが伝わってくる。傍に誰かがいるのだという、温もりが。
彼は、いつ『終わり』にするつもりなのだろうか。
巴は手の中の繕い物に眼を落とす。これは祖父のものだ。もう着られることはなく、繕うのは無駄なことだと判っていても、つい手が伸びてしまう。
彼に答えたように、死に急いでいるわけではない。けっして。
けれど、必要とされないまま――疎まれたまま生き続けるのは、みっともない。皆がこの命を要らないというのなら、巴の存在が無い方が良いというのなら、さっさと消えるべきなのだ。
爵位をいただいても、本来、小早川は武家だ。武家は仕える者の為に在る。
その為には、家を栄えさせていかなければならないし、それは『私』よりも優先される。だから、巴は死を厭わない。
武家の娘とは、そうあるべきなのだ。
彼女には、父母の記憶はあまりない。頭を撫でてくれた時の父の大きくて温かな手と、抱き締めてくれた時の母の甘い香り――そのくらいだ。四つの時に亡くなった両親の代わりに、巴を育ててくれたのは祖父母だった。常にピンと背筋を伸ばしていた優しくも厳しい祖母の姿は、朧な母の記憶よりも、巴の目指す理想の女性像となった。幼い頃から聞かされてきた、『私』を滅して『公』に徹する若かりし頃の祖父の話は、巴に憧れにも似た気持ちを抱かせた。
自律し、身分に驕ることなく、潔く生きる。
けっして、醜く足掻くようなことがあってはならない。
そうすることが、両親の為に、そして祖父母の為に巴ができる、唯一のことだと彼女は思う。
カラスが差し向けられた理由を、巴は察している。
多分それは、自分の生い立ちにまつわるもの、だ。
もちろん、両親や祖父母から聞かされたものではない。
両親を喪って、この屋敷に連れてこられてから、祖父母の耳に届かぬ場所で囁かれていたことを聞き取り、巴はゆっくりと知っていったのだ。祖父母以外の親族が自分に向ける眼差しが冷やかなものである理由を。
どうしてそれが悪いことなのかを理解したわけではない。
けれど、身分がある家には不適切な事なのだということは、理解した。
それでも巴を慈しんでくれた祖父も、逝ってしまったのだ。小早川家で彼女の存在を許してくれていた者は、もう、いないのだ。
だから、巴は、この家の為に親族たちが自分の命を望むなら、この家に彼女がいない方がいいというのなら、抗わずにそれを受け入れる所存だ。
けれど、どうせ殺されるのなら、わずかな間とは言え、共に時を過ごしてくれたカラスがいい。
(それくらいの『私』は、許してもらえるでしょう?)
そんなふうに心の中で呟いて、巴は小さく息をついた。