終
絢嗣の実親に巴に対する依頼を取り下げさせるのは、そう難しいことではなかった。何故なら、彼らの欲が、『小早川家当主の座』ではなく、小早川家当主の座がもたらす『財力』に向けられていたからだ。
そもそも、今の小早川家の繁栄は、絢嗣の財力に依るところが大きいのだ。というよりも、それがなければ成り立たない。万一巴の身が害されたり命を落としたりするようなことがあれば、即刻、小早川家への支援をやめると絢嗣が公言した翌日に、依頼は撤回されたと『伏せ籠』から連絡があった。
もちろん、実親を赦さないという絢嗣の考えが、すんなりと覆されたわけではない。
絢嗣がその決断に至ったのは、ひとえに、両親を害そうとするのをやめてくれと巴に泣いて乞われたからだった。ボロ泣きされたわけではないが、涙で目を潤ませての『お願い』を、あの男が拒めるはずがなかった。
彼が考えを変えてくれたことを巴は単純に喜んでいたが、いずれにせよ、小川家の未来は明るいものではなかろうなと、カラスは思った。嬉しさのあまりに絢嗣に飛びついた巴を抱き締め返した彼の眼の中には、かなり不穏な色が浮かんでいたのだから。
(まあ、赦すわけがないよな)
安堵で顔を綻ばす巴を横目で見ながら、カラスは胸の内で呟く。何なら、この件についてだけは、彼が手を貸してやってもいいと思ったくらいだ。
一方、カラスが意外に思ったのは、絢嗣が巴の旅を許したことだった。
「一度『外』を見てきなさい」
『伏せ籠』からの依頼取りやめの報せを受けたその夜、絢嗣は巴に向けてそう言った。
「君の存在意義は、当主であることだけではないんだよ。当主になることが、君の全てではないんだ」
「ですが、おじいさまは、本当はお父さまにこの家を継いで欲しかったのでしょう? お父さま亡き今、わたくしがそれを果たすべきだと、ずっと思っていました。小早川の家を守るのが、わたくしの責務、おじいさまが望まれていたことだと……」
自信なく尻すぼみに言った巴に、絢嗣は微笑みながら答える。
「おじい様は君に矜持を教えた。家を――他者を守れ、誰にも恥じぬ己でいろ、とね。だがそれは、君が生きていく為の『杖』になるようにと願ってのことだよ」
「杖、ですか?」
巴の眉根が寄る。そんな彼女の頬を、絢嗣は手のひらで包んだ。
「そう、『杖』、だ。『鎖』じゃない。おじい様が教えた矜持は君を支える為のものであって、縛る為のものではないんだよ。それを頼りに、自分に恥じぬよう生きていく。それが、おじい様が君に望まれたことだよ。おじい様はどうやってもご自身が先に逝かざるを得ないことを――君を独りにすることを、とても憂いていた。そして、独りになっても前を向いて、背筋を伸ばして歩いて行ってくれることを、何よりも望んでおられたよ」
そう告げて、絢嗣は巴から手を離す。
「知識と経験は選択肢を拡げるものだよ。君は、これまで小早川の家の中のことしか知らなかった。君自身が言っていたように、家の外を――もっと広い世界を見て、様々なことを知って、君の前にある数多の道の中からこの家を選ぼうと思えたなら、その時こそ、この家を背負うために帰ってきなさい」
それまで小早川の家は自分が預かるよと言って、絢嗣は微笑んだのだ。
あれから、十日。
「で、どこに行く?」
相も変わらず賑やかな都の大通りを歩きながら、カワセミが巴に問うた。その向こうには、トビもいる。
正直、カラスにとっては邪魔くさいことこの上ない。だが、仕方がない。
絢嗣は、巴がカラスと旅に出ることを許した。カラスは別に彼の許可など必要なかったし、許されなければ勝手に巴を搔っ攫っていくだけのことだったが、彼女にとっては大事なことだったらしい。
まあ、明らかに大手を振って賛成しているようには見えなかったが、とにもかくにも、二人が共にあることを、絢嗣は受け入れた――条件付きで。
その条件の一つが、カワセミとトビが同行することで、二人は、よく言えば巴の護衛、はっきり言えばお目付け役として、正式に絢嗣に雇われたのだ。
そしてもう一つは、月に一度は彼の許へ近況報告の便りを送ることだった。その為に、連絡用の鳥まで渡された。今もグルグル上空を舞っている。それがまるで絢嗣自身の監視の目のようで、カラスは何だかムカついた。
鳥を睨み上げるカラスをよそに、トビとカワセミが和気あいあいと盛り上がる。
「これから暑くなるんだし、北に行くのもいいんじゃないの?」
「あら、いいわね。北都とか、いっそ、北の果てに行ってみるとか?」
トビとカワセミはカラスにとっていないも同然だ。彼らのことは存在そのものを無視して、カラスは巴を見下ろす。
「まだ海を見ていないだろ」
峠でカワセミと行き会わなければ、今頃西都で海を見ているか、あるいは南都まで行って船に乗っているか、だったはずだ。
カラスの言葉に、一人考え込む素振りをしていた巴が彼を振り返る。
「あの、それなのですが、南都に行っても良いですか?」
「南都? 着く頃には滅茶苦茶暑くなってるけど」
嫌そうに言ったトビの隣で、カワセミが足を止めた。つられて立ち止まった巴を、まじまじと見つめている。
「南都って、それ、もしかしてあたしの為?」
瞬きを一つしてそう尋ねたカワセミに、巴が頷く。
「はい。絢嗣兄さまからうかがった、南都におられる異国の医学を修めてきたお医者さまにお会いしてみようかと。カワセミさんのお身体を治す術をご存じかもしれません」
「それはお前のしたいことじゃなくて、そいつがしたいことじゃねぇの?」
カワセミを眼で示しながらカラスが言うと、巴はかぶりを振った。
「いいえ、わたくしがしたいことです。お医者さまにお会いして、海を見て、もしかして、船にも乗るかもしれません。今、わたくしがしたいと思っていることが、全部できます。南都まで行ったら、そこでまた、次のしたいことが見つかるかもしれません。楽しみです」
そう言って嬉しそうに笑った巴のことが、正直、カラスは理解できなかった。
自由に動いていいと言われているのに、結局、根っこにあるのは『他人の為』なのか。
だが、まあいいか、とも思う。
取り敢えず、巴が笑っているのだから。
「行くぞ」
短く呼びかけたカラスに、「はい」と明るく響く声が応える。
見上げれば、出会った頃の雪空が、今は青く晴れ渡り、春の温かな陽射しで満たされていた。
完結です。
11年かけてようやく終わらせることができました。
本当は、もう少し恋愛要素が入る予定だったのですが、如何せん、巴が幼過ぎました。
そうなるには、少なくともあと三年は、カラスにお預け食らわせねばですね。
中断期間が長くて、お待ちになってくださった方には申し訳ないことをしました。
数年のブランクにも関わらず最後までお付き合いくださったこと、本当にありがとうございます。
少しでも読んで良かったと思っていただければ、何よりです。
元々は、今はなき『のべプロ』というサイトで、イラスト絡みで始めたお話です。
https://pnwkd108.wixsite.com/antiquesun/material?lightbox=image20eq
でイラストがご覧になれます。
また、当サイトのウバクロネさまが、素敵な作品紹介付きでカラスを描いてくださいました。
https://ncode.syosetu.com/n8252hi/119/
それでは、最後までお付き合いいただき、重ねてありがとうございました。
ご縁がありましたら、また。




